7月11日放送「福島県 楢葉町」

 このたびの九州各地や岐阜県の豪雨で被災された皆様に、心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。
 東日本大震災以降、九州北部豪雨(2012年)、台風18号と26号(2013年)、広島の8月豪雨(2014年)、関東東北豪雨(2015年)、北海道豪雨と台風10号(2016年)、2度目の九州北部豪雨(2017年)、西日本豪雨(2018年)、台風19号(2019年)と、何千もの家屋が被災し、犠牲者も出た台風と豪雨は毎年起きています。川の氾濫、土砂崩れ、流された家、壊れた泥まみれの家、ご遺族の涙、避難所…そうした映像が毎年流れています。“一体どういうつもりだ!”と、自然に対する怒りすら湧いてきます。
改めて、このたびの豪雨で被害を受けた方々にお見舞い申し上げます。 


 さて今回は、福島県楢葉町(ならはまち)の声です。

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人口は約6800で、原発事故で全住民が避難しました。2015年9月に避難指示は解除され(全住民が避難した自治体としては初)、仮設住宅の提供も2017年度で終了しています。現在は人口の約6割が町内に、約4割が避難先などの町外に住んでいます。
 2年前、食品スーパーとホームセンターを核に、個人商店など10店舗が入った商業施設が開業しました。その隣には、フリースペースや音楽ルームなどを備えた交流施設が完成し、周辺の土地には平屋の公営住宅(170戸)や新築の個人宅があります。CTや内視鏡検査も可能な県立診療所、歯科医院、薬局(今年6月開業)もそろい、デイサービスセンターや特別養護老人ホームも再開しています。酪農や畜産、稲作のほか、産地化に向けてサツマイモの栽培も拡大し、町も大規模貯蔵施設を整備しました。プールやジム付きの体育館、国内屈指のサッカー施設「J ビレッジ」も全面再開しています。ハード面の復興は完成形に近づいており、東京や仙台にもJR常磐線一つで行けるようになりました。

 はじめに、“道の駅ならは”に行きました。

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去年、日帰り温泉施設が再開し、今年6月には9年ぶりに物産館が再開しました。町内や近隣の町でとれた新鮮な野菜や特産品が並び、土日には1日1500人が訪れます。長くJAに勤務した後、今年4月に駅長に就任した60代の男性は、こう言いました。

 「本心で、“良かったな”…これに尽きます。スタッフの募集や教育、施設の整備、関係機関の調整と、本当にマイナスからのスタートですから、正直大変つらかったです。なるべく地元採用を考えているんですが、なかなか若い方が帰町していない…お子さんを育てる若い方々は町外で生活していますね。雇用の場は広げたんだけど、実際に働く方が来ないという、我々が望んだようにはなかなか動かないです。こういう施設ができて、交流人口をどうやって拡大していくかが本当の仕事です。自分たちで何とかしなくちゃならない…誰も何とかしてくれませんから。我慢、辛抱、忍耐に尽きると思います」

 そして、町内の特別養護老人ホームに行きました。

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原発事故直後、入居者80人がいわき市の学校に避難して過酷な経験もしましたが、避難指示解除の半年後に再開しました。施設長は50代の女性で、自宅は双葉町(ふたばまち)にあり、震災前から車で通勤していたそうです。原発事故で自宅は帰還困難区域に入り、現在は避難先のいわき市で夫と暮らし、毎日通っています。

 「なかなか地元から職員を採用するのが難しい状況です。現在は半数以上がいわき市からの通勤です。若い方々は避難先にとどまる形で、世帯を分散して帰還していますので、こちらに就職する若い年齢層がいない状況と考えています。原発事故がなければ、私も双葉町にいて、老後の生活を描いていたんですけど、新たな人生設計をせざるを得なかった…何回も避難して住む場所が変われば、その住んだ所で新たなつながりを構築しなければいけないので、積極的にできる人はいいですけど、できない人は、特に高齢になった方は大変ですよね。この9年間ずっと避難生活をして、いろんな環境でいろんな人たちと接点があって、やはり人とのつながり、当たり前の生活がいかに大事か実感しました」

 道の駅も介護施設も、人手不足という共通の課題を抱えています。特に介護施設では、職員不足のため利用者の受け入れを抑え、事業収支に影響しました。町で暮らす人(人口の6割)のうち、46%は60歳以上です。世間一般の感覚でいえば、ほぼ半分が定年後の人になります。他の町から通うのは手間がかかって敬遠されやすく、雇ってもあまり続きません。まだまだ原発事故の傷は残っています。
 さらに、萩平(はぎたいら)地区を訪ね、3年前、避難先のいわき市から妻と帰還した男性を訪ねました。現在85歳で畑仕事の日々ですが、原発事故で一変した地区の姿が、常に心に引っかかるそうです。

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 「子どもの頃からここに住んで、土地も家も守る責任がある…戻らないわけにはいかない、まさか逃げ出して、どこかに行ってしまうわけにはいかなかったね。戻ってきてほっとするけど、“ここに帰ってきて、大声で腹から笑ったことあるかなあ?”とふと思ったの。そしたら無いですね。本当は安心してゆっくりできるはずだけど、工事で土を運ぶ車の音が、夜、すごいんです。地震がきたような音で、落ち着かないです。町を歩いても子どもがいないし、子どもが戻っている家は何軒あるか…。子どもの顔を見ると珍しくなる、かと言って、気安く声をかければ今どき面倒になるし…寂しいですね」

 男性はまた、福島県民の変化も心に引っかかると語りました。東電の賠償の有無や多い・少ないで、県民どうしが互いを批判する姿に、80年以上福島で生きた人間として心を痛めていました。

 その後、創業85年を迎える町内の菓子店に行きました。人気の「茶まんじゅう」は昔から町民に愛されてきた味で、店主は3代目となる50代の女性です。5年前、避難指示解除とともに帰還して以来、店の再建に長い時間を費やし、今年3月、9年ぶりに営業を再開しました。

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 「店をやめようと思ったことはないですね。製菓学校の仲間、趣味の仲間、みんなが支えてくれて、“何でも言ってよ”とか“協力するよ”とか、言ってくれていたんです。落ち込むこともあるけど、それ以上に、心配してくれる友人たちの励まし、たくさんの出会いがありました。震災が帳消しにはならないけど、自分の人生での一つの経験として、“だからこそ頑張ろう”、“店を復活して、支えてくれた人に私の作ったおまんじゅうを届けたい”、そういう思いも根底にあったかな。亡くなったけど、店を残してくれた両親、祖父母、支えてくれている友人、知人、家族、みんなに感謝です」

 また、JR竜田(たつた)駅前で50年近く営業する食堂を訪ねました。50代の夫婦が営む店で、避難後は3年間休業しました。役場近くの仮設店舗で再開し、2年前、かつて店を営んだ地区に戻りました。商業施設と周辺の公営住宅の完成で、原発事故前と人の流れが変わったそうで、奥様はこう言いました。

 「私たちが店をやる場所は楢葉しかない…主人も最初から思っていたようで、楢葉に早く帰って、楢葉で店をやる気持ちは最初からありました。でも、お客さんがこんなに少なくなるのかって、今すごく実感しています。仕事でここに来ても、電車の最終も早かったりするので、夜は帰りますよね。お酒を飲むには物足りない時間かな。震災前、駅前は小さい薬屋、魚屋、酒屋、電気屋、駄菓子屋があって、人の往来が結構あったんです。今ではうちの店が閉まっていると、夜は真っ暗で、すごく静かなのね。やっぱり、人が駅に降りて、“昔もこの食堂、竜田駅前にあったよね”、“この店は明るくて元気でいいね”と言われることが、一番だと思っています。笑顔のイラストをカウンターに貼って、笑顔を忘れそうな時にはそれを見て、心新たにしてまた頑張っています」

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 そもそも、住民(=需要)が町全体の6割という中で商売するのは、勇気がいります。言葉の中には、商売だけではない、町に対する自分たちの役割を自覚し、果たそうする思いがありました。
 最後に、交流施設『ならはCANvas(キャンバス)』で、地域おこし協力隊の20代の男性と会いました。

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学生時代のボランティアが縁で、3年前に楢葉町に移住したそうです。現在の活動は、空き家を活用して全国のクリエイターが集まる拠点を作ることです。男性もデザイン技術を学んだクリエイターで、町のポスターやタウン誌も制作し、交流施設のロゴもデザインしました。

 「ボランティアだった頃、おじいちゃん、おばあちゃん、楢葉町の人たちが“お前、学校の単位取れたのか?”、“仕事どうしてる?”って、僕のことを心配するという…そんな関係が多かったので、この土地に生きる人と生活してみたいと思って、引っ越しました。楢葉町の方が生活する一つ一つが僕にとっては発見で、そういうところが面白いし、見つめていきたいです。僕もこの地で楽しく生きて、新しい若い人を呼んでくることで町が楽しくなったり、町の人もいきいきするのではと思っています」

 福島県への移住者には、これまで他の町でも結構会ってきました。既成概念にとらわれない彼らのエネルギーもまた、今の福島には必要な要素です。