【キャスター津田より】5月22日放送「宮城県 気仙沼市」

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 今週からスタートした連続テレビ小説「おかえりモネ」。舞台は宮城県の気仙沼(けせんぬま)市と登米(とめ)市です。そこで今回は気仙沼市を訪ね、皆さんの声をうかがってきました。
気仙沼市は、人口が約6万で、震災では1400人以上が犠牲となり、被災した住宅は15000棟を超えます。4年前に災害公営住宅の整備が完了し、2年前には集団移転の土地整備が完了しました。“半世紀の悲願”と言われた離島・大島(おおしま)と本土を結ぶ橋が開通し、今年3月には気仙沼湾横断橋の完成で、宮城県内の三陸沿岸道が全線開通しました。

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「道の駅 大谷海岸」も10年ぶりに再開するなど、観光面のプラスが続いています。復興事業は9割が完了し、道路や防潮堤など一部の工事が残ります。

 

 はじめに、以前は市内一の繁華街で“気仙沼の顔”と言われた、通称・内湾(ないわん)地区に行きました。津波で大きな被害が出ましたが、2018年11月から翌年12月の間に、4つの観光施設や商業施設が次々と完成しました。

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テナントには飲食店や物販店、地元ラジオ局などが入っていますが、スポーツバー、オーシャンビューのカフェ、ジューススタンド、高級食パン店、クラフトビールの製造・販売所など、震災前には無かったおしゃれな店がたくさん並んでいます。ただ内湾地区は、防潮堤の高さを巡って県と住民の議論が長引き、土地区画整理事業の着工が遅くなりました。着工後も工期が大幅に延びるなどしたため、この10年のうちに地区を離れて再建した店もかなりあります。
 新しい内湾地区には、子ども用の運動器具や遊具をそろえた民間の屋内施設もありました。オーナーは30代の男性で、3人の子どもを育てる父親です。男性はこう言いました。

 「気仙沼には子どもが遊べる屋内施設がありませんので、どうしてもつくりたいとずっと思っていたところ、“新しい街づくりを一緒にしないか”と声をかけていただいて…。子どもたちを大切にして、住みやすい場所をつくってあげないと、気仙沼には若者がいなくなってしまうので、気仙沼市に必要なものをつくりました。震災から10年、市民全員が立ち向かって、全速で前進した結果が今の気仙沼なので、 ここから先も足を止めず、もっといい街にしていきたいです、本当に…。この子たちが大きくなった時に、“あの時の大人は格好よかった”と思ってもらえる大人であり続けたいです」

 男性は震災前、高齢者施設で働いていました。一人暮らしの高齢者が津波の犠牲になったのを目の当たりにして、高齢者が安心して過ごせる場所が必要と考え、空き家を改修してデイサービスセンターや老人ホームを立ち上げたそうです。将来は、高齢者や子ども達、障害のある方々や不登校の子ども達がいっしょに集える場をつくるのが夢です。

 次に、震災で206人が亡くなった鹿折(ししおり)地区に行きました。古くから町を見守る「石橋(いしばし)延命地蔵菩薩」は、津波で流されましたが、がれきの中で見つかって住民が元の場所に戻しました。

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鹿折地区で生まれ育った70代の女性は、実家の家族が高台に逃げて全員無事だったのは、お地蔵さんが守ってくれたからだと手を合わせて言いました。女性は布や綿を使って、笑顔の地蔵をかたどったお守りを作っていて、震災後は100体以上を遺族や福祉施設に配ったそうです。

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 「いまだに私のあげたお地蔵さんを、仏壇に入れている人もいるんです。あとは居酒屋さんが、笑いのあるお地蔵さんだから欲しいと言ってくれたり…。少しでも明るい気持ちで、笑っている顔のほうがいいと思って作ったんです。今はみんなコロナ渦でばらばらじゃないですか。お店も開いていない、道を歩いている方もいないし、みんなつながって欲しいと考えています。まだまだこれから、いろんなことがあると思うので、お地蔵さんと一緒に歩んでいきます」

 さらに、気仙沼市の突端にある唐桑(からくわ)半島に向かいました。ここでは、市中心部で開業医をしている60代の男性医師が訪問診療をしていて、この日も99才の男性の家を訪れていました。午前と午後の診察の合間に、毎日3〜6人の訪問診療を行っていて、介護士や薬剤師との連携も取りながら、在宅医療の充実に尽力しています。自身のクリニックは津波で全壊しましたが、震災の翌年、多額のローンを組んで再開したそうです。

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 「震災の時、避難所に震災前から来ていた患者さんが差し入れを持ってきてくれて、“今の世の中、衣食住は通販でなんとかなるんだ。だけど医療が無いと生活できないんだから、先生は町から出ちゃ困るんだ”と言われて、“そう言ってくれる人もいるんだ”と思ったのが、(再建に向けて)大きかったですね。この辺は医療過疎の地域で高齢化率も高いから、自分で病院に通うのも大変だし、震災の時に医療救護班で訪問診療を根づかせたところがあるので、できることを頑張りたいですね」

 

 その後、以前取材した人を再び訪ねました。階上(はしかみ)地区の杉ノ下(すぎのした)集落では、震災時、住民の多くが海抜11mの指定避難場所に避難しましたが、そこにも津波が押し寄せ、93人が犠牲になりました。

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杉ノ下遺族会の会長で、5年前に取材した70代の男性は、母親を亡くし、当時は奥様が行方不明のままでした。住民の震災証言をまとめた記録誌を発行したばかりで、こう言いました。

 「家族を亡くして、本当は余裕なかったと思うけど、文字にして子ども達に残すべきだと思いまして…。念願の記録誌ができて、私の家宝にもなりますし、毎晩のように読んで当時のことを思い出し、亡くなった妻と母親のことを思い出しながら、これからの生きる力になるんじゃないかと思います」

今回、男性に再び会って話を聞くと、3年前の12月、防潮堤の工事中に奥様の遺骨が見つかったそうです。もともと専業農家の男性は、仮設住宅を出て災害公営住宅に入居し、5年前に農業法人を設立しました。現在はネギやイチゴを中心に栽培し、19人の従業員を抱えています。

 「家内が帰ってきて本当にありがたいと思いました。でも、うちの地区だけでも、まだ17人が家族のもとへ帰っていないんです。家族が帰ってきてうれしいんですけど、地区のことを考えると素直に喜べない…みんな早く家族のもとへ帰ってきてほしいと思います。ここで働いている皆さんの生活を考えると、今の事業を成功させて、とにかく安定した経営にしたいです。農業の仕事は私の生きがいでもあります。努力すれば結果も出てくるという気持ちで頑張っています」

 最後に、震災の翌年に取材した漁師を再び訪ねました。現在60代の男性は5代続く漁師で、20才の長男は中学卒業後、父のもとで漁師の修業をしています。6月〜9月はメカジキを銛(もり)で仕留める『突きん棒(つきんぼう)漁』のシーズンで、技を継承しようと2人とも漁期を心待ちにしていました。

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震災翌年の取材時、自宅や漁具・漁船を全て流された男性は、まだ自分の船がないまま仮設住宅で暮らしていました。小学生の子ども達のために収入を得ようと、浮き球を包むロープの編み方を生かしてハンモックを作り、ボランティアの力も借りながら全国に販売して好評を得ていました。

 「弟の船を借りて、ちょっとだけど漁を再開しているんだけど、ハンモックを買っていただいた人のおかげで、俺がとった魚を直接発送する仕事も始まったしね。ハンモックを買った人が、注文をまとめて送ってくれたり、人としてのつながり、それが一番大きいんじゃないかと思う」

 取材の3年後、男性は借金して中古船を購入し、それを機にハンモック作りをやめ、漁に専念しているそうです。現在は災害公営住宅で暮らし、長男は今年、成人しました。長男は“父ちゃんのような漁師になりたいけど難しいかな”と恥ずかしそうに話していました。男性はこう言いました。

 「ハンモックの人とのつながりは今もあって、先日も山梨の人が(水産物の)注文を取って、まとめて送ってくれてね。塩蔵ワカメを送ったんだけど、今でもつながりがあるから、それには感謝だね。漁で稼いで家を建ててはじめて、俺たちの復興ができたということだと思うね。あと2〜3年したら俺は引退の予定だから、何より息子には、早く嫁さんを探してきてもらいたいんだけど」

長男は“誰一人いない”と笑って言いました。実は長男が中学を卒業する直前、私は2人と話す機会がありました。高校進学より漁師を選んだ理由について、当時の長男は、「父ちゃんをかっこいいと思っているから」とはっきり言いました。今どき、こんな純粋に父親にあこがれる中学生がいるのかと驚いたものです。そのとき男性は神経の病気で手が動きづらくなり、入院中でした。男性は病院の廊下で私に対し、「息子には、俺の一番苦しい時を見ておけと言いたい」とつぶやきました。震災、病気と、苦難に襲われた時は耐え抜くのが人生だと、背中で語ろうとする父親の姿に、大変感動した記憶があります。