【キャスター津田より】7月10日放送「福島県 南相馬市」

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 今回は、福島県南相馬(みなみそうま)市です。人口は52000あまりで、原発事故と津波の両方の被害を受けました。津波では、県内で最多となる636人が犠牲になっています。
 市内は、北から鹿島(かしま)区、原町(はらまち)区、小高(おだか)区の3つに分かれていて、最初に小高区で取材しました。小高区は福島第一原発から20㎞圏内で、国の避難指示により、全住民が避難を余儀なくされました。ちょうど5年前(2016年7月)に避難指示が解除されましたが、いま実際に小高区で暮らす人の数は、震災前の3割に過ぎません。

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それでも生鮮食料品と日用品を扱う商業施設や“小高交流センター”がオープンし、センターの中には交流スペースに飲食店、地元農産物の直売所もあります。個人商店、コンビニ、ホームセンター、銀行なども営業し、2017年には幼稚園と小中学校が再開したほか、小高産業技術高校が開校しました。コメや大豆、タマネギなどの栽培も少しずつ行われており、今後は市が19億円をかけ、稲の育苗やキュウリ栽培を行う大規模施設をつくる予定です。

 

 はじめに、小高区で唯一営業を再開したタクシー会社に行きました。

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3代目の30代の男性は、以前は隣町で建設資材の営業職をしていましたが、5年前、家業を継ごうと戻ってきました。避難先の山形県で知り合った女性と結婚し、今では3児の父です。遠方の小中学生のためのスクールバスや、乗り合いタクシーの事業が経営を支えています。

 「解除になって間もない時、人も少なかったので、配車依頼の電話が本当に鳴らない時期があって、3日間鳴らないこともあったんですけど、その時にあるおじいさんが、(タクシーで)“アイスを買いに行きたい”って言うんですよ。それは、おじいさんの優しさだと思うんです。こっちがヒマなのを分かっていて、応援というか“頑張れよ”みたいな…。店で私の分もアイスを買ってきて、そこで一緒に食べて帰るんですよ。それでいっぱいお金を使うんですよ。この話をすると、いつも泣けてきてダメなんです。人のために生きたいですね…。人のために何かできないかって思ったのは、震災があったからだと思います。できるのはお客さんを送ることですけど、地域への貢献はやっていきたいです」

 また、2年前に小高区中心部にオープンした“小高交流センター”にも行きました。

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小高区の人口の43%が高齢者で、センターでは毎週金曜日、高齢者のための体操教室が開かれています(7月8日以降は市内の感染拡大を受けて休止に)。ある参加者は、“近所はみんな避難して帰ってこないから、しゃべる人がいないけど、ここに来ればみんなと会えて楽しい”と言いました。講師は南相馬市出身の30代の女性で、原町区の病院に勤める理学療法士です。以前はいわき市の病院にいましたが、震災翌年、Uターンしました。訪問リハビリで仮設住宅を回るなど、一貫して被災者に寄り添ってきました。

 「医療従事者や介護系の仕事をしている友達から、避難によって人手不足になっているという話も聞いたんで、自分ができる形で、ふるさとに何か協力できればと考えて戻ってきました。実際に皆さんと関わりを持つことで、逆に自分が元気をもらうことが多いので、“つながりを作る”というのは大事だなと思います。仕事の枠だけではなくて、地域活動などにも目を向けられるようになったので、一歩踏み出してよかったと思いますね」

 そして、原発事故から2か月後の避難所で会った、小高区の若い男性を再び訪ねました。当時は、埼玉県に避難した祖母に会ってきたばかりだと言いながら、こう続けました。

 「震災から2か月が経ちますが、まだこういう避難所で生活している人がいることを忘れないでください。埼玉の(平穏な)光景を見ていると、こうやって震災があったことも原発事故があったことも、時間がたつと忘れられていくのかなと思ったんで…。原発事故はどうしようもなくて、帰りたくても帰れない状況なんで、やっぱり悔しい部分はあります」

 今回、10年ぶりに男性に連絡を取ると、小高区を離れ、原町区の住宅街で暮らしていました。40代になり、自動車整備工場の工場長として仕事も順調です。避難所で知り合った女性と震災翌年に結婚し、7年前にはマイホームも購入しました。小高区では借家住まいだったため、自分の家屋や土地はなく、その借家も解体された今となっては、ふるさとに戻る選択肢はないと言いました。

 「当時はやっぱり、やり場のない気持ちがありましたからね…。震災後は自分の周りの環境はかなり変わりましたね。でも、まだ苦しんでいる方もいるのに、自分だけ幸せになってていいのかという思いもあるんです。そういう罪悪感がありますね。たまに小高区に行くと、もう全く昔の面影がないので、“この辺こうなったんだ”とか、“あの建物、解体したんだ”とか、ちょっと寂しくなりますね。“ここって前はどうなっていた?”って思うようになってきたので、忘れるのも怖いなって思いますね」

 

 その後、鹿島区に移って取材を続けました。鹿島区には避難指示は出ませんでしたが、津波の被害が甚大でした(市全体では沿岸部を中心に6700棟以上の建物が被災)。ここではまず、震災の2か月後に避難所で会った、60代の男性を再び訪ねました。原発事故の直後、南相馬市民を受け入れた新潟県燕(つばめ)市に避難し、その後、鹿島区に戻って避難所に入りました。当時はこう言いました。

 「津波で家を流失、ならびに大工なので道具も流失したわけなんです。新潟県の市長さんのお計らいで、大工道具を一式もらいましたので、支援してくれた皆さんに“ありがとう”と言いたいです。もらった道具はこれから使わないで、枕元に置いて、一生眺めて暮らしたいと思います」

 当時の混乱で連絡先の電話番号が分からなかったため、震災前の烏崎(からすざき)という住所を手掛かりに、今も地区に住む数少ない住民に聞き込みを行いました。

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その情報をもとに、男性が住んでいるらしい鹿島区内の住宅街に行き、一軒ずつ訪ね始めたところ、偶然にも最初の家が男性の家でした。聞けば、避難所の後は仮設住宅に入り、7年前、自らの手で新居を建築したそうです。70代となり、妻と長男の3人暮らしで、長女夫婦と2人の孫娘は、避難先の埼玉で生活を再建しました。男性は今も週2日、30分かけて烏崎地区に通っています。

 「もらった大工道具は、全部使わないのはよくないと思って、せっかくの贈り物を無にすることはできないから、この家を建てる時にノミは使ったんだ。ここでは隣組に入っているけど近所付き合いがないし、烏崎に63年いたから、できれば戻りたいね。今も(烏崎に)行くと、田んぼのあぜの草刈りをしたり、知り合いと“震災前はああだった、こうだった”って交流したり、これが楽しみなんだ。あと楽しみの1つは、孫だね。1つでも2つでも、これからよいことがありますようにと願っています」

 ちなみに贈られた大工道具を金物店で見てもらったところ、かなり高価なものだったようです。2年前に大工は引退しましたが、男性は道具を手入れしながら、大事に保管していくつもりです。

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 最後に、津波で両親と夫、次女を亡くしたという、鹿島区の60代の女性に話を聞きました。自宅は海から100mで、父親は今も行方不明です。女性と長女は仕事先にいて、津波を免れました。震災後、仮設住宅などを経て、7年前に鹿島区内に家を再建し、現在は長女と2人暮らしです。17年しか生きられなかった次女の死は特につらく、そもそも自分のもとに生まれたことを詫びる思いが消えないそうです。

 「“10年たってどうですか?”って聞かれるんだけど、10年たったからどうというのはないかな。住む場所も変わって、そこでの落ち着いた生活…そう自然に流れて生活しているので。泣いてみんなが帰ってくるんだったらどんどん泣くけど、絶対無理なことですよね。自分は生きているから、生きていかなきゃいけないし、みんなの分も生きていかなきゃと思っているから…。やっぱりどこかで気持ちを切り替えないと、沈んでいるのは自分らしくないっていうのはあるし、周りに心配をかけたくないというのもあるし…。元気に、明るく、やっていきます」

 女性が使うスマホの呼び出し音は、操作に慣れていない母親に代わり、震災前に次女が設定したものです。女性のお気に入りの曲で、今後も変えるつもりはありません。車のナンバーも次女の誕生日と同じで、誕生日には次女の友達を家に招き、好物だったハンバーグを一緒に作って食べています。“娘が年に一度帰ってきたように思えて、毎年楽しみだ”と笑顔で言いました。自分だけ生き残った理由を探し、苦しむ遺族はたくさんいます。しかし女性のように、現に生きているという事実を受け入れることしかできず、私たち取材者は、そういう方々を忘れず、そっと目を向け続ける必要があると思います。