6月27日放送「福島県 飯舘村」

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。

 今回は、福島県飯舘村(いいたてむら)です。

200627p2.jpg

原発事故で全村避難しましたが、2017年3月、村南部の長泥(ながどろ)地区(=帰還困難区域)を除き、避難指示は解除されました。人口は約5300(事故前より2割減)で、そのうち実際村に住むのは1500人ほどです。村内に4校あった小中学校は今年3月で閉校し、この春新たに、小中一貫校が開校しました。現在、65人の子ども達が通っています。

 

 はじめに、松塚(まつづか)地区に行き、5年前に出会った70代の男性を再び訪ねました。避難先の福島市で取材した和牛の繁殖農家で、牛を3頭だけ連れて何とか避難し、福島市郊外で畜産を再開させていました。当時は30頭余りの牛を飼い、後継者に選んだ三男は京都の精肉店で働いていました。

 「農業は駅伝みたいなものです。農地は“たすき”。我々で“たすき”は投げたくない…次のランナーに渡したいということです。この話になると、つい涙腺が緩んじゃうんだよね。飯舘の土地が荒れた光景を見たくないというのが心の中にあって、畜産によって農地を再生するしかないと思っているんです」

 あれから5年…。避難指示の解除後、京都から戻った三男に経営を任せ、去年からは村内の牛舎で畜産を再開しました。

200627p3.jpg

新たな牛舎は村が交付金を利用して建てたもので、農家に無償貸与しています。広さは1200㎡、最大80頭ほど飼えるそうです。3年前には、水田を牧草地にする実証実験を始め、県畜産研究所と共同で、放射性物質が牧草や牛に移行しないか調べています。この先、村内に多数存在する休耕田を借りて放牧地に変え、畜産で村を復興させる考えです。現在は福島市から通っていますが、村内の自宅も建て直す予定で、この秋には法人化も控えています。

 「“たすき”を渡せた実感はありますね。これからどうなるか不安もあるけど、ほっとしています。この10年は、また飯舘で農業をやるんだぞという思いを心の中で言い聞かせながら、前に向かって進んできた毎日ですから。コロナで子牛の値段もガクンと下がりました。農産物も全部下がって売れません。さらには放射能の風評がまだまだ続いて、これもなかなか元に戻りづらいです。それでも俺は、前進あるのみで、前を向いて生活していきます」

 次に、 飯樋(いいとい)地区に向かい、60代の農家の女性を訪ねました。

200627p4.jpg

避難先の福島市に住み、村に通っています。原発事故前から作っていた“いいたて雪っ娘(こ)”という特産のカボチャを栽培していて、積み重ねた努力を無にしたくないと、全村避難後も福島市で栽培を続けました。避難指示の解除とともに村内で生産を再開し、お菓子やレトルト食品など様々な商品も販売しています。

200627p5.jpg

女性は栽培グループの代表として販路開拓に努め、今では大手スーパーとも取引しているそうです。

 「正直、もういいや、もう勝手にどうぞと思うことが何回も何回もあったんだけど、やっぱり1つ1つ手入れをして、飯舘とは違った土でも負けずに成長していく姿を見ると、やめるということができなかったんですね。避難先でも芽が出て、ちゃんと花が咲いて、実をつけて、命を全うしようとする…すごく感動して、私も何とか避難にめげないで頑張れたという面もあります。私が一生懸命育てて、雪っ娘の一粒の種からの物語をちゃんと語り、つないでいけるようにしたいです」

 また、須萱(すがや)地区にも行き、避難指示解除後、地区で最初に稲作を再開した60代の男性を訪ねました。再開直後に一度取材した方で、除染で表土を取ったため、土作りから始めたと言いました。

 「果たしてこれをやって、どれくらいコメがとれるか分からない…5キロの小袋でいいから、1人でも多くの人に買ってもらえたらうれしいな…。“おいしかったね”と言われるようにしてみたいんだ」

 あれから3年…。男性は、避難先の二本松(にほんまつ)市に構えた自宅から1時間かけて通い、今もコメ作りをしていました。栽培面積は4haと以前の3倍に増え、地区では男性の他にも、新たにコメ農家が1人増えました。

200627p6.jpg

男性のコメは道の駅にある直売所に並べられ、食堂でも使われています。

 「やって良かったんだろうな。他もやる気になって(作り手が)増えたから。前に進めれば、誰かしら見ている人はいるんだと、俺は思うの。暗いことばかり考えていたってしょうがないから、前へ前へと動くしかないんじゃないかと思っただけ。俺のコメを毎月買って行ってくれる人もいるし、隣町からも、わざわざ食べたいと言って買いに来る人がいるんだよ。体力ある限り、農業で頑張りたいね」

 さらに、深谷(ふかや)地区で花を栽培する、60代の男性を訪ねました。避難先から通い続け、9年かけて少しずつ花を戻したそうで、栽培面積は原発事故前とほぼ同じになり、山野草を中心に1000種類ほど栽培しています。

200627p7.jpg

道の駅に出荷するほか、花を見に訪れる人にも直接販売しています。

 「避難した時は鉢花が結構あったの。それを敷地の脇にずーっと植えてから避難したの。だって、かわいそうだもんな。水をかけに来られないもの。それでも半分以上は枯れて、もう終わったと思ったね。 ただ、生きていた花もあったから、何とか再開できたんです。

200627p8.jpg

きれいな花をみんなに見てもらいたくてやっている…それだけだな。全然利益にならないけどね。オープンガーデンなので、もうちょっと人に見てもらうように、日々努力だね。道路の脇、県道筋くらいはきれいに飾っておけば、皆さん和むんじゃないかと…あわよくば、飯舘はいい所だなって、来てもらえればいいね」

 原発事故前、全世帯の半数以上が農業をしていて、農業は村の全てに溶け込んでいました。先祖は開拓農家だという方も結構いて、先祖の血と汗の結晶である農地は家宝です。農地は大事な“たすき”だと語った畜産農家の思いもそこにあります。全村避難を余儀なくされ、優良農地は荒れ地や除染廃棄物の仮置き場となり、家畜も手放しました。自らの代で農業を諦める決断をした方々も、非常に多いのです。それでも、村にあった約700haの田んぼのうち、100haで再び苗が育っています。肉牛だけでなく酪農でも、村内外の農家5人が設立した会社が事業を始めています。避難指示の解除後、4人の農家がカスミソウの栽培を始めました。花は省力化が可能で、食用ではないため風評も受けにくい品目です。花を始める農家はその後も現れています。農業を取り戻すことは、村そのものを取り戻すことなのです。

 

 その後、飯樋地区で、去年村に帰還した70代の女性を訪ねました。村で舞踊教室を開いて40年という女性で、自宅も建て直し、稽古ができるスペースを設けたものの、お弟子さんの利便性を考えて隣の川俣町(かわまたまち)で教室を続けています。避難者の慰問などで踊りを披露してきましたが、新型コロナの影響で2か月近く活動を自粛していました。

200627p9.jpg

 「毎日慰問があったんですが、4月の初めにキャンセルになって、やっと頑張ってきたところにショックでした。やっぱりみんなの前に行って踊ると、お互いに元気もらうというか…歌や踊りのつながりは大きいよね。そのおかげで、避難してからも頑張ってこられたという面はあるよね。私たちは呼んでもらってありがとうという気持ちでお客さんの前に入っていくの。お客さんは来てくれてありがとうって気持ちで、“また来てね”って言うし、そう言われると、また行かなければと思う…それが支えです」

 最後に草野(くさの)地区に行き、子どもの減少で閉園した幼稚園に行きました。

200627p10.jpg

園舎は現在、刃物の工房にリニューアルされ、40代の職人の男性があるじです。村の支援を受け、去年福島市から移住してきた方で、奥様も村の地域おこし協力隊として活動しています。鏡面(きょうめん)仕上げという手法を使った、切れ味が良くてさびにくい包丁が評判で、海外の方がネットで購入するケースが多いそうです。

200627p11.jpg

取材した日は、地元の方が農機具の研磨を依頼に来るなど、つながりも深まっています。

 「周りに民家がないので、気にせず作業できますし、体育館も使っていますが、広さがあると工程を組むにも幅が広がってメリットですね。休憩で外に座っていると、木の葉がこすれ合う音、鳥の音、猿がいたり、すごく時間がゆっくり流れていて、最高のロケーションでやらせてもらっています。飯舘に“までい”という方言があって、“丁寧に”という意味なんですけど、それを日々追いかけてやっていきたいです。子ども達とか外国人の方にもここへ来てもらって、体験教室などもやりたいと思っています」

 村に住む人は少ないものの、その1割あまりが転入者、つまり移住者です。前述した畜産農家の男性も、実は牛舎の一つを相馬(そうま)市から移住した30代の男性に貸していて、4頭の牛で繁殖を手掛けています。先週放送した若い世代の特集でも、飯舘村に移住してカスミソウ栽培に取り組む女性がいました。“帰りたくても帰れない”という人にも配慮して、村は帰還者数の目標は設けていません。移住の受け入れや季節ごとに村内外を住み分るなど、複眼的に新たな村のあり方を模索しています。