7月25日放送「福島県 南相馬市」

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 今回は、福島県南相馬(みなみそうま)市です。人口は約5万3千で、原発事故の影響はもちろん、津波では630人あまりが犠牲になりました(県内で最多)。市内は北から、鹿島(かしま)区、原町(はらまち)区、小高(おだか)区に分かれていて、はじめに原町区と鹿島区に行きました。

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原町区のごく一部を除き、この2つの区には国から避難指示は出ていません。しかし、津波の被害が非常に大きく、原町区は原発事故から半年間、国が自主的な避難を勧める“緊急時避難準備区域”に指定されました。


 まず原町区にある乗馬の練習場に行き、7月末に開かれる伝統行事『相馬野馬追(そうまのまおい』(国指定の重要無形民俗文化財)の参加者を訪ねました。

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野馬追の起源は千年以上前といわれ、甲冑を身に着けた騎馬武者による行列や競馬、数百騎の騎馬武者が旗を取り合う“神旗(しんき)争奪戦”など見どころも多く、去年は3日間で16万人が訪れました。今年は新型コロナの影響で行事の大半が中止となり、この練習場の厩舎で自分の馬を飼育する40代の男性は、こう言いました。

 「せっかく南相馬に生まれた人間なんだから、地元のお祭りを継承するというか、自分も参加して祭りを盛り上げたいなと思っていて…。正直、野馬追のためだけに馬を飼っているので、コロナのせいで野馬追がなくなって、“この野郎”って感じですよね」

 練習場を管理する60代の男性は、原発事故直後、自らの避難生活もそこそこに馬たちの避難先を探すために奔走し、北海道の牧場に一時避難させました。遠くを見ながら、ぽつりとこう言いました。

 「原発事故で野馬追をやめた人はいない…私の知る限りではね。遠くに避難しても“野馬追に出たい”と駆けつける人もいますよ。自分がここを離れなかったのは、野馬追が好きだからね。それをやるために、ここを離れなかっただけですよね。野馬追がなかったら、どこかに行っていたかもしれないね」

 震災と原発事故の後、困難から必死に立ち上がる南相馬市の象徴が、相馬野馬追でした。新型コロナは人々の心の中にも、大きな傷を残しています。


 次に、ロボット開発に参入した原町区の町工場を訪ねました。

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創業40年余で、産業用機械などの設計・製造を手がけています。開発しているのは廃炉作業に関わるロボットで、冷却水で満たされた福島第一原発の炉心部など、放射線が高い場所で線量を測定する水中ロボットです。こうした地元企業の動きは、市内で今年3月に開所した“福島ロボットテストフィールド”と関連しています。国内最大級の約50ヘクタールにおよぶロボットの研究開発拠点で、復興の柱として県が整備しました。ドローンや水中探査、自動運転など、最先端のロボット関連企業や研究所が利用します。

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訪れた町工場の2代目で、ロボット開発を主導する30代の男性はこう言いました。

 「ロボットの研究拠点を南相馬市につくると聞いた時、我々もチャンスだと思って、いま持っている技術を応用して何とかできないかと始めました。南相馬市は沿岸部で最も津波の被害が大きかった所で、そういう地域の企業として、我々が少しでも貢献できないかなと…。我々がロボットをうまく軌道に乗せて、“南相馬といえばロボットの街だね”と世界の方に思われるようになればいいなと思います。マイナスからゼロに戻すだけで終わりたくなくて、ゼロからプラスに持っていけるようにしたいです」


 そして鹿島区では、去年、9年ぶりに再開した北泉(きたいずみ)海水浴場に行きました。

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今年も7月23日からオープンしています。ライフセーバーを担うのは地元のサーファーたちで、サーフィン歴45年の60代の男性も、その一員です。男性の自宅や経営していたサーフショップは津波で流され、震災の翌年、海から3km離れた場所に新しく店を構えました。

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自宅も再建し、家族で暮らしています。

 「私は全て失ったので…家を流されて、仕事場を流されて、家族はみんな避難したんですけど、おふくろだけ入院していたんですよ。一緒に避難できなくて会津の病院に転院になって、亡くなったのが4月1日(震災の半月後)です。親父は一緒に避難したんですけど、おふくろが亡くなって半年後に亡くなって…。“俺、もう何にもない”みたいな感じで、それでサーフィンまで取り上げられたら、“俺、生きていられるのかな?”みたいな…。近所で家族を亡くした人がいて、その人が野馬追に出て復興するんだと頑張っていたので、自分も復興するのはサーフィンしかないなって思いました」


 その後、小高区に行きました。

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福島第一原発から20㎞圏内で、国から避難指示が出たため、5年あまりも全住民が避難を強いられました。今年7月12日、避難指示の解除からちょうど4年になりましたが、現在、小高区内に住んでいる人の数は、震災前の約3割です。2年前、生鮮食料品や日用品を扱う商業施設がオープンし、去年は“小高交流センター”がオープンして、子育てサロンや屋内外の遊び場、交流スペース、飲食店や地元農産物の直売所などもそろいました。他にもホームセンターが営業を再開し、食堂や鮮魚店、金物店、コンビニなども営業しています。新たな工場も稼働しました。
 はじめに、小高区に帰還した70代と60代のご夫婦を訪ねました。5年前にも取材していて、当時は自宅脇で経営する縫製工場に避難先から通い、働いていました。工場が地震で倒壊したうえ、同居していた息子家族とは別々に避難しなければなりませんでした。当時、ご主人はこう言いました。

 「今は採算は二の次なんだけれども、小高区の灯火の1つでありたいです。一人でも多く帰ってきて、一人でも多く商売をしてほしいし、その一つ一つの灯火が集まって、小高区が復興すると思います」

 あれから5年…。工場は、去年の大晦日をもって廃業していました。

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一昨年、ご主人は病に倒れ、健康不安も抱えながら経営を続けてきたものの、原料の仕入れ先の廃業も重なって、やむなく工場を閉じたそうです。現在は年金暮らしで、避難指示の解除後は息子家族も帰還し、同居しています。

 「やれるだけのことはやった、っていう感じはしています。いろんな方の支援を受けたので、本当は頑張らなくちゃいけないけれど、この辺が潮時かなって感じになりましたね。孫たちも子どもも同じ家の中にいて、夫婦でこうやって暮らしていられるから、ぜいたくを言ったらきりがないですよ。復旧は壊れたものを元に戻す、これは俺たちでできますけど、復興は若者で…移住とか、新しい仕事をおこすとか、企業誘致とか、頑張ってもらって新しい形の小高を作ってほしいですね」

 そして、ご主人が通う卓球クラブも訪ねました。工場を廃業後、週3回通うのが楽しみだそうで、住宅街にある体育館には、60代~80代の高齢者が集まっていました。クラブの設立は震災前で、避難先でも会場を借りて活動を継続し、現在は40人が通っています。

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クラブを運営してきたのは70代の男性2人で、こう言いました。

 「避難先で交流して、避難による心労をほどいた方がいいんじゃないかというので始まって…。家族みたいに何でも言えるような形で、話をするのが一番大事になって、自慢できるクラブだと思うよ。人間関係も作る、体力も作る、ここに来ると両面で収穫がありますね。このクラブは命です。残念ながら小高区を離れていった人がいっぱいいるので、クラブは日頃の寂しさが忘れる時間だね」


 最後に、コメ作りを復活しようと3年前に設立された、農業法人を訪ねました。

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震災前、小高区には約1200ヘクタールの田んぼがありましたが、津波と長期避難で田んぼは荒廃し、現在作付けしているのは震災前の8%に過ぎません。農業法人の社員は4人で、20代や30代の若者です。一日中農作業に精を出し、地域の人も、助っ人で頻繁に支援に来ています。コメ、大豆、タマネギなど、あわせて50haほど作付けし、独自の販売ルートも開拓してきました。社員の1人で、北海道の短大で農業を学んだ20代の男性は、実家の田んぼは地震で被害を受け、その後は農業を再開していないと言いました。

 「どうしても地元に戻りたいっていう気持ちがあったし、先陣切ってでも復興をやっていきたいっていう思いもあったし、地元愛っていうのがかなり大きいんで…。まだ小さい面積でやっていますけど、今後大きくなっていくことを夢に、世界にも発信できるような農業をやっていきたいです」

 また、地元の高校を卒業後、この農業法人に就職した20才の男性も、実家は農家でした。震災と原発事故で農業ができなくなり、それでも農業をやりたい思いが強く、今の仕事に就いたそうです。

 「南相馬って、やっぱり田んぼが多いと思うんですよね。いま苗が育ってくる時期なんですけど、田んぼが一面、緑色に染まるじゃないですか。その景色を眺めていると穏やかになるし、明るい気持ちになりますね。僕たちのコメは食感が普通のコメと違って、もちもちしているんですよ。ぜひ、みんなにも食べてもらいたいなと思いながら作っています」

 小高区内の居住者は3千人台からなかなか伸びません。彼らが、“採算が取れ、確実に給料がでる農業”を確立すれば、一人でも二人でも、若者が小高に戻り、移住者が増えるきっかけになるかもしれません。