4月4日放送「岩手県 宮古市」

 3月11日が過ぎ、いよいよ震災から10年目(この番組も10年目)に入りました。先月、福岡県に住む50代の女性から番組にメールが届き、“こちらでは番組を見られないので、3月の全国放送の回を毎年見ています。取材に答える皆さんの今を見て、襟を正すような思いです”(詳細は「被災地からの声/メッセージを読む」のページへ)とありました。年に数回の全国放送をチェックして見ている方が、遠い九州にもいらっしゃいます。意を強くして、今後も番組を続けていきたいと思います。

 さて新年度最初は、岩手県宮古(みやこ)市の声です。人口は約5万1千で、津波で500人以上が亡くなりました。2600棟以上の住宅が全壊しましたが、4年前には災害公営住宅が全て完成し、その他の復興事業もほぼ終わりました。去年は台風19号で再び大きな被害を受けましたが、現在は中心部の商店街などもほぼ元通りになっています。

はじめに、市の中心部から車で30分ほどの音部(おとべ)漁港に行きました。

200404_1.jpg

震災から7ヶ月後、私たちはこの港の近くにあった仮設住宅で、8歳、5歳、2歳の3姉妹と出会いました。両親はコンブやワカメの養殖を行っていて、自宅に加え、船や漁具も全て流されたそうです。長女は、

「音部は好きだけど、津波に流されました。早く家を建てて元通りの生活がしたいです」

 と言いました。あれから9年…今回、再び姉妹を訪ねてみました。たまたま次女が不在で、長女、三女に会うことができました。両親は6年前、地区の高台に自宅を再建し、祖母を含め家族6人で暮らしています。2人ともすっかり大人で、長女は16歳の高校生、三女は11歳の小学生です。休みの日には養殖の仕事を手伝っていて、この日もメカブから茎を取る作業をしていました。長女はこう言いました。

 「新しい家はいいです。広くてのびのびできるし、部屋もあって自由に過せるので…。家が建って、生活も安定して、今は楽しいです。仕事の手伝いは震災後から始めました。養殖の仕事は夜中に起きたりして睡眠時間も少ないので、大変だなと思います。今まで育ててきてくれたし、一番はやっぱり、親を少しでも楽にさせてあげたくて、これからは家の手伝いを積極的に頑張りたいです」

  震災さえなければ、親のことで気を揉むこともなく、のびのびとごく普通の少女時代を満喫できたかもしれません。しかし震災があったからこその少女時代も、将来必ず、自信になると思います。

 次に、先月中止になった政府主催の追悼式で、岩手県代表として遺族の言葉を述べる予定だった男性を訪ねました。

200404_2.jpg

70代の元市役所職員です。津波で自宅は全壊し、同居していた両親と叔母を亡くしました。現在は中古住宅を買い上げ、妻と長男と暮らしています。震災の年に市内で臨時災害FM局を立ち上げ、パーソナリティーや裏方を務めながら、被災者に役立つ情報を2年間伝え続けました。

「震災直後は両親と叔母の行方を捜すのに精一杯でしたし、後先のことは何も考えられなかったですね。FM局の仕事に熱中していると、困ったことや悩みごとも忘れますし、被災者の皆さんのお役に立てればと勤めてきました。追悼式では、犠牲になった家族に“元気にやっているよ”って伝えたかったし、たくさんの支援のおかげで、平凡な日常が戻ったことへの感謝を伝えたかったです。今も少し、震災前を思い出しながら生活していますけど、それでも平凡な日常には変わりないと思っています」

  宮古市の復興事業は、事業費ベースで見ると、先月までで9割以上が完了しています。同じように平凡な日常に感謝する市民も少なくないと思います。

 さらに、市の南部にある金浜(かねはま)地区に行き、7年前に取材した保育士の女性を再び訪ねました。

200404_3.jpg

当時は20代で、仮設住宅で両親と祖母と暮らしており、こんなことを言いました。

「いま欲しいのは家ですね。家族4人で一緒に暮らしたいって思いがすごく強くて、一人娘なので、できれば婿をとって一緒にその家に住めたらいいな…みたいなことは思いますけど。来年はちょっと張り切って婿探しをして…(笑)」

あれから7年…。女性は30代になり、なんと先月、東京出身で市内の高校に勤める先生と結婚したそうです。家は4年前に、大工の父が新築しました。

「新しい家に住めるようになって、夢というか、一つ目標がかなったので、すごく良かったなと思っています。おばあちゃんは住んで1年も経たないうちに亡くなったんですけど、一緒に住みたいという目標はかなったので、家族としては良かったなという気持ちです。震災で物は失ったんですけど、人との絆というか、改めて支え合うことが大事なんだってすごく思って、台風が宮古に来た時もボランティアに参加しようという気持ちになりました。後ろばかり見ないで、頑張っていきたいと思います」

その後、田老(たろう)地区に行き、2年前にオープンした道の駅を訪ねました。

200404_4.jpg

そこには震災後に開業したペットフードや雑貨の販売店があり、飼い主が犬を連れて入店し、交流の場にもなっていました。だしを取ったあとの煮干しなどを飲食店に提供してもらい、ペットフードに加工しているそうです。

200404_5.jpg

店主は40代の女性で、双子の妹が犬の訓練士をしており、その縁で店を始めました。妹は震災当時、内陸部でドッグスクールを運営していましたが、実家が流され、2週間後に田老に戻りました。2年前にNPOを設立し、捨て犬などの保護やペット同伴の避難訓練を行っています。店があるのは、流された実家があった場所で、妹はこう言いました。

「それまでは全然、本当に恥ずかしいくらい、ふるさとへの意識は全くなかったんです。あるのが当たり前で、気にしたことすらなかったのが、やっぱり無くなってみると、郷土愛に初めて気づくというか…我ながらびっくりしますね。いま帰らなきゃ後悔するという思いがあって、自分は帰る役目なんだなって思ったんです。震災で亡くなった方々もそうですし、生きたいのに生きられなかった命も保護活動でたくさん見てきて、命ある限り、自分の人生をしっかりと生きることが皆さんへの感謝にも、亡くなった方々への感謝にもなるんじゃないかと、すごく感じています」

そして、道の駅のすぐ裏に小屋を見つけ、訪ねてみました。

200404_6.jpg

建てたのは元高校教師の70代の男性で、仮設住宅で一緒だった仲間と集まるため、2年前につくったそうです。男性は自宅を流され、現在は災害公営住宅に妻と暮らしています。小屋があるのは、明治以来、代々受け継いできた土地でした。

「いい場所を作ったと思っていますよ。仮設ではしょっちゅう集まりがあって、それが楽しみだったの。バラバラになったら、そういう場所が無くなったから…。今まで考えなかったけど、津波を機に、私の人生はあと何年だなって思ってね。“生きていてよかった”って人生にしないともったいないと思うようになったね。残りの人生を吟味して生きなくちゃだめだと思います」

さらに道の駅のすぐ近くには、2年前に開店したカフェもありました。

200404_7.jpg

店主は流ちょうな日本語を話す、米国出身の50代の女性です。27年前に宣教師として来日し、青森県の教会に勤めていました。震災直後から、物資の提供をはじめ、仮設住宅で小物づくりの集まりを開くなど、物心両面の支援を続けてきました。4年前の台風10号では、活動中に自分の車が流される被害も受けましたが、支援を継続してきたそうです。仮設住宅の閉鎖後、田老地区の住民のコミュニティーが壊れてしまうことに危機感を持ち、被災者が集う場としてカフェを始めました。当初は県外から通って営業していましたが、2年前に宮古市に移住し、月に1回はコンサートなども開催しています。店内はスイカのグッズでいっぱいでした。

200404_8.jpg

「1994年にロサンゼルスで大きい地震があった時、私の家の中の物が全部壊れてしまって、その後は明るいもので家を飾ったら気分も明るくなるかと思って、全部スイカ食器とスイカ飾りにしました。こちらの被災地でも、必ず希望のシンボル、復興のシンボルのスイカで飾りたいなと思って…。カフェができてから、仮設の時の仲間も来ますし、新しいお客さんも来て楽しい交わりができるんです。落ち込んだり、さみしいと思ったらここに来て、元気になって帰ってもらえることを願っています」

 このカフェにしろ、前述の小屋にしろ、仮設を出てバラバラになった住民の絆を維持するのが目的で、復興と反比例して、地域コミュニティーが弱体化するのは被災地共通の課題です。さらに言えば、皆が横並びだった仮設住宅と違い、ある人は持ち家を諦めて公営住宅に入り、ある人は新しく家を建てるという状況では、心理的にもバラバラになります。以前の田老地区は、国道45号線沿いに住宅も店も密集していました。それが震災後、人口が3割以上減り、住民は高台にある移転先と、土地区画整理が行われた低地に分かれてしまいました。ちょうどその中間の位置にあるのが、カフェや小屋、さらにペットのための店で、これらは今後の住民交流の拠点としても重要になります。