【キャスター津田より】2月6日放送「福島県 川俣町・葛尾村」
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今回は福島県の2つの自治体、初めは川俣町(かわまたまち)の声です。人口約13000で、農業や繊維産業で知られています。町の一部、山木屋(やまきや)地区だけに避難指示が出され、約1200人が避難しました。
4年前(2017年3月)に避難指示は解除され、郵便局や診療所が再開し、食品・日用品を扱う店と食堂が入る拠点施設“とんやの郷(さと)”が誕生しました。食堂では地元の女性たちが働いていて、今年度は1日あたりの利用客数が、前年度より3割増えたそうです。過去に出演した方で、住民の交流拠点も兼ねたそば店を営んでいた男性は、去年、宿泊施設のコテージをオープンさせました。
まず、山木屋地区の国道沿いにある農業用ハウスを訪ねました。熱帯植物のアンスリウムを育てているハウスで、地区では近畿大学の支援のもと、風評被害の少ない花き栽培、特にアンスリウムの栽培が震災後に広まりました。訪ねたハウスでは埼玉県出身の30代の男性が作業していて、妻の実家が農業を営んでおり、3年前にサラリーマンを辞めて家業に加わったそうです。避難の影響で稲作ができなくなったことから、町の勧めもあってアンスリウム栽培に挑戦しました。
「もし、寒い所で暖かい所の植物の栽培が成功すれば、農業の革命にもなると思って、これはもう使命だと思って頑張っていますね。サラリーマンの時は農繁期に手伝ったりしたんですけど、すごく新鮮だったというか、農業をやってみたいという気持ちになって…。今、3年目でやっと、SNSを使って全国から“川俣町のアンスリウム、頑張っているね”って言われるようになってきました。これから次世代にもつなげるように、花農家を集めて、いつか福島の花グランプリとか花フェスとかやりたいです」
山木屋地区では、花き栽培の他にも、コメが6年前から出荷されていて、ソバや飼料作物も一定規模で栽培されています。2022年をめどに、約60haに飼料用のコメを作付けする試みもあります。原発事故後は農家が大きく減ったのは確かですが、若手農家もおり、農業の法人化も進んでいます。
次に、代々稲作を営んできた70代の男性を訪ねました。4年前に帰還し、夫婦で暮らしています。高齢もあって稲作は農業法人に委託しましたが、家の前でソバを栽培し、自ら打った蕎麦を友人に振る舞っています。自治会長や公民館長を歴任した方で、震災と原発事故の記憶が薄れつつある現状を危惧して、2年前から住民を訪ね歩いて寄稿を依頼し、計62人の震災体験をまとめた冊子も発行しました。
「俺は解除と同時に帰ってきたわけなんだよね。我々のような帰還した年配者は、いかに楽しく過ごしていくかが大事で、楽しく過ごすには、何より健康第一ですから。無理しないで、これからは趣味を生かして楽しく暮らしていきたいです。
庭の手入れも自分で剪定(せんてい)したり、雪吊り(ゆきつり)も自分でやって、そんなことでこれからの人生を暮らしていきたいという感じなんです」
さらに、6年前に取材した、70代の農家の男性も訪ねました。取材の2年後、自宅を新築して妻と帰還したそうです。震災前は3世代9人の暮らしでしたが、今は2人だけです。前回の取材では、たばこの栽培設備が避難によって著しく劣化しており、田んぼは除染で出た廃棄物の仮置き場になることが決まっていました。当時はこう言いました。
「何もやる気が無くなる…これから田んぼも黒い袋で山になるわけだから。何をしていいか分からないです。山木屋に戻って何をするか…4年も休んで、たばこの栽培をできるのかと考えています」
あれから6年…。田んぼに置かれた廃棄物は町外施設への搬出が進み、男性はたばこ栽培を諦めて、新たに裏山の畑でヤマブドウの栽培を始めていました。
「農地を荒らしておくのも嫌だし、やっぱり自分の農地だから、生きているうちは経営したいと思って…。そうすれば、息子が後を継いでくれるのかなと、それが一番楽しみですね。今は希望という言葉を思って生きています。希望は何にでも当てはまります。息子、孫、代々農家を続けてもらいたいという希望がありますし、コロナが収束して皆さん元気で楽しく生きてほしい、それも希望です」
山木屋地区の人口のうち、実際に地区に住んでいるのは半分弱です。避難指示が出た沿岸部の自治体に比べれば高い割合ですが、60歳以上が多くを占め、3年前の春に地元で再開した小中学校では、再開から1年後に小学校の児童がゼロになりました。今もゼロのまま休校していて、中学校の生徒は3人です。再び子育て世代や若い世代が支える山木屋を、皆さんは祈るような気持ちで待ち望んでいます。
では続いて、葛尾村(かつらおむら)の声です。人口1400弱の山あいの村で、全村避難のあと、2016年6月に避難指示が解除されました(帰還困難区域を除く)。
現在では稲作に加え、養鶏、肉牛などの畜産、酪農が再開し、牛乳の出荷も行われています。コチョウランの栽培は県外からも注目され、東北大学は村内でバナナやマンゴーなどの実証栽培もしています。内科診療所が週1日、歯科診療所が週3日開院し、3年前には幼稚園と小中学校が再開しました。村民おなじみの食品と雑貨の2つの店や食堂も、村内で再開して3年以上になります。宿泊入浴施設もあり、新たな復興交流館も建てられました。
初めに、村の中心部にある商店に行きました。4年前に帰還したという3代目の60代の女性は、旧店舗は取り壊して、広さを3分の1に縮小して再建しました。帰還者は少ないと予想してのことでした。
「商売は成り立たない感じだね。人が戻っていないから。売り上げがどうのこうのではやっていられないよ。復興が進んでいると言われても、ちょっとピンと来ないね。でも、戻ってきたのは良かったと思っています。こういう山に囲まれた所に長く住んでいたから、何と言っても気持ちが清々するね。何でもかんでも揃うわけじゃないけど、お客さんも、ちょっと切らした時に遠くまで買い物に行くのは大変だから、店があって助かりますって…。あんまりくよくよ考えていてもしょうがないので、考えないように、忘れて生活していきたいと思います。何があっても笑顔でいるといいかなと思います」
次に、去年、村の中心部で営業を再開した理容店に行きました。店主は3代目の40代の男性で、避難先の仮設店舗での営業を経て、原発事故から9年でようやく自宅兼店舗を村内に再建しました。同居していた祖母は避難中に他界し、現在は妻と息子、母親との4人暮らしです。店を開けるのは日中の4時間だけで、朝晩は牧場で搾乳の仕事をして収入を得ていると言いました。
「何とかやっていくしかないという感じですけど、人が戻っていなくて、家業だけで生計を立てるのはちょっと難しいです。息子が高校を卒業したら理容学校に行って家業を継ぐと言ってくれているので、 それもあって店を再建しました。故郷で生き、未来へつなげてやっていきたいなと思います。細く長くじゃないですけど、続けていくということですかね。体が動く限りは何とかやっていきたいなと…」
さらに、野川(のがわ)地区で、5年前に取材した70代の農家の男性を訪ねました。村に帰還して夫婦で暮らしています。以前取材した際は避難指示解除を3か月後に控え、村内では家の新築やリフォームが行われていました。男性は当時、町外にある仮設住宅の自治会長で、村の自宅へ40分かけて通っていました。仮設住宅では旅行や花見など積極的にイベントを開催し、当時はこう言っていました。
「仮設生活では、みんな楽しく笑顔で一緒に生活してきたので、帰還に向けても、楽しいコミュニティーの場を持っていきたいと思います。何人戻るかは別にして、賑わいの拠点は必要なのかなと…」
あれから5年…。男性は、村で自生するサクラやモミジの地図を作り、自宅の敷地には120本のサクラを植樹していました。今後さらに本数を増やしていくそうです。
「インフラは良くなっているけど、避難している人たちが進んで来られる場所は無いと思う…。人が集まれる場所って温かいですよね。そういう場所が必要だと思うんだよね。観光地のサクラやモミジがある所は、それなりの素晴らしさがあって、シーズンには人の往来が激しいですから、自分の村もそのようにすれば、何とか人が来るんじゃないかと…。今まで葛尾村で生きてきたことに感謝を込めて、将来、村を背負っていく若い人たちが何とか村を守っていけるように、財産を作りたいと思っています」
葛尾村はもともと人口が1500あまりでしたが、この10年で100人以上減りました。さらに実際村に住むのは、3割ほどの431人です(約半分は65才以上)。今回、人々の口から出た“未来へつなげたい”とか“財産を作っていきたい”という言葉には、村の未来は決して楽観できないと分かっていながら、それでも何とか村の営みを残そうとする、執念のようなものが感じられます。