【キャスター津田より】4月24日放送「宮城県 名取市」

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 今回は宮城県名取(なとり)市です。人口は約8万で、津波により1万4千棟以上の家屋が被害を受け、900人以上が犠牲になりました。

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特に、海沿いの閖上(ゆりあげ)地区では、約5700人の住民のうち、10数人に1人の割合で犠牲者が出ています。その同じ場所に再び街をつくるかどうかで、行政と住民の合意が成立せず、3年以上も土地区画整理事業は棚上げになりました。しかし今では閖上にも、災害公営住宅、小中学校、保育所、児童センター、体育館、公民館、郵便局がそろい、新たな観光商業施設“かわまちテラス閖上”は多くの人で賑わっています。去年は食品スーパーやドラックストア、サイクルスポーツセンターもオープンしました。漁業ではシラス漁が本格的に行われ、新たにワカメ養殖も始まっています。ハード面の復興事業がおおむね完了したことから、名取市は組織改編で“震災復興部”を廃止し、去年3月、“復興達成宣言”を出しました。

 

 はじめに、海のそばにあるビール醸造所を訪ねました。

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もともと24年前に亘理町(わたりちょう)で開業し、地ビールのコンテストで日本一に輝いたこともあります。津波で全設備を流され、岩手県花巻(はなまき)市に仮工場をつくって再開しましたが、2年前、閖上地区に造成された産業用地へ移転しました。酵母のうまみをいかしたビールや、イチゴなどの果汁入りビールが人気ですが、社長を務める80代の男性によれば、再建して数か月でコロナ禍に見舞われ、売り上げは半分以下に減ったそうです。

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 「海沿いはやっぱり温暖で、気温は安定しているし、ビール作りには一番いいんですね。何としても海沿いに戻りたいと思っていました。まあ、苦労の連続ですよ。補助金もらっても、借入金は若干残っていますし…。この15年間で返済ですから、果たしてどうなるか分かりませんけどね。皆さんの税金を(補助金として)もらったから、活かさなかったらだめ。私が生きているかぎりは、死に物狂いで売らないと…。今81歳ですけど、91歳までは頑張ろうと思っています。“神のみぞ知る”ですがね」

 次に、海から数㎞離れた下増田(しもますだ)地区に行きました。

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この地区に夫婦で暮らす60代の男性は、震災前から30年以上、消防団で活動しています。津波は自宅敷地にも到達し、家は無事でしたが、田畑が浸水しました。震災を機に農業はやめたそうです。震災当時は消防団として住民に避難の声がけを行ないましたが、同じ分団にいた55人のうち、4人が活動中に津波の犠牲になりました。

 「“津波が来るから避難して!仙台空港の方に逃げて!”と言っても、なかなか腰を上げてくれないし、あの津波が見えた時は、もう遅いですからね。一気に流されちゃって、活動していた仲間も自分の命をなくしてしまったので…つらいですね。大事だった盟友も結構亡くなっているし、本当にあの時の光景は、一生忘れられないです。現在は、“決して危険な行動はしない、させない、やらない”という心を持って、消防団は活動しています。亡くなった仲間に会いたいですよ、本当に会いたいですよね。悔しかったべな…。とにかく忘れないで、一歩ずつ頑張ってきたいと思います」

 そう言って、男性は両手で涙を拭いました。震災で犠牲になった消防団員は、岩手、宮城、福島3県で254人です。消防団員の正式な立場は、非常勤の地方公務員(特別職)で、普段は本業があり、いざという時に消防署と連携して活動します。全国ではこの30年で17万人以上減っていて、特に団員が津波の犠牲になった市町村では、家族が入団を反対する傾向にあり、男性も苦労しています。消防庁は、団員確保のため待遇を改善しようと、1回の出動手当を増額する通知も出しました。

 さらに、閖上地区で被災して内陸部に移転した、創業55年のかまぼこ製造会社を訪ねました。

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この会社では、4月に入社したばかりの18才の男性に話を聞きました。閖上出身で、彼の母親もこの会社で働いていましたが、震災で亡くなったそうです(職場から避難する途中、津波に遭遇)。小学2年生で母親を失った後は、ずっと父親と2人暮らしで、仮設住宅を経て、3年前に閖上地区のの災害公営住宅に入りました。お母さんは大変熱心に仕事をする人として職場でも有名で、バレンタイン用のかまぼこなど、お母さんのアイデアで商品化されたものもあるそうです。

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 「母がどういった仕事をしていたのか知りたくて、この会社に来ました。母といえば、かまぼこというイメージが強かったので 、そのかまぼこに自分も毎日関わることができてうれしいです。この会社に入社した時、そこに社員として母がいたらいいなと思いました。この10年、つらいこともいっぱいあったけど、楽しいこともあって、本当にあっという間の10年間でした。作ったかまぼこをお父さんや、今までお世話になった近所の方とかに贈りたいです。一番感謝している人だから」

 天国のお母さんはもちろん、10年間息子を育てたお父さんも、就職を本当に喜んでいると思います。

 

 その後、以前取材した方を再び訪ねました。震災の10日後、避難所だった中学校で取材した当時60代の女性は、閖上の自宅を流されました。周囲の声を代弁し、当時はこう言っていました。

 「被災者のみんなは、力を合わせて一生懸命、元気に頑張っています。ただ現場には、紳士ものの下着が全然ありません。シャワーを1日に3~4人だけ、お風呂が足りるとか、十分ということはありません。お年寄りは我慢なさっていて、下着が何枚あってもいいと思うので、よろしくお願いいたします」

 あれから10年…。女性は70代になり、閖上地区の住宅街に新居を建て、長男と2人で暮らしていました。当時の映像を見て、“こんなことしゃべっていたんですね…”と噛みしめるように言いました。

 「友達も“下着ねえのか、明日買ってくるから”って買ってきてくれて、皆さんに助けられたっていうのは、私の一生の “心の宝”ですね。別の地区に家を買うって息子に言ったら、息子は“閖上に帰るよ”と言ったんです。やっぱり子どもたちも閖上に育てられたんだなと思って…。そっちを諦めて、この家が建つまで待ってて、隣近所は変わったけど、ここにいられる、閖上に戻ってこられたことが幸せですね。皆様に助けられて、これからは皆様に恩返しをしたいって思います。道路脇に花を植えて、通る人たちに“きれいだな”って思ってもらうことも、1つの恩返しになるかなと思っています」

 閖上は、四方を川と海、田んぼに囲まれ、島のような環境の中に住宅が密集していました。皆が同じ小中学校を出て、皆が親戚のような付き合いで、閖上に思い入れの強い方はたくさんいます。

 最後に、海から3キロほど離れた小塚原(こづかはら)地区で、震災の9か月後に取材した花き農家を再び訪ねました。

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背丈ほどの津波が押し寄せてハウスは全滅し、当時は復旧作業に追われる中、2代目の父と3代目の息子は、こう言いました。

 「農業の原点は、つくる楽しみですね。今は作れないですけど、作るのが本当楽しかったですね。苦労があったゆえに、喜びが倍増するという…。今は何もできないのが苦しい状態ですけど、来年の今頃には、笑って過ごせるような状況になりたいです。うまく行くか正直分からないけど、みんな幸せになりたくて生きているわけですから、幸せになれるように努力して頑張っていきたいと思います」

 今回、再び訪ねてみると、父親はコメ作りに専念し、花き栽培は40代の息子が継承していました。ハウスの数は震災前と同規模の16棟で、1千万円ほど借金をして再開したそうです。 この時期は“母の日”に向けて、特産のカーネーションの出荷で大忙しでした。息子さんはこう言いました。

 「震災の直後は無我夢中で、2年前も台風19号があったりと本当に目まぐるしくて、栽培もとても難しくて、毎年いろんなことが“これでもか”というぐらい起きるんだなって、自分が経営を任されるようになってからは思いますね。父親たちは、よくこんな中で頑張ってやってきたなと思います」

 彼はこの3月、がれき撤去などを手伝ってくれたボランティアに、花を贈ったと言いました。

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 「10年って大きな節目だったし、花を渡すことによって気持ちを伝えることができるんじゃないかと思いました。これだけ一生懸命仕事をやって、いいものを高く買っていただいた、そういう結果が一つ一つ見えるのが大きな魅力なので、農業は楽しいと思います。子どもたちに“農家を継ぐ”って言ってもらえるような、そういう栽培とか経営をしていかなきゃいけないと思っています」

 津波で被災した宮城県内の13000haあまりの農地は復旧工事が終了し、将来その農地を生かしていくのは、若手農家やその先の後継者です。最後のひと言に、被災地の小さな光を見た気がします。