【キャスター津田より】12月12日放送「福島県 若者編」

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 今回は福島県の若者の声をお伝えします。最初は、南相馬(みなみそうま)市の鹿島(かしま)区に行きました。ここは原発事故による避難指示の対象外でしたが、4年前までは市の南部が避難指示区域でした。

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常磐自動車道のサービスエリア『セデッテかしま』には、地元の旬の野菜や特産品が並び、副店長は地元出身の29歳の男性でした。震災当時は大学生で、卒業後は県外のアパレル会社に就職し、この施設のオープンに合わせて帰郷しました。市内に自宅を新築し、妻と2人で暮らしています。

 「会社にいた頃、仕事終わりにテレビをつけたら、地元を取り上げた番組が流れていて、つらい経験をした中で皆さんすごく頑張っている姿を目にして、遠い所で自分は何をやっているんだろう、何か少しでも地元に還元できないかと心境が変わって、帰って来ようと思いました。地元ならではの温かみ…この辺りは、玄関先で手を振って来客をお見送りするんです。外に出たからこそ、住み慣れた地域の風土、人柄が、すごく肌に合っていたんだと気づきました。賑わう町というより、誰でも温かく迎え入れる町、良くも悪くも変わらずにいてくれる場所であってほしいし、その一助になれればと思います」

 次に、富岡町(とみおかまち)に行きました。全町避難を余儀なくされましたが、2017年4月、避難指示が解除されました(帰還困難区域を除く)。いま実際に町内に住むのは、人口の12.6%です。解除以降、町内には大型スーパー、ホームセンター、ドラッグストア、公営住宅、診療所や救急病院、ビジネスホテル等々、次々と完成しました。町内で小中学校が再開したほか、去年は認定こども園も開園し、富岡漁港が再開しました。JR常磐線の全線再開で仙台や東京とつながり、移住者専用の住宅団地の提供や保育無償化、移住した子育て世帯への奨励金も設けるなどしています。

 ここでは、先月オープンした理容店に行きました。

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帰還した町民や復興事業の関係者などが訪れていて(作業員など住民登録外の居住者は約2000人)、店主は地元出身の25歳の男性でした。富岡高校に入学する直前に関東へ避難し、半年後、福島市で高校が再開すると同時に学校の寮に入りました。サッカー部では全国高校サッカー選手権に出場し、卒業後は理容師となり、埼玉県で働いていたそうです。

 「理容店が1つもなくて不便な思いをしている中で、いちばん最初に店をやるっていうのも意味があるのかなと…。サッカーの全国大会の時も、いろんな避難先から応援に来て下さって、富岡は桜が有名だったんで、全部ピンクのレインコートで応援してくれたりとか、力になったし、今でもすごく心に残っています。いろんな人に集まってもらって、1つの社交場のような店になればと思います。不便なままだと、住みたくても住めない人が出てきちゃうので、少しずつ改善できればいいのかなと思います」

 夜になり、今度は浪江町(なみえまち)に行きました。この町も全町避難を経験し、2017年3月に避難指示が解除されました(帰還困難区域を除く)。いま実際に町内に住むのは、人口の9.1%です。この3年のうちに、町内には集合住宅や診療所、大手資本のスーパーと金融機関、新しいこども園と小中学校がそろいました。今年は道の駅とビジネスホテル、デイサービスセンター、さらに世界最大級の燃料用水素の製造拠点が開業しました。富岡町と同じく、JR常磐線で仙台、東京にもつながりました。

 ここでは、週末のみ営業している、5月にオープンしたバーに行きました。

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店長は22歳の男性で、東京の大学を卒業後、地元に戻りました。学生時代、アルバイトでバーテンダーを経験し、平日は父の経営する建設会社で働きながら、会社所有のビルの一角でバーを営業しています。

 「店を始めたのは、ひと言、単に悔しいからだと思うんです。自分の子どもをここで育てられるかと思った時、悔しい…こんな町で過ごさせたくないから、店を始めたんだと思います。浪江で生まれ育って、浪江への思いは強いので、同年代の人が集まって、思いの丈、夢をいろいろ話しながら、“次の浪江をどうやってつくっていこうか”みたいな場所にしていきたいし、日本中どこを探しても、こんなにチャレンジングな土地もなかなかないので、そういう部分でチャンスや可能性があると捉えています」

 小さい頃に避難を経験した若者たちは、故郷での蓄積が少ないのは当然です。ただその分、失うものが大人より少なかったと考えることも可能で、若者こそが柔軟な発想を生む土台になるのです。

 

 別の日、南相馬市原町(はらまち)区にある馬事公苑(ばじこうえん)に行きました。

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馬術の強化合宿が行われていて、相馬農業高校馬術部に所属する、3年生の女子生徒が練習していました。国体では福島県の代表候補でしたが、今年は国体も中止です。南相馬市で育ち、小学2年生の時に原発事故が起きました。家族と自主的に山形県へ避難し、4年間暮らした後、中学進学と同時に南相馬市に戻りました。地元の伝統行事“相馬野馬追(そうまのまおい)”に憧れ、2年前、念願かなって初参加しました。

 「馬乗りしか、命を懸けてない感じです。こっちに戻って来て、実際に野馬追の手伝いをして、馬に乗っている親戚を見て、私も出たいと思いました。野馬追となると、周りの方の意識が格段に上がって、すごいですね…。伝統行事に出られて、地元で馬に乗れるというのは感謝しかないです。日々の生活でも、練習でも、常に自分に負けないように考えています。卒業したら趣味で馬乗りをしながら、動物の看護師の国家資格を取って、高度な医療を学べる病院に勤められたらいいなと思っています」

 そして、同じ南相馬市の小高(おだか)区に行きました。南相馬市の場合、小高区だけは全域に避難指示が出され、2016年7月に解除されました。2年前にオープンした書店(芥川賞作家・柳美里さんが開店)に行くと、今春から併設されたカフェに、働き始めて3日目という19歳の男性がいました。

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お母さんもこのカフェで働き、デザートを作っています。出身は福島第一原発がある大熊町(おおくままち)で、9割以上の町民の自宅が帰還困難区域(=立ち入り規制が継続)にあり、県内の除染で出た土などを貯蔵する施設もあります。原発事故の時、男性は小学3年生で、会津若松(あいづわかまつ)市に避難し、高校卒業後に南相馬市へ移りました。9月、大熊町の自宅は、復興工事の影響で解体されました。

 「震災直後から、戻れるなら、思い出が詰まった場所に戻りたいなと変わらず思っています。解体を聞いて、虚無感じゃないですけど、何とも言えない感覚に襲われましたね。地震とか津波で家が無くなった友達もいて、僕は話を聞く側だったんですけど、自分が体験する側になったら違いますね。今は“おいしい!”とか明るい反応をもらえた時が本当にうれしくて、ニヤニヤニヤしちゃうんですけど、僕が仕事をして笑顔になって下さるお客さんがいて、これでうまくいっているなら、大熊町でも同じようにできる可能性もあって、人が戻って喜べる空間が大熊町にもできればと思いますね」

 大熊町でも去年4月、2つの地区に限り、避難指示が解除されました。解除地区には役場や駐在所があり、公営住宅や移住者向けの賃貸住宅、3つの仮設店舗や夜間営業もする飲食店、グループホームなどの福祉施設もあります。町民のほか、東電の社員なども含めると、すでに860人ほどが住んでいて、3ha近い大規模な植物工場では、通年でイチゴを出荷しています。今後は小中学校と幼稚園が再開し、商業施設や温浴施設もできる予定です。人々で賑わう南相馬市の書店とカフェがあるのも、4年前までは避難指示が出ていた場所です。彼が語った願いも、きっと叶うはずです。

 最後に、いわき市に行きました。

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ここでスタッフが会ったのは、双葉町(ふたばまち)出身の29歳の女性とその家族です。双葉町も大熊町同様、福島第一原発が立地していて、町の面積の96%が帰還困難区域であり、県内で唯一、全町避難が続いています。女性は震災当時、福島市の大学に在学中で、秋田出身の27歳の夫と3年前に結婚し、今年1月、長女が誕生しました。原発事故で家族は埼玉へ避難しましたが、90歳の祖母は過酷な生活に耐えられず、避難所で亡くなりました。その後、双葉町の自宅は、常磐自動車道のインターチェンジを新設する工事で取り壊されたそうです。

 「双葉では大みそかを一番思い出すかな…。お母さんのおせち料理が並んで、ばあちゃんも呼んできて、楽しいおうちだったので…。ばあちゃんの顔を見に避難所に行くたびに、“双葉に帰してくれ”って言ったのが頭に残っていて、“ごめんね”って気持ちでいっぱい…。今は双葉のお墓に入って、帰れて喜んでいるのかな。娘といつか双葉に行けるようになったら、“ここに住んでいたんだよ”だけじゃなくて、ここでいろんなことが…震災のことも含めて教えていきたいです。娘の住所も住民票も双葉にあるので、双葉の人口の1人に入っているので、幼稚園も同じところに行かせたいと思うんです」

 女性は時折、目頭を押さえながら話しました。その横で無邪気に遊ぶ0歳の娘の笑顔が印象的でした。