【キャスター津田より】2月13日放送「岩手県 陸前高田市」

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 今回は、岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市です。人口が約18000で、震災では1800人ほどが犠牲になり、4000棟をこえる住宅が津波の被害を受けました。

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市内では、中心部の高田地区と今泉(いまいずみ)地区の約300haで、10m前後のかさ上げを行う被災地最大の区画整理事業が行われました(事業費は1000億円超)。新しい区割りの宅地や道路を造成し、土地の所有者は、かさ上げ地か、かさ上げ用の土を削り取って造成した高台の土地と交換します。災害公営住宅は4年前に全て完成し、今では大型商業施設「アバッセ」、市立図書館、震災津波伝承館、道の駅高田松原、市民文化会館、高田松原運動公園、商業施設「発酵の里」など、様々な施設も揃いました。

 

 はじめに、中心部の高田地区にある洋菓子店に行きました。店主の40代の男性は、震災で母と兄を亡くし、自宅は全壊しました。勤め先の洋菓子店は地元の人気店でしたが、被害を受けて廃業しました。久慈(くじ)市や横浜市の店で8年間働き、3年前、店舗兼自宅を建て、地元に戻ってきました。初めて構えた自分の店では、震災前に働いていた店の“シャトー”というケーキを再現し、販売しています。

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 「俺も高田に戻ってきたかったね。向こうにいるよりはね。幼なじみもいるし、知っている人がいるからやっぱり一番いい。避難所でも助けあって生活していて、いろいろ人とのつながりがあったから、今があるんじゃないかなって…。“シャトー”は一関(いちのせき)からも買いに来る人がいますね。こっちを離れたお客さんがわざわざ買いに来てくれるのが、一番うれしいですね」

 次に、洋菓子店の近くにある、石のアクセサリー(パワーストーン)専門店に行きました。店主は70代の女性で、津波で夫が亡くなり、店が流されました。以前は雑貨店で、その時から石のアクセサリーを扱っていたそうです。震災の半年後に仮設店舗で営業を再開、去年、今の店を新築しました。

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 「石の販売を始めた時、主人がとても協力的だったんです。主人に作ってあげたし、そしたら手にはめていたんですよ。全然そういう人ではないので、えーって思いました。私には必死な10年でした。生きていかなきゃならない、子ども達のためにしっかりしなきゃいけないというので…。本当に余計なことは考えず、ただ前だけ向いてね。震災後は努めて笑っているようにしています。だって、笑っている方がいいじゃないですか。その方が、周りのみんなも気持ちよくなるんじゃないかなって思います」

 そして、米崎(よねさき)地区に行き、マッサージなどを行うリラクゼーションサロンを訪ねました。店主は60代の女性で、隣の大船渡(おおふなと)市にあった実家が流されました。震災の9か月後、知人から大船渡屋台村での営業を打診され、少しでも街に明かりを灯したいと、母親と2人で居酒屋を始めたそうです(お母さんは3年前に病気で亡くなりました)。屋台村が閉鎖され、先月、夫の故郷である陸前高田市で、長年の夢だったサロンを開きました。

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 「親子とも居酒屋をやるのは未経験で、初めての体験をさせていただいたんです。そこに集まるお客様は、本当に自分のこと以上に他人のことを思う人が多くて、震災のひどい体験の傷を癒してくれるような、優しい、思いやりのある言葉をかけてくれました。今回お店をオープンするって伝えた時も“おめでとう!10年たったけど、自分の夢が叶ってよかったね”って、本当に身内のようにお祝いしてくれました。震災は嫌な思い出で、失った分もたくさんあるけど、得たものはそれ以上にたくさんあって…。過去の私は自分のことしか考えられない、人とのつながりをあまり大事にしてなかったんです。だけどお客様たちと出会って、いろいろ教えてもらって、人のことを思う人間になれたかなって感じます。商売も大事だけど、人に喜んでもらうことが、自分の喜びにつながっているんじゃないかなって思います」

 震災後に商売を始めるのは、大きな決断です。補助金の有無、仮設店舗より増加する経費の不安、仮設で再開した時の借金に加え、さらに借金を重ねる不安、人口の減少と工事やボランティア関連の顧客減少と、悩みは尽きません。市は事業者を支えるため、仮設店舗の建物を無償で払い下げました。新たな建物をつくらず、譲り受けた建物の固定資産税や借地料だけ払って営業できるようするためです。市が整備した仮設の店や施設は130カ所以上あり、半分程度は払い下げられたと見られます。市の商工会によれば、2年前の時点で、被災した約600の事業者のうち4割ほどは廃業していました。紹介した方々は商売の大きな不安を抱えつつ、それでも前述のような話をしているのです。頭が下がる思いです。

 

 その後、被災した自社ビルを今も残しているという、50代の男性と出会いました。海のすぐそばで、20年以上、両親と梱包(こんぽう)資材の販売店を営んでいました。震災当日、妻と娘は津波を逃れましたが、男性はビルの煙突にしがみつき、屋上に迫った津波に耐えました。そのまま煙突で夜を明かし、翌日、ヘリで救助されたそうです。両親と、たまたま帰省していた弟は指定避難場所に行ったものの、そこに津波が来て亡くなりました。震災後は仮設店舗で営業を再開し、去年3月、中心部に新たな店を構えたそうです。男性は毎月必ず、ビルの屋上に上り、景色を見ています。

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 「思い出になるものが何一つ、一切ないんですね。ビルを見れば、両親と暮らしたのを少しでも思い出せるし、他の建物が全部壊れていく中で、うちの建物が残ることで昔の街を思い出せるとか、そう言ってくれる人が結構いまして…。屋上に上がると昔の景色を思い出すし、ちょっとずつ、いろんな建物が建ってきたのを見るのが楽しみですね。新しいものが建つのは、それだけ前に進んでいるってことじゃないですか。自分は生き残ったので、生かされているのを感じましたし、ボランティアとか皆さんから助けてもらったおかげで、自分がいま生活できているのを、震災後はほんとに感じています。だから、ありがたいという気持ちを、自分のできることでお返ししたいとも思っています」

 冒頭で述べたように、陸前高田では巨大な復興事業で土地を造成しました。しかし工事の完了を待てず、災害公営住宅に入居したり、他の土地で自宅再建した人も多くいます。宅地の引き渡し開始は、高台が震災から4年後、かさ上げ地は6年後でした。土地や家を所有しながら、もともとそこに住んでいない人などは、復興事業が完了しても戻ることはないでしょう。数年前は、市内で造成した土地の6割以上は、利用の見込みがないと言われていました。今も空き地が解消する気配は感じられません。広大な空き地に立つビルで、男性は時折、希望者を案内し、自身の震災体験を伝えているそうです。

 また、中心部から車で10分の竹駒(たけこま)地区にある寺にも行きました。

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高齢の男性住職は、病で倒れた先代に頼まれ、2年前に青森県から移住して住職になりました。本堂の壁には、陸前高田市と大船渡市、それに住田町(すみたちょう)の津波犠牲者、約2000人の名前が掲示されています。159枚の半紙に、毛筆で7か月かけて書きあげたそうです。

 「自分としては、亡くなった方と思わないで、この方たちは生きていたんだという思いで、名前を書きました。月命日の11日になると、これ全部読み上げます。これをやるのが自分の仕事だろうと…。お寺って、“死んだ人”っていうイメージとイコールになっている感じがするのね。亡くなったんじゃなく、今でも生きているんだよって、俺もこの人たちの関係者になったわけだけど、この人は生きているんだ、家族や関係者の中でいつまでも生きているんだ、そう思えばいいんだと思う」

 さらに、観光地として有名だった高田松原の跡地で、“高田松原を守る会”の副会長を務める60代の男性に話を聞きました。津波で7万本もの松が流され、残ったのが“奇跡の一本松”です。会は2006年から松原の保全活動を続けており、現在、全国に140人ほどの会員がいます。震災後はボランティアと協力して松原の再生活動に取り組み、松の苗木を育て、3年前から植樹しています。県の事業で植樹した分も含めると、この春、4万本が植え終わる予定です。

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 「“松原の再生と言っているお前たちは、バカでねえのか”って言われた。“松原の再生よりも、俺たちの命が、生活の方が大事だべ”って。全くその通りなんだけども、あのころ何もすることがないのさ。だから松原の再生をうたって夢を見てれば、俺たちは何とか前に進めたのさ。市民のこと考えて何かするような力もないし、言うなれば、松原と夢を見させてもらったのよ。その夢をみんなで叶えようって、応援してくれる人が全国から来たから、なんとか前に進めたのさ」

 男性の仕事は造園業で、手がけた現場の大半が津波で壊滅し、一時は事業を諦めかけました。その時、希望をくれたのが“奇跡の一本松”で、松原の再生こそ、自分にできることだと決意したそうです。