【キャスター津田より】6月19日放送「岩手県 釜石市」

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 今回は、岩手県釜石(かまいし)市です。人口は約3万2千で、震災前から約16%減っています。震災では1100人あまりが犠牲になり、4700棟以上の家が被災しました。3年前、1300戸あまりの災害公営住宅の整備と集団移転事業が終了し、昨年末、一時は6000人以上が暮らしたプレハブ仮設住宅で退去が完了しました。土地区画整理事業は今年2月に完了し、他の復興事業もほぼ終わっています。

 震災後、中心部には“情報交流センター”や“市民ホール”が建てられ、流通大手“イオン”の大型店舗も進出し、市はその中に、雇用拡大や移住を支援するサポートセンターも設置しました。釜石港の近くには、飲食店が並ぶ観光施設“魚河岸テラス”もあります。三陸沿岸道の延伸と釜石自動車道の全線開通で、釜石は沿岸部から内陸部へつながる結節点となり、道路の恩恵と新型クレーンの設置により、釜石港の物流拠点としての地位も高まりました(2019年のコンテナ取扱量は震災前年の約80倍)。去年からは市が先頭に立ち、サクラマスの海面養殖も始まっています。

 

 はじめに、震災のひと月後に取材した方々を、10年ぶりに訪ねました。市中心部から車で20分の半島部・箱崎町(はこざきちょう)は、震災で人口の1割近くが犠牲になった所です。

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ここで簡易郵便局の局長を務める60代の女性は、親せき宅に避難していた際、私たちの取材に応じてくれました。築2年の自宅は2階まで浸水して全壊の判定を受け、当時はこう言っていました。

 「全国の皆様、ご支援ありがとうございます。食べ物、衣類、何から何まで皆さんのおかげで助かっています。特にうれしかったのはリップクリームですね。寒くて、化粧もすることもできないので…」

 その後は仮設住宅で暮らし、震災の2年後、リフォーム完了とともに夫婦で自宅に戻りました。

 「当時、避難した所の奥さんが“何でも使っていいよ”って言ってくれたけど、さすがに口紅とかリップクリームは頼めなかったんですよ。今は畑で作業するのが癒やしです。朝は草取り、日中は郵便局で仕事、夕方はテレビを見て歓談を楽しんで、人生で今が一番かな。充実した日々を過ごしています」

 また同じ箱崎地区の住民で、10年前に避難所で取材した夫婦も訪ねました(当時は70代と60代)。
自宅は全壊し、130人が暮らす体育館に身を寄せて、ご主人はこう言っていました。

 「避難所を出たら、思いきり45年分の夫婦ゲンカをして一つの節目にして、あとは周りの方々と絆を大事にしながら、再出発という形にしたいです。ここでは隣がいるもの、ケンカはできないよ(笑)」

 あれから10年…。2人は避難所を出て仮設住宅に入り、今から4年前、元の場所から30m離れた所に自宅を再建しました。現在は80代、70代となり、息子夫婦と同居して4人暮らしです。スタッフが“夫婦ゲンカはしましたか?”とご主人に尋ねると、“ケンカしても男のほうが最後は損するから、タイミングを見て折れる”と笑って答えました。震災後、地区の人口は以前の半分になり、さびれた場所に見られないよう、ご主人は自主的に空き地や道路の草刈りをしているそうです。

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 「生まれ故郷に愛着があるもんですから、土地の造成で1年、2年遅れても待つという思いがありました。いつまでも若かったらいいんですけど、いずれ誰かの世話になるということで、ほとんどの方が(盛岡などの)子どもの所に行きましたね。一緒に活動した方々がいなくなるのが、一番寂しいです。何せ80歳を超えて体が言うことをきかないので、今の草刈り機が壊れたら卒業しようかと思っています」

 また奥様は、涙ぐみながらこんなことを言いました。

 「朝、起きたらまず東を向いて(お日様を)拝むんです。“もう安心しています、おかげさんでありがとう”って、毎日拝んでいるんです」

 10年前のがれきの山と、ぎゅうぎゅう詰めの避難所生活を思えば、今の暮らしに涙が出るのも分かります。前述のように釜石の10年の変化は目覚ましく、橋野(はしの)鉄鉱山の世界遺産登録や、ラグビーワールドカップの開催といった一大イベントもありました。その裏で、人口減少や公営住宅での孤立、水産業で続く極度の不漁、高齢化などを理由とした小規模店舗の廃業が相次いでいます。中心部の東部地区に4つあった商店街組織で、残っているのは1つだけで、その加盟店も震災前の6割程度です。10年前に比べれば幸せなのは間違いないですが、安心できる未来を描けないのも事実です。

 

 その後、市北部の鵜住居町(うのすまいちょう)に行きました。3200人以上いた住民のうち340人ほどが犠牲になり、被災家屋も860戸を超える市内最大の被災地です。

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市の防災センターに避難した方が100人以上亡くなったり、釜石東中学校の生徒が鵜住居小学校の児童の手を引いて高台に避難するなど、よく知られた事例もあります。今は高さ14.5mの防潮堤があり、小中学校は高台に移りました。かさ上げ地には、スーパーが入る商業施設“うのポート”、追悼施設や伝承施設などで構成する“うのすまい・トモス”、観光客向けの“鵜の郷(うのさと)交流館”がつくられ、市民体育館も再開しました(公共施設の復旧では市内最後)。ラグビーワールドカップの会場“釜石鵜住居復興スタジアム”もあります。

 ここではまず、震災伝承施設『いのちをつなぐ未来館』に行きました。

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写真や遺物で震災を伝え、語り部ガイドも行っています。ガイドの一人、20代の女性は、震災当時は上記の釜石東中学校の2年生でした。山梨の大学で学んで地元に戻り、去年、施設の職員になりました。母校の中学は防災教育に熱心だったそうで、校舎は3階まで浸水したものの、学校にいた生徒は無事でした。女性はこの日、実際に避難した道を歩き、盛岡から来た小学生たちのガイドをしました。学校から1.1kmほど歩いて津波を見たこと、見た瞬間に死ぬかもしれないと思ったこと、先生の指示も一切関係なく、各々の判断で高い所へ走ったこと…話の内容は非常にリアルです。この1年で、3千人以上にガイドを行ったそうです。

 「大学で釜石を離れてみて、“震災を知らない人は全然知らない”と実感しました。岩手出身ということで、“震災のことを聞いてみたいけど、どう聞いていいか分からない”と周りに言われて、だったら自分から発信していくしか、きちん残す方法はないと思いました。語り継いでいくことは、命をつなぐ“種まき作業”だなって、ずっと感じています。災害はいつでもどこでも起きるけど、防災教育で助かることができるというのを伝え続けて、いつか犠牲者がゼロになったら、すごくうれしいと思います」

 次に、伝承施設の横にある公民館で活動中だった『鵜住居 歌う会』を訪ねました。

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震災翌年、被災した住民を中心に結成され、現在は60代から80代のメンバー26人が、月に2回集まって童謡や歌謡曲を歌っています(釜石市では高齢者のワクチン接種も進んでおり、マスク着用や換気を徹底して活動)。会長は80代の男性で、自宅は全壊し、仮設暮らしも経験しました。会の創設者は妻ですが、会が始まって間もなく、病に倒れて亡くなったそうです。いま男性は、災害公営住宅に一人で暮らしています。

 「震災直後は地域にも全然活気とかなくて、妻は悩んでいたじゃないでしょうかね。それでメンバーを募集して、“みんなで楽しく歌いたい”という話をしていました。歌声を聞くというのは、みんな元気もらうんじゃないですかね。歌の力って本当にすごいと思います。歌っていれば誰も怒る人もいないから、気持ちもよくなるしね。練習を待ち遠しく思っている人も、結構多いと思いますよ」

 最後に、10年越しの再建がかなったという、新築の家を訪ねました。引っ越しを間近に控え、2階建ての家の中は真新しい木の香りや畳の香りに満ちていました。家を建てたのは、ドライバーとして働く70代の男性で、津波で自宅は全壊し、妻、長男、長男の妻、11才の孫娘と、自分以外の家族を全員亡くしました。息子の遺体と対面した時、家族の居場所を再びつくりたいという思いがあふれたそうです。仮設住宅、災害公営住宅と住まいを移りながら、保険金やローンを工面し、元の場所に、元の家と同じ間取り(5LDK)で新築しました。日当たりのよい2階には、孫の部屋もつくってあります。

 「とにかく仏さんを、早く自分の家に座らせたい…とにかくその思いで、見つかった時に息子と約束したからね。とにかく早くと思って…。孫に“新しい家を建てました、部屋もありますよ”って報告したら、(天国で)“くそじじい”ってしゃべるんじゃないかな…私とケンカばかりしてたから(笑)。でも、その辺が楽しいからね。とにかく体は大事にして、1年でも多く長生きしたいと思っています」

 男性は、新居を建てた大工さんや菩提寺の住職など、多くの人に支えられた10年だったと言います。半面、「生きている間は、気持ちの復興はない」とも言いました。新居は、慰霊碑やモニュメントと同じく、男性なりの追悼を形にしたものです。大きな家にたった一人で暮らすことになりますが、男性には次男夫婦と2人の孫もおり、次男一家が来て泊まる際には、再びにぎやかな家になることでしょう。