7月18日放送「福島県 いわき市・広野町」

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今回はまず、福島県広野町(ひろのまち)の声です。


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人口は4700あまりで、福島第1原発から20㎞~30㎞の間にあります。事故直後には、国から“緊急時避難準備区域”に指定されました。“国として指示はしないものの、自主的な避難を勧める”という区域で、町は独自に全住民に町外へ避難するよう指示しました。ほぼ丸1年で指示は解除され、現在、人口の88%が町内に住んでいます。
 震災後は大手スーパーを核にした商業施設が誕生し、駅周辺には再開発ビルや大きなホテル、集合住宅ができました。駅の東側では、移住者を意識した57区画の住宅開発が進められています。他には、新たな中高一貫校“ふたば未来学園”(児童生徒510人)が開校し、国内屈指のサッカー施設“Jビレッジ”も、去年、全面的に再開しました。新たな特産品を目指してバナナも栽培され、出荷されています。


 はじめに、60代のコメ農家の男性を訪ねました。令和元年度は89戸の農家が148haにコメを作付けしましたが、コメ農家の数は原発事故前から7割以上減っています。

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 男性は隣のいわき市に避難した後、6年前に町に戻り、稲作を再開しました。今では他の農家から耕作を委託され、18haの田んぼを担っています。田んぼの整備を心待ちにしていた父は、2年前に他界しました。

 「何十年もきれいに耕してきた農地が、避難で一面雑草になりましたから…。戻って見た時は“もう終わりかな”と思ったね。親父がガッカリしたのも当たり前だと思いますよ。誰かが田んぼを再生しなくちゃいけない、自分がやるぞという気力、使命感がありました。今の整備した田んぼだけは、やっぱり親父に見せたかった…悔いがあります。今こうしてみんなから大事な農地を預かるからには、生涯、土地をきれいに保つ、この地区を守るにはそれしかないと思います。楽しみながら農家をやっていけば頑張っていけると思いますから、今の私には“生涯農業”、これしかないなと思います」


 続いて、郊外のパソコン教室に行きました。

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2年前に始まり、講師は広野町出身の30代の男性です。避難先の会津若松市でパソコン教室の運営企業に就職し、そこを退職してUターンしたそうです。

 「大好きだったじいちゃんが、家に帰ることなく避難先で亡くなって、すごくそこがつらいですね。何をする時にも、“明るく楽しく、元気よく行くぞ”と言ってもらえて、それが自分の根っこに植えつけられています。広野の魅力って、やっぱり人ですね。一人ひとりがすごく財産なので、うまくつないで地域を盛り上げていけるように、子ども、大人、お年寄りが集まる交流スペースを作りたいです。一度は町を出た子どもも、“やっぱり広野に戻りたくなった”、“戻ったらこんな大人たちがいるから、負けずに俺たちもやってやろう”という気持ちになるように、背中を見せ続けていきたいです」


 さらに、郊外の公園に行き、震災翌年から県沿岸部に桜を植樹している団体を訪ねました。桜の周りの草刈りをしていて、団体の代表は60代の女性でした。

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夫や息子と町内で暮らしています。震災前、高校生と共同で町おこしに取り組み、町を明るくしようと桜の植樹を企画しました。しかし、植樹を発案した高校生は津波の犠牲になり、女性はその思いを受け継いで植樹を始めたそうです。地元の高校生などと植え続けた桜は、1万3000本になりました。

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 「桜を通してうれしいこともあれば、複雑なこともあれば…。一つ一つをかみしめて、毎日過ごしています。複雑なのは、やっぱり3月11日が大嫌いなんですよね。いつも私の中のどっかにあって、過敏に反応することもあるし、そこを乗り越えるのはやっぱり大変かな。おそらく死ぬまで背負っていくかもしれないね。“原発事故があって悲しい浜通り(=沿岸部)”というだけじゃなくて、たくさんいいこともある所だし、桜の季節になったら世界中の人が見てくれて…原発を作った大人より、桜を植えようと言い出した子ども達の方が、先を見る目があったんですよね。考え方が子どもに負けたかな…」

 復興が進んだ広野町も、小中学校の子どもの数は震災前年より約3割減りました。廃炉や他町村の復興事業に関わる工事関係者が数多く生活し、転入届を出していない工事関係者も含めれば、実質的な住民は登録人口の1.5倍にもなります。町の中身が大きく変化した中で、これからの町づくりが行われます。



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 次に、福島県いわき市の声です。人口は約33万8千で、郡山(こおりやま)市とともに県庁所在地の福島市より多く、東北でも仙台市に次ぐ多さです。東北有数の水産都市で、津波では460人以上が犠牲になり、半壊以上の建物は5万棟を超えました。県内でも突出した津波被害です。去年は台風19号でも被災し、一部損壊から全壊まで、住宅の損害は約7300世帯、床上・床下浸水は約5700世帯でした。

 まず、市北部の久之浜(ひさのはま)地区に行きました。8mの津波に襲われ、60人以上が犠牲になっています。

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地区の小売店や飲食店は、震災前から4割ほど減少しました。津波で床上浸水した酒店を訪ねると、50代の店主夫婦が話をしてくれました。仮設商店街で営業を続け、3年前、元の場所に戻って営業を再開しました。現在は両親や子どもと6人暮らしで、仕事の大半は配達だそうです。

 「地元に人がいなくなったので、食べていけないから、私たちも地区の外に出て行くようにしたんですね。遠くは浪江町(なみえまち)まで行くから、70㎞近く行きます。広野町、楢葉町(ならはまち)、大熊町(おおくままち)、双葉町(ふたばまち)を通ってですから…ガソリン代も半端じゃないですよ。時間もお金もかかるから、利幅が少ない…いっぱいいっぱいですね。生きているのが、食べていくのが大変ですよ。こんなに一生懸命頑張って、毎日身を粉にして働いて、子どもを学校(大学)に行かせてやれないとか、そういう人がいっぱいいますよ。商売はまだ厳しいですけど、これでやっていくしかないんで…先が明るく見えないと、ほっとできないですね」

 津波の被災地域では、復興事業の完了を待ちきれなかったり、津波へのトラウマがあったりして、引っ越す住民が相次ぎました。そもそも個人の酒店は全国的に経営が厳しく、量販チェーン店やスーパー、コンビニでもお酒が買える時代です。その上、津波後に地区の常連客が減ったとなると、状況はますます厳しくなります。津波被災地としてのいわき市の現実を、知っていただきたいと思います。


 次に、トラックを改造した移動式ヘアサロンを訪ねました。店主は30代の男性で、母や妻も理美容師で、家族で店舗と移動式ヘアサロンを経営しています。男性は東京で美容師をしていましたが、3年前、父の死を機に店を継ごうと帰郷しました。父は道具持参で高齢者や障がい者を訪ね、個人宅で仕事をすることもあったそうで、店ごと移動できる車を持つのが夢でした。男性はその思いを継ぎ、去年、実現させました。

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現在は避難指示が解除された町にも出向き、利用者は月に100人以上になるそうです。

 「店に行けない人がいる…困っている人たちのために何かできないかと考えた時に、移動式のお店だったらできると…。思いだけで動いてしまったので、当初は全く儲からなくて悩みましたけど、今は本当に必要とされて、経営面でも軌道に乗ってきました。被災したお客さんは皆さん、最初は構えて全然しゃべらないし、震災の話をしようものなら、“それしないで”って感じで…。でも回数を重ねるうち、震災のことで自分の心の中でたまっているものを話してくれたりして、そういうお付き合いができるのは、すごくありがたいし、この仕事の醍醐味だと思っています」


 最後に山あいの三和(みわ)地区で、浪江町から避難してきた、畜産農家の60代の男性を訪ねました。いわき市は原発事故の避難先として大きな役割を担い、一時は2万人以上が避難してきました。男性は帰還困難区域となった津島(つしま)地区の出身で、今も避難指示は解除されていません。原発事故後、大型トラック5台を借り、2日がかりで県内各地の畜産農家へ500頭の牛を避難させました。知人の紹介でいわき市に土地を見つけ、4年前、億単位の借金をして牛舎を新築したそうです。

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 「果たしていわきに行ってどうなるんだろう…そんな考えをする暇もなく、とにかく今日は今日、明日は明日でどうなるか分からないけど、無我夢中でやってきましたね。絶対に牛をやめない…震災当時もその想いでしたし、まあ、やってきて良かったとつくづく思います。牛しか考えられなかった…私の人生ですよね。牛をやめたら終わりだなと思ったの。絶対やめないという気持ちが強かったです。やっぱり津島に行くと落ち着くんだよね。やっぱり精神的に安らぐんだよ。山菜も豊富にあったし 川魚もけっこういて…きちんと除染してもらって、元のきれいな津島を返してもらいたい」

 福島県内の帰還困難区域の住民には、自分の人生を全否定されたと感じる方も少なくありません。諦めたら終わり、という男性の思いがどれほど重いものか、受け止めなければなりません。