9月5日放送「岩手県 若者編」

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 今回は、岩手県内の若い世代の声です。はじめに田野畑村(たのはたむら)に行きました。村では41人が震災の犠牲となり、280棟あまりの家屋が被災しました。島越(しまのこし)、羅賀(らが)の両地区を中心に港や水産施設が大規模に被災し、三陸鉄道の島越駅も流されました。

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 羅賀地区の漁港では、31歳の漁師の男性が話をしてくれました。父親も漁師で、震災前から一緒にワカメ養殖をしてきたそうです。津波で自宅と船を流されましたが、父親はすぐに養殖再開を決断しました。今では父と2人で定置網漁にも参加するようになりました。

 「養殖を再開する時、“なんでまたやるの?”って親父に聞いたら、“俺はこれしか知らないからな”と言われて、親父はかっこいい!と…。俺にはそんなの無かったから、“俺も漁師をやるしかない!”と思ったね。それまでは家の仕事もサボってばかりだったから。力仕事はきついし、俺は弱音ばかりなんだけど、親父は何も言わないんですよ。“こういうことをやって、親父に育ててもらったんだな”とつくづく思いましたね。タコのカゴ漁、ヒラメ釣りとか、いろいろ挑戦したいですけど、その上で親父は目標です。泣き言を言わないで一生懸命やっている姿は、本当に尊敬しています。かっこいいです」


 その後、ホタテやカキの養殖が盛んな山田町(やまだまち)に行きました。震災では825人が犠牲になり、全壊した家屋は2700棟以上です。

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去年までに災害公営住宅の整備や宅地造成は完了し、新しい三陸鉄道の駅や商業施設の周りには、家や店が次々と建っています。この夏は海水浴場も再開しました。

 山田漁港に行くとホタテの出荷準備が行われていて、21歳の漁協の男性職員に話を聞くことができました。漁協の組合長だった祖父の縁で声がかかり、去年から職員になったそうです。震災時、祖父は避難誘導にあたるなか、津波で亡くなりました。

 「今の仕事は意外とやりがいがあると思っていまして…。漁師さん達は自分の祖父と一緒に働いていたので、小さい頃からよくしてもらっています。漁師さんの話を聞くと、“あの人(祖父)はすごかったよ”とか、“よく助けてもらったよ”というのが多くて、自分のことより人のことを優先する人だったので、自分もそうなりたいと思っています。若い、元気な漁師さんがもっと入ってくれて、山田のブランドをもっともっと世界に広めていきたいと思っています」

 漁協の組合員数は大きく減っており、水産物のブランド化で一定以上の漁業所得が保証され、担い手も集まるという好循環が必要です。彼の今後の働きぶりに期待が集まります。


 そして、釜石(かまいし)市にも行きました。震災では1064人が犠牲になり、約4700棟の住宅が被災しています。市内の事業所の約6割が浸水、漁船の97%に被害が出ました。災害公営住宅や宅地の整備は完了し、ハード面の復興事業は今年度で完了する予定です。

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去年は震災伝承施設や市民体育館、飲食店が並ぶ観光施設などが次々完成しました。一方、少数ですが、今も仮設住宅で暮らす人がいます。

 この町では、釜石高校で去年設立された“夢団(ゆめだん)”という団体を訪ねました。震災伝承や避難訓練による防災意識の向上を目的に、30人ほどが活動しています。

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設立者の18才の女子生徒は、自宅が津波で全壊しました。震災当時は小学2年生で、祖母と叔父を津波で亡くしています。

 「私の場合は家族が流されてしまったので、震災が忘れられたら、また同じような人が出てくるんじゃないかという思いがあって…。同じような思いは、誰にもしてほしくないです。震災直後は生きるのに必死で、振り返る時間もなかったんですけど、時が経つにつれて心を整理する時間も増えてきて、よくおばあちゃんとか、叔父さんに遊んでもらったのを思い出したりして…。震災がきっかけなんですが、人前に出ようとか、誰かのために何かをしようという性格ではなかった私が、誰かのために頑張りたいと思えるようになったと、祖母たちに言いたいです」

 各地にいる震災の語り部の多くは、50代~70代です。10代の子にすれば震災は小さい頃の記憶でしかなく、むしろ新型コロナの方がインパクトのある記憶になってゆくはずです。若者中心の伝承活動は、同世代や、さらに下の子どもへの伝承に大きな役割を果たします。

 
 続いて、宮古(みやこ)市に行きました。517人が震災の犠牲になり、全壊と半壊を合わせ、約4000棟の家屋が被災しています。災害公営住宅の整備が4年前に完了するなど、今では震災に関わる復興事業はほぼ終わっています。田老(たろう)地区では、三陸鉄道の新駅も開業しました。

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 宮古駅から車で10分ほど行くと、ヨガの教室がありました。

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オーナー兼インストラクターの30代の夫婦は、奥様が宮古市の出身です。現在は新型コロナの感染防止のため、マスク着用で少人数のヨガ教室を開いています(営業は続けてほしいという声が多かったそうです)。教室は元々、奥様の父親が空手道場を開いていた建物で、津波で大規模半壊しました。業者に頼らず自ら壁や床を直し、5年前、ヨガ教室を開いたそうです。海外でも通用するレベルのヨガを普及するのが目標で、奥様はこう言いました。

 「“宮古は故郷”とか、そんな真面目な言葉は私の柄じゃないんですけど、何というか…宮古は“うまく行っててくれないと、腹立たしい場所”ですね。“宮古は何もない”とか文句タラタラでも、やっぱり自分が生まれ育った町がうまくいっていなかったり、寂れるばっかりになるのはすごく嫌なんですよ。10か月になる娘には、“都会じゃなければと楽しくない”とか、そういう感性の子には育ってほしくないですね。子どもにも“宮古は実は面白いんだよ”って伝えていきたいと思いますね」

 今後の被災地には、こうした地域の良さに目を向ける子育て世代が、絶対に必要だと思います。

さらに、市役所の向かいにある法律事務所も訪ねました。

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弁護士さんは宮古市出身で、30代の男性です。東京の法律事務所で働いていた時に震災が発生し、田老地区の実家は流されたそうです。震災の2年後にUターンして市内の法律事務所に勤務し、3年前に独立しました。現在は地元のまちづくり協議会などにも所属し、仲間と“eスポーツ”の大会を開くなど、町の活性化にも熱心に取り組んでいます。

 「震災があった時は弁護士になりたてで、焦りもあったんですけど、ちゃんと仕事ができるようになってから戻らないと、迷惑かけるだけだから…。戻って来た時は、震災の打撃は大きかったんですけど、町の人の中に“自分で何かやろう!”という気持ちがすごく強かったんです。最近はそういう関心が薄れてきた部分があって、これからの世代が頑張らないと、宮古はどんどん廃れていくだけだと思うので、自分よりもう少し下の世代も含めて、仲間と一緒に頑張っていきたいと思います。町のために何かやる時には、声をかけてもらえる存在になれればうれしいです」

 被災地では一時、ローン軽減の相談を受けたり、復興事業を進める上で法的知識が必要なケースが増えて、民間や行政を問わず、弁護士ニーズが高まりました。復興は進んでもニーズがすっかり収まったわけではなく、本業でも地域おこしでも、彼の力は町にとって必要でしょう。


 最後に、沿岸部では最も南にある陸前高田(りくぜんたかた)市に行きました。

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震災では1700人以上が犠牲になり、8000棟を超える家屋が被災しています。集団移転や災害公営住宅の整備は、3年前までに完了しました。中心部では土地区画整理事業が最終盤となり、3年前にオープンした大型商業施設の周辺では、70もの店や事業所が営業しています。道の駅や津波伝承館、市民文化会館や運動公園が去年から相次いでオープンし、民間でも農業テーマパークや野外音楽堂建設の動きがあります。

 中心市街地に去年開業した商店街へ行くと、30代の写真館のオーナーが話をしてくれました。

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東京出身の男性で、震災の3年後に移住したそうです。大学卒業後、仕事を探していたところ、知人から誘われて陸前高田にやって来たそうで、それまで陸前高田という地名とは、一切縁がありませんでした。現在は写真撮影のほか、市や企業の依頼を受け、様々なP R動画も制作しています。ここに住み続ける大きな理由は、移住後にできた仲間の存在だと言いました。

 「知らない町に思い切って飛び込んだほうがいいかもしれない、3年くらい行ってみようかな、というのがきっかけだったんです。震災で全て流されて、借金に借金を重ねてそれでも頑張っている人がいるわけで、自分もその人たちと一緒に頑張りたいというのが強いですね。よそ者と言われて虐げられるんじゃないか?とか考えましたけど、仕事を終えてカラオケに行って、夜中の2時、3時まで喋っているとか、そんなことができる友だちもいて、この町に来て出会いがあったことが、本当にありがたいですし、仲間として認めてくれている方がいる以上、ここを故郷にしなきゃいけないと思います」

 男性は去年、東京の女性と結婚しました。来年には奥様も陸前高田に来る予定だそうです。