【キャスター津田より】1月23日放送「岩手県 盛岡市・花巻市」

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 今回は岩手県の声、しかも沿岸部の被災地ではなく、沿岸部から内陸部に避難して、今もそこで暮らしている方々を訪ねました。津波で家を流されたり、仕事を失くした後、内陸部に住んでいる身内や知人を頼って避難した方は大勢います。そして地元の復興が長引く中、地元に戻らず、避難先で生活を再建して定住を選んだ方も少なくありません。同じ津波被災地の宮城県や、原発事故で避難指示が出た福島県でも同様のケースは多く見られ、例えば仙台には、沿岸部から移住した方々の会が複数あります。

 

 はじめに、県庁所在地の盛岡(もりおか)市に行きました。最も多い時は1500人以上が沿岸部から避難し、今も1000人あまりが暮らしています。北飯岡(きたいいおか)地区には、大槌町(おおつちちょう)から移転した、150年以上の歴史がある酒蔵がありました。

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蔵と自宅が津波で全壊し、当時の従業員も犠牲になりました。2年後、補助金などを頼りに蔵を再建し、新たな酵母を使って酒造りを始めたそうです。酒蔵の後継ぎで、6代目にあたる20代の男性は、杜氏として7年目になります。震災時は醸造学を専攻する大学2年生で、東京に住んでいました。酒蔵再建の力になりたいと、卒業後、実家に戻ったそうです。新たな銘柄も立ち上げ、数々の品評会で高評価を受けるまでになりました。

 「震災の時は本当にどうしようかと、頭が真っ白になった記憶があります。震災がなければ、東京で社会人をしていたと思いますね。大槌は僕の故郷なので、常に気になります。いずれ僕たちが成長したら、何かしら大槌のために行動できたらいいなと思います。盛岡は昔からいた町ではないですけど、この土地に馴染みながら、今自分ができること、とにかくいい酒を造ろうという思いでやっています。製造に関わるメンバーも、盛岡で新しく採用した20代や30代がメインとなっているんです」

 次に、去年、盛岡市中心部にオープンしたカフェに行きました。焼きたてのパンなどが人気で、店主は釜石(かまいし)市出身の60代の女性です。

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下宿とカフェを営んでいましたが、津波で自宅は全壊し、下宿棟の空き部屋で夫や3人の息子と暮らしてきました。息子全員が釜石市外の学校に進学したため、女性も三男の中学卒業を機に盛岡へ移りました。現在、夫婦で盛岡のアパートに暮らし、釜石には頻繁に通っています。コロナ禍で客も減少する中、被災直後の“炊き出し”経験が心の支えだそうです。

 「激動の10年でした。盛岡に来たら来たなりに道を探すのも生き方で、釜石にいなくても、思う気持ちは一緒ですから。炊き出しで度胸がついた気がします。最初は“家も全壊なのに、何で人の世話まで?”とか、“何でこんなに忙しいんだろう”と思ったこともあったけど、今になれば“やってできないことはない!”って思います。自分がやりたいことをやれるのは幸せなので、立ち止まっている暇はないですね。あの時、命拾いしたので、残りの人生をフルスロットルで走り抜かなければって思います」

 また、盛岡駅から車で20分の下米内(しもよない)地区に行き、調理師として介護施設で働く、釜石市出身の50代の男性を訪ねました。

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震災前は洋食店を営んでいましたが、借金して建て直したばかりの 自宅と店舗は、津波で全壊しました。仕事を求め、翌月には知人を頼って盛岡市に避難したそうです。盛岡に来てから奥様と出会って結婚し、今は2人の子どもと暮らしています。

 「最初は住む所と仕事、それが見つからないと本当に落ち着かない状況だったので、“これからどうなるんだろう”という漠然とした不安だけがあって、苦労しました。あれから10年たって、今がいちばん幸せを感じられる日々です。何もないところから盛岡に来て、でも出会いがあって、奥さんにも子ども達にも、ただただ感謝の気持ちが日々募る…それはすごくありますね」

去年、地元新聞社の支援で、釜石で1日だけ店を復活させた際には、こんなことがあったそうです。

 「うちの店でポイントカードを作っていたんですけど、常連さんがそれを今も持っていてくれて、  あれを見せられた時に涙が止まりませんでした。そういう人がいっぱい来てくれたので、ただ泣きっぱなしでした。年齢も年齢なんですけど、どういう形でもいいから、もう一度お店を持つ…何かね、そういうことをやれたらと、今ちょっと思っているところです」

 10年たって“人生で最も幸せを感じる”と言える日々が来たのかと思うと、胸が熱くなります。釜石市や大槌町では、プレハブ仮設住宅は解消され、人々は災害公営住宅や新たな宅地に自宅を再建して暮らしています。まだ空き地も目立ちますが、商業施設や交流センター、飲食店が並ぶ観光施設などが次々誕生しました。これまでの3人とも、そんな故郷の復興を喜び、故郷を忘れず、盛岡で頑張っています。

 

 その後、盛岡市の県営南青山(みなみあおやま)アパートの内覧会に行きました。

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先月、県内で最後に完成した災害公営住宅です。入居するのは、いわば最後まで辛抱した方々であり、内覧会で出会った釜石市出身の70代の男性が話をしてくれました。津波で妻を亡くし、自宅も全壊したため、息子を頼って盛岡へ来たそうです。アパートに一人で暮らし、週2回、近所にある老人福祉センターのスポーツサークルに参加していますが、車の免許がなく、今後は15km離れた公営住宅から通うのは困難です。

 「釜石に一人でいるより、こっちに来たほうがいいということで、盛岡に来たの。全部、息子がやってくれているから、ありがたいと思っているよ。この間、サークルで送別会をしてもらったんです。向こうでも友だちができればと思っているけど、おそらくどうかな…。まあ、南青山の地域の人たちも呼んで交流したり、お互いに力を合わせて、明日に向かって頑張れば何とかなるんじゃないかな」

 このあと一度、盛岡を離れ、花巻(はなまき)市に行きました。今も市外からの避難者350人ほどが暮らしています。

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中心部の上町(かみちょう)地区にある災害公営住宅では、2年前に取材した70代の男性を再び訪ねました。気仙沼(けせんぬま)市出身で、自宅が津波で全壊したため、娘の夫の実家がある花巻へ避難しました。災害公営住宅の完成を半年後に控えた前回の取材では、“花巻の人々に本当に良くしてもらったので、定住を決めた”と言っていました。

 「今まで自分の力で生きていたと思っていたけど、実際は見ず知らずのいろんな人の支援があって、その中で生きていたのが分かったね。私も妻も震災を経験して、そういう方向に変わったね」

 今回、スタッフが再びお会いすると、なんと奥様は入居する直前に急逝していました。男性は、“本当に入居を楽しみにしていて、2人で荷物を運んでいたんですが…”と寂しそうに言いました。妻の死後、 支えになったのは同じ災害公営住宅の住民だそうです。男性は今、造園業を40年以上営んだ熟練の技を生かし、花巻市はじめ県内の自治体の公園設計に無償で協力しています。

 「ここの住民の方が、しばらく顔を見ないと私の階まで上がってきて、“元気ですか?変わりないですか?”って声をかけてくれたり、食べ物を持ってきて、お互いにおすそ分けしたりして、これは助かりますよ、精神的に。独りぼっちだったらいろんな不安が押し寄せて、笑ってなんかいられないと思う…本当にありがたいです。造園の経験で恩返しできるチャンスが巡ってきて喜んでいます。公共の場で自分の経験やアイディアを使ってもらえるなら、こんなにうれしいことはない」

 男性は住民同士の交流に支えられていますが、これから災害公営住宅に入る前述の盛岡の男性にとっては、まさにこの点が不安の種です。災害公営住宅の暮らしも、実に様々です。

 最後に盛岡に戻り、中心部から車で15分の米内(よない)地区で、釜石市出身の18才の女性から話を聞きました。

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震災時は小学3年生で、自宅は津波で全壊し、震災の3年後に盛岡へ来ました。避難所での出来事から医師を志し、両親は夢を叶えてやろうと、小学校卒業後に塾なども多い盛岡へ移住したそうです。高校では演劇部と応援団に入り、この冬、県内の医大の推薦入試を見事突破しました。

 「避難所で、余震とかサイレンとか、いろんなストレスでお腹が痛くなっちゃったんです。その時、派遣されていた医師の方が“どうしたの? よくここまで頑張ったね。大丈夫、大丈夫”と優しく声をかけてくれて、それで私も安心したんですよ。“頑張ったね”と言ってもらえて…。盛岡に来て中学校に馴染めなかったんですが、高校は充実していて、すごく楽しかったです。私が生まれた所は釜石で、釜石という存在がバックにあることが自分の心の支えなので、恩返しというか、医師になって釜石に帰りたいです。患者さんのつらい気持ちと向き合って、それを和らげてあげられる医師になりたいです」

 合格通知を見せるため釜石の祖父母の家に行った際、普段は泣かないおじいちゃんが喜んで号泣し、驚いて自分ももらい泣きしたと言いました。実は津波の時、彼女が必死におじいちゃんに避難を促して、おじいちゃんは助かったそうです。将来、釜石での地域医療をめざす彼女の目は輝いていました。