【キャスター津田より】1月30日放送「宮城県 石巻市」
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今回は、宮城県石巻(いしのまき)市です。
人口約14万の水産都市で、震災では3900人以上が犠牲になり、33000棟余の建物が全半壊しました。県内最多となる4400戸以上の災害公営住宅の整備は、2年前に完了しています。去年1月には、一時1万6千人以上が暮らしたプレハブ仮設住宅から、全員が退去しました。集団移転により、のぞみ野、あゆみ野、さくら町など新しい町名が誕生し、さくら町は1000人以上、のぞみ野は3000人以上が暮らす、被災地でも最大規模の集団移転団地です。
はじめに、南浜(みなみはま)地区に行きました。隣接する門脇(かどのわき)地区と合わせ、震災前は約1800世帯が暮らしていました。津波と火災で500人ほどが犠牲になり、ほとんどの家が全壊しています。
現在、地区内の2つの災害公営住宅に150世帯ほどが暮らし、国が整備する石巻南浜津波復興祈念公園も完成間近です。この地区には4年前から、民間団体が運営する震災伝承施設“南浜つなぐ館”が更地の中にぽつんと建っていて、震災前のジオラマや映像資料などを展示してきました(累計来訪者数は約7万人)。
語り部活動も行う50代の女性スタッフに聞くと、自宅を津波で流され、仮設暮らしを経て、震災の3年後に自宅を再建したそうです。
「私は家がなくなってしまって、その日に身に着けたものだけになってしまいました。避難所生活をせざるを得なくなった時も、全国の皆様から声をかけていただいたり、ご支援を受けて、大きな恩があるんです。その恩返しに何ができるんだろう?って考えた時、私のような体験をしてほしくないということを知ってほしい、“伝える”ということが唯一できるご恩返しだと思ったので、この活動をしています。私の話が、災害が起きた時に“逃げる”というボタンを押すきっかけになればと思います」
そして、内陸部の鹿又(かのまた)地区にある震災伝承施設にも行きました。皿や鍋などの生活用品、バス停や漁業用のウキなど、がれきの中から回収した450点を展示しています。3年前に個人が開設し、国や県などが組織する震災伝承ネットワーク協議会の『震災伝承施設』にも登録されています(個人施設の登録は珍しい)。
施設をつくったのは70代の男性で、沿岸部にある自宅は津波で大きく壊れ、大規模な修繕を経て現在も居住しています。2014年、妻とともに回収作業を始め、鹿又地区の私有地に2階建ての倉庫を建て、展示物を並べました。しかし回収を始めて2年後、奥様は病気で亡くなりました。
「食器だって、おいしく食うために気に入って使っていたんだろうから、どんなものでも履歴を残してやりたいなって…。震災前の暮らしがなくなるのは嫌だね。女房も“ただの鍋でも、がれきではなく鍋として見てみろ“って言ってたから、半分はそれが理由で残しているんだけどね。ふるさとを思う心を持って、ふるさとを愛する、このことを感じてもらうのが一番いいんだ」
男性は行政の許可をはじめ、所有者が判明すれば全て許可をとって収集してきました。しかも津波の脅威が直接伝わるはずの“泥”や“汚れ”をあえて全て洗い落とし、元のきれいな姿で展示しています。それは、震災を伝えるのはもちろん、今は更地にしか見えない場所が、多くの人の暮らしと人生があった大切な場所だと感じてほしいからです。
さらに、中心部のアイトピア通りに行き、県内外から客が集まる料理店におじゃましました。石巻の海の幸や野菜を使った創作和食が人気で、店主は千葉県出身の30代の男性です。
ボランティアで初めて石巻を訪れ、震災の2年後に店を始めました。男性は今、石巻の食材の良さを広めようと、生産者を動画サイトで紹介する活動もしています。
「連日報道されていた様子がショックで、炊き出しの手伝いぐらいできるかと思って来たんですけど、想像以上に悲惨な状態で、すぐに泥かき、がれきの撤去でしたね。夏を過ぎた頃に、商店街の方は生活もあるので店を再開しないといけない、そのお手伝いをしているうちに、商店街の皆さんと交流できたり、泥かきで漁師さんとか生産者のお手伝いもあって、生産者さんの顔の見える所で自分が料理をして、お店を開きたいと思いました。動画の撮影で生産者さんと魚を獲りに行ったり、野菜を収穫したりしていて、すばらしい人や文化を食を通して発信し続けて、少しでも恩返しになればと思っています」
その後、中心部から最も遠い半島部に足を運びました。中心部から車で50分の雄勝(おがつ)地区は、硯(すずり)の産地として600年の伝統を誇ります。この道40年で硯職人の60代の男性は、地元産の雄勝石にこだわり、作品は高い評価を受けています。
作業場や直売所を兼ねた自宅は津波で全壊し、現在の作業場は譲り受けた小屋と廃材で建てたものです。ボランティアの献身的な協力の証であり、建物はそのまま使い続けたいと言います。仕事道具もすべて流されましたが、雄勝を離れた職人仲間の厚意で、石を彫るノミなどを譲り受けました。
「流された石を拾ったり、山に行けば石はあるし、石とノミがあれば彫れるなと…。それで仕事を再開しようと思ったんです。昔から600年続いてきて、大変な世の中の時代でも、職人さんが何とか雄勝硯という形を守ってきたんでしょうね。だから、震災で人もいなくなって、職人も育っていない中でも、誰かが守らなくちゃならない。地元を盛り上げるためにも、このまま雄勝で硯を作り続けるしかない…。次につなげるところまでいっていないので、伝統をつなげていければと思っています」
仙台在住の息子は会社勤めですが、趣味で彫ってみたいという話もするそうです。石に関わっていれば、いつか気が変わって、硯の製作をやりたいと言うかもしれない…男性はそんな期待も抱いています。
さらに雄勝地区では、400種類、1万本の花が植えられているガーデンを訪ねました。所有者は50代の女性で、津波で自宅と実家が流され、今は地区内の災害公営住宅に夫婦で暮らしています。震災の3か月後、女性は実家の跡地にホオズキとナデシコを植えました。その後、多くのボランティアやNPOが自発的に協力を申し出て、女性自身が戸惑ってしまうほど、立派なガーデンが整備されたそうです。
「母も叔母も、いとこも津波で亡くなって、地域が全部真っ茶色になってしまったので、茶色のままにしておくのは忍びない、自分の慰めにもなるかなと思って、実家に2株くらいの花を植えたんです。10年後もガーデンが残っているかは考えていないです。最低限、とにかくきれいにして、ここにあり続けることだけが目標です。できることを丁寧に一つずつ、これだけは絶対やると思ったら、それ以外のどうにもならないものは、ならないままにしておこうって。震災後に学んだことかなと思います」
さらに、旧北上川(きたかみがわ)沿いの北上地区に行きました。漁業とともに農業も盛んでしたが、震災後、農家は半分以下に減少しました。耕作放棄地でホップを栽培しているという50代の女性は、もともと仙台在住で、震災後に北上地区で農業ボランティアに参加し、移住を決意しました。ホップは5mほどの高さに育つため、耕作放棄地が緑のカーテンで覆われる景観になればと、本格的に栽培を始めたそうです。栽培したホップでクラフトビールを作って出荷も行い、地元の雇用にも役立っています。
「畑仕事をしていると、おじいちゃん、おばあちゃんも子どもたちに教えるし、ひきこもりがちな若者もすごい笑顔になったりして、ボランティアをしながら“何で農地だと、こんなに皆が元気になるんだろう”と思ったんです。私、全く農業を知らないので、農業を始めるのは無謀だなと思っていたんですけど、地域のいろんな方にたくさん教えてもらえて、本当に助けられました。これからは地域の人に恩返ししないといけないという気持ちです。“こういうことができた”と思えれば、この先もきっと、新しい価値が生まれるに違いないという気持ちになれます。人と人とがつながって笑顔になっていくのを見て、とても幸せになれたので、これからもつながりを大切にしていきたいと思っています」
半島部の雄勝地区も北上地区も、津波で壊滅的な被害を受けています。特に雄勝地区では、7割以上の家が全壊しました。雄勝も今では、海抜20m以上の高台に造成された集団移転先に家が建ち、硯の魅力を伝える伝統産業会館や、直売所や飲食店が入る観光物産交流施設も完成しました。北上地区でも、震災後にオリーブを栽培し、加工施設を建ててオリーブ油を作っている人たちがいます。高台には、市の総合支所、公民館、図書館、郵便局、消防署、小学校やこども園が揃う拠点エリアが誕生しました。
しかし、復興事業に時間がかかったことで、雄勝地区の人口は震災前の4分の1になり、北上地区も4割以上減りました。地域コミュニティーの点から見ると、もはや別の町と言ってもいいでしょう。“それでも地元に何かを残していきたい!”という思いが、後半の3人それぞれから伝わってきます。