【キャスター津田より】2月20日放送「宮城県 山元町」

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 今回は、宮城県山元町(やまもとちょう)です。今回、スタッフは2月13日の午後までに取材を終えましたが、その日の深夜、福島・宮城で震度6クラスの大地震が発生しました。山元町は震度6弱で、一時およそ2900戸で断水し、解消まで5日を要しました。家屋や家財の損傷、瓦の落下やブロック塀の破損といった被害もあり、同様の被害は福島、宮城の各地でも発生し、特に福島県新地町(しんちまち)や相馬(そうま)市では深刻です。被害を受けた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。

 

 さて山元町は、人口が約12000で、震災では637人が犠牲になり、2200棟あまりの住宅が全壊しました。

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町はJR常磐線の線路を内陸に移し、新しい駅の周辺など、集団移転先を町内3ヶ所に限定しました。住民を集約し、インフラ等の維持管理を効率化するためです。5年前にJR常磐線が再開し、集団移転先に市街地が形成され、学校やスーパー、ドラッグストアなども整備されました。4年前には、災害公営住宅も全て完成しました。若い世代の移住を促進しようと、新しく転入する子育て世帯などに、最大370万円(4人家族)を補助する制度もあります。津波で浸水した東部では、大規模農業を強化するため農地や宅地を集約し、農地整備事業が行われました(→畑1区画の最大面積は8ha、水田で2ha、対象範囲は400ha以上)。一方、復興を待てずに町を出た人も多く、人口は震災前から1/4減り、高齢化率は約40%で県内でも上位です。

 

 はじめに、海のすぐ近く、壊滅的な被害を受けた花釜(はながま)地区に行きました。

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住宅地にある農業用ハウスでは、主に60代から70代の女性たちが、3月11日の追悼行事 『慰霊の夜』で灯す“絵灯ろう”を作っていて、灯ろうに使う絵は、毎年全国から数百枚送られてきます。

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メンバーは約20人で、普段からお茶を飲んだり、裁縫などを楽しんでいるそうです。ある女性は、こう言いました。

 「行事を始めて8年ですけど、最初はボランティアさんが全部やってくれて、私たちは気持ちが沈んでいたんですよ。最初の絵は暗かったですよ、書く言葉も“鎮魂”とか“祈り”とか。毎年描いているうちに笑顔の絵が出てきて、今年は“ほほえみ”とか、私たちも明るくなったと思って…。コロナで行事は今年も去年も縮小で、でも絶やさずやらなきゃと思います。亡くなった方の追悼を機に、私たちの絆、仲間が増えたことに、“感謝”、“ありがとう”です」

 次に、震災遺構の中浜(なかはま)小学校に行きました。被災した姿のまま、去年9月から一般公開されています。

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津波は屋上付近に達し、児童や先生、住民など計90人は、屋上にある倉庫に避難して寒い夜を過ごしました(翌日ヘリで救出)。震災時に PTA会長だった40代の男性は、自分の3人の子どもも当時は小学校にいたと言いました。自身も中浜小学校OBで、すでに内陸部に引っ越したそうです。

 「学校は統合されてしまって、今はこういう形で残っているので、今後もこの学校が役に立っていければと思います。私も学校の前を通るたびに思いがよみがえってくるので、ずっと建ち続けてほしいです。小さいころから育ったこの地区のことを、ずっと忘れずにいきたいです。いろいろな記憶を忘れずに、今後もずっと暮らしていきたいと思うし、過去の経験が自分をつくっていますので、それをもとに、いろんな人と今後も関わっていきたいです」

 海と接した中浜地区は甚大な被害を受け、第1種災害危険区域に指定されました。家を修繕して住む以外は、増改築も新築も一切認められません。集団移転に参加しなければ町の補助金などで大きな差がつけられますが、それでも元の土地に残った方々もいて、314世帯あった中浜地区で、現在27世帯が暮らしています。沿岸部の地区はどこも、以前から地元への愛着が強い地区です。

 また、津波で全ての住宅が被害を受け、45人が犠牲になった笠野(かさの)地区にも行きました。360年続く徳泉寺(とくせんじ)は、津波で本堂が流されましたが、去年、ようやく再建を果たしました。

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30年間住職を務める70代の男性は、ハガキにお経の一文字を書いて納経してもらう“一文字写経”を始め、集まった納経料は、再建費用の半分(約4000万円)に達したそうです。

 「砂浜のようになった跡地を見た時に、何も建物がない、お寺の名前だけがある“青空寺院”にすることまで考えました。でも、地区の皆さんだって何もかも無くして、その上、拠りどころも無いというのも、これまた皆さんの心を疲弊させることになるし、何かしら心の支えになるものが必要じゃないかと思い始めて、“一文字写経”で皆さんの心を寄せてもらって、お堂を建てようと思ったんです。いろんな言葉やら写経やら寄せていただいて、寺を知らない人も知っている人も、みんな手を差し伸べてくれている…1人じゃないっていうことですね」

 さらに、JR常磐線の山下(やました)駅があった場所で、20才の女性から話を聞きました。ここには4年前、東日本大震災の慰霊碑『大地の塔』が建立され、津波で亡くなった女性の曾祖母と同級生の名前も、石碑に刻まれています。

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震災当時、女性は小学4年生で、家を流され、内陸部に引っ越しました。現在は大学2年生で、ことし成人式を迎え、保育士を目指しているそうです。

 「まだ10歳だったのもあって、また小学校に戻れる、元の家に戻れるって思っていたんですけど、笑ったところで元の生活は戻ってくるわけじゃないし…。6年生の時、“元気を取り戻そう”みたいな感じで、太鼓とソーラン節を学習発表会でやって、いつまで落ち込んでいても何も変わらない、明るくできるなら明るくしていようって、それをきっかけに前向きに進んでいます。同級生が亡くなってすごく思ったのは、仲良くしてくれてありがとうとか、当たり前だから伝えなくていいわけじゃなくて、感謝とか謝りたいことは、その時に言うべきだって…。伝えられる時に伝えておこうと思っています」

 

 また今回は、町内の農家も取材しました。山元町は、隣の亘理町(わたりちょう)とともに東北有数のイチゴ産地で、産直施設“やまもと夢いちごの郷”は、去年11月、オープン1年9カ月で来場者100万人を突破しました。牛橋(うしばし)地区の3代続くイチゴ農園を訪ねると、去年2月に両親から経営を引き継いだ40代の男性が作業していました。津波でハウスを失いましたが、内陸に移転して再開し、いま力を入れているのは新品種“にこにこベリー”の栽培だそうです。

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 「完全に元に戻ったというほどではないですけど、またイチゴ作りができるという安心感はありますね。周りのイチゴ農家の人たちとも一緒に再開できてうれしいです。新品種のイチゴは、形が良くてケーキにのったりすると聞いていたので、作ってみたいと思いました。ケーキの上にのれば、自分のイチゴが主役みたいな感じになりますから。いまコロナが原因で他県の方が来られなくて、多くの方に食べてもらえない状況が続いています。もっと多くの方に山元町のイチゴを食べてもらいたいです」

 山元町のイチゴは耕作面積の98%が被災し、130戸ほどあったイチゴ農家のうち、無傷だったのは2~3戸です。多額の投資や跡継ぎの不在で栽培を断念した農家もいる中、男性は日々、奮闘しています。

 そして、津波の被害を受けた磯(いそ)地区では、70代の長ネギ農家の男性と出会いました。7年前、親せき5人と農事組合法人を設立し、地元の農家から土地を借り受け、12haの畑を耕しています。畑の一部はもともと宅地や道路で、震災後の大規模なほ場整備で、農地に変わったそうです。

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 「皆さん全て流されて機械もないので、ほ場ができても作付けができなくて、だったら国の補助金を活用して、皆さんの農地を借りて作物をつくっていこうと決心しました。宅地の跡だと砂利が多かったり、30センチ以上掘ると、瓦とかいっぱい出てきますよ。ダイコンとかニンジンは、固いものが中に入っていると育ちにくいんですよね。ほ場の整備が悪いので、生産がうまくいかない点が心配です。この農地を守っていきたいです。農地でなくなるということは、人の住めないような地域になってしまうことだと思います。耕作を続けていくことが、地域の皆さんのためになると思っています」

 こうしてお話を聞き、全て撮影が終わった2月13日の深夜、震度6弱の大地震が山元町を襲いました。次の日、スタッフは急きょ、長ネギ農家の男性を訪ねました。事務所の棚から食器が全て落ち、墓地では男性の家の墓石が完全に落下していました。墓は10年前にも直したそうで、“お金のかかる災害ばかりで困ったもんですね”と言いました。それ以外の方々は断水に見舞われたものの、ガラスが割れるなど家の被害は軽微でした。再建した徳泉寺に大きな被害はなく、イチゴ農家も被害はなかったのですが、翌日の強風でハウスの屋根が飛び、花をつけていた新品種に損害が出ました。心が痛みます。