未来への証言 鳩風船が導いた妹への思い

今回は、宮城県岩沼市の大宮真由美さんです。
大宮さんは、当時33歳。自身は大きな被害を免れましたが、
名取市閖上地区に住んでいた妹の恵さんを亡くしました。
安否が分かったのは、震災から8日後のことでした。
聞き手は、NHKアナウンサーの宮崎あずさです。

▽証言はこちらから(音声が再生されます)▽

宮﨑)妹さんたち別々に住んでらっしゃって、
安全というのはどういう感じで確認されていったんですか?
大宮)地震があって、で連絡がつかなかったので、
自宅の閖上まで歩いて行ったんですね。そのときにもやっぱり自宅もないし
無残な姿にもなってたので、避難所に逃げているんじゃないかっていうことで
避難所周りを震災の次の日から回り始めて。
まず遺体安置所っていうのがボウリング場で名取の方はあったので、
そこにいてほしくはないんですけれども19日の時に見つけて。
私たちもその遺体安置所のほうに向かって、何百体っていうひつぎはいっぱいある中で
あちらこちら悲鳴のような泣き声だったんですけど、
こっちだよっていうふうに兄が手振ってたのでいってみたら、
なんでここにいるんだろうっていうその死んでしまったっていうのと
私も泣くんじゃなく悲鳴をあげたのは覚えてますね。

妹を失った事実と向き合えなかった大宮さん。
変わるきっかけは、震災伝承を担う団体「閖上の記憶」が企画した催しでした。
3月11日の命日に、ハトの形をしたたくさんの風船を空へ向かって放つ、
追悼のイベントでした。

大宮)私、7年間閖上に来れなかったんですよね。
妹がいなくなってしまった場所っていうその気持ちがすごく高かったので、
海を見ることもできませんし、やっぱり閖上のことに関して知りたくない聞きたくない、
シャットアウトしてた部分があったんですけども。
閖上の記憶、ハト風船をあげるというのを周りから聞いて、
ちょっと行ってみないかということで、母と子どもたちと言ったのがきっかけですね。
でそこで初めてあげたときに、
私のぐずぐずして気持ちまで一緒に飛んでいった感じですね。
あのときは本当に、涙がものすごかったです。ものすごい感動と、
妹からの後押し、仕事も私もなかなかできなかったんですけども、
そこから火がついたかのように、誰かのために、妹の分までやろうっていう
気持ちがすごくわいたのは7年目です。

震災当時、妹の恵さんは、難病を発症していました。
兄も甥も同じ病気です。
闘病中だった亡き妹の面影を胸に秘め、
大宮さんは医療的ケア児を支援する教室を始めました。

大宮)私の兄の子供が、甥っ子なんですけども、
筋ジストロフィーという難病でして。
やっぱり医療の教室がなかなか宮城にはない、
ということは情報として聞いていたので、じゃないなら、作ろうと。
今どうしてもやっぱり、私の兄ももう歩けないので
同じ病気で筋ジストロフィーで、妹も同じ筋ジストロフィーで、
私だけが健康で、遺伝子検査をすれば私もどう出るかわからないんですけれども。
今わたしが持ってるスキルとか、つなげていきたいとか教えてあげたいなっていう部分はあります。