【丹沢研二】未来への証言/女川町 鈴木 智博さん

鈴木 智博(すずき・ともひろ)さん(22)※年齢や情報は取材時点

女川町在住。震災の津波で母と祖父母の3人を亡くした。中学生の時から同級生とともに未来の人たちへのメッセージを記した「女川いのちの石碑」を建てる活動を始め、令和3年11月に当初の目標であった21基目が完成した。子どもたちに震災の教訓を伝える教科書作りや、震災遺構を残す活動も行っている。

(聞き手・構成:丹沢研二アナウンサー 令和3年12月22日取材)

小学校卒業間近 津波が町を襲った

丹沢)つらい記憶を思い出すことにもなるので、話したくないことは話したくないと言ってくださいね。
震災当時は小学校6年生?

鈴木)小学校6年生ですね。卒業式の練習が終わって教室に戻って反省会とかをしていた時間でした。
すごい覚えているのが、黒板の横に天井からちょっと低いくらいの戸棚が置いてあって、その上にブラウン管のテレビが置いてあったんですね。それが地震の揺れで目の前にバーンと落ちてきてグチャグチャになって、机の下には隠れていたんですけど机ごと揺れて動いて、という状況でした。その後はいったんみんなで校庭まで急いで避難しました。3月で雪もちらほら降っていたのですごい寒くて、でも着のみ着のまま避難してきました。先生が、余震もあったんですけど学校の中に戻って、上着を取ってベランダからポンポン投げてくれて、それを拾って自分のを着たのを覚えています。

丹沢)津波が来たときはどんな状況でしたか?

鈴木)地域の人たちが下からどんどん避難してきて「津波が来る」って誰かが言いました。僕自身は見てはいないんですけど「すごい勢いで波が来る」って言うので、そこからもっと上の方の、山の上の総合体育館に避難しました。最初の夜はクラスの友達同士で集まっていたんですけど、次の日とか、ちょっと経ってくると家族の人が迎えに来たり一緒に避難したりしていましたね。そこにどれぐらいいたのかな。1週間までいないと思うんですけど。

丹沢)家族の安否は分からなかった?

鈴木)全然分からなかったです。当時避難所で、よく遊びに行っていた家の人に混ぜてもらって一緒に毛布みたいなのに入らせてもらっていたんですけど、人づてに尾浦の方ではうちのお父さんは何とか大丈夫そうだと、船回してるっていうのはちらっと聞いて、それ以外は全く分からない。妹2人いて、上の方は小学生だったんで一緒に避難して分かっていたんですけど、当時保育所にいた下の妹の方は全然分からないという状況でした。

丹沢)分かったのはいつぐらいですか?

鈴木)お父さんが女川町内から外れた浜だったので、何日か経った後に同じ浜の近所の人が迎えに来てくれて、その時に下の妹は保育所の先生が避難させたって一緒に来て、そのあと自分の浜に帰ってから、お母さんとおじいさんおばあさんがいないんだっていうのを聞かされました。

丹沢)どこで亡くなったとか詳しいことが分かったのは?

鈴木)最初おじいさんだったんですけど、それが大体5月6月ぐらいだったかな、確か。
7月まで仙台市の方に避難していて、そこから奈良県に行くんですけど、7月までにおじいさんとお母さんは何とか見つかりました。その後におばあさん。おばあさんだけ見つからなくて、DNA鑑定で分かったという状態でした。

父と子ども、家族4人の生活に

鈴木)最初女川のお寺で3月末ぐらいまで、そのあと仙台の伯母さんの所に避難して、そのあと奈良県にお母さんの実家のおじいさんおばあさんがいるんですけど、そこに避難しました。

丹沢)転々としながら。女川に戻ったのはいつぐらいですか?

鈴木)2011年の12月末ぐらいかな。冬休みに入る時に転校して、こっちに帰って来て仮設住宅に入って、1月から女川の第一中学校に通い始めました。中学校高校で大体5年弱ぐらい仮設住宅に4人で住んでいたんですけど、お父さん、仕事は毎日朝も早い中で、朝ご飯、夕ご飯、高校の時はお弁当も作ってもらって。本当に感謝しています。

丹沢)当時お父さんは漁に出て、カキの養殖とか…。

鈴木)メロウド漁も行っていました。朝はいなかったですね。たぶん何か出来たやつをチンしたりしていたのかな、高校の時は。今だと自分でぱっと作れるんですけど。お弁当買ってあることが多かったかな。

丹沢)その中で長男だったらまだ3歳だった妹のお世話とか…。

鈴木)そうですね。妹と遊ぶからっていうので家事からは逃げていましたね。(笑)


家族を失った悲しみは…

丹沢)お母さんやおじいさんおばあさんが亡くなった悲しみを家族で受け入れていくのも大変だったんじゃないですか?

鈴木)たぶん…。最初の方はそんな暇もなかったのかなと思いますね。毎日大変すぎてあまり覚えていないんですよ。妹2人の方が覚えているかなって思うんですけど、それどころじゃないぐらい毎日毎日何かしなきゃならなかったので、やっと今になって少しずつって感じじゃないかなと思います。

丹沢)今になって?10年経って…。

鈴木)本当に。そんな暇がないくらい、毎日大変だったかなと思いますね。

丹沢)今思い出すことはあります?

鈴木)そうですね。たとえば卒業式とか成人式とか。もしかしたらその先の結婚式とかあるかもしれない中で、そういう時にたぶん思い出すんだろうなというのはありますね。お父さんが言っていたのは、「見せたかった」じゃないですけど、卒業式とかそういう締めの時にいないのは思う所があるみたいです。


1000年後の命のために石碑を建てる

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智博さんは中学生時代から同級生らとともに石碑を建てる活動を始めた。
「1000年後の命を守るために」を合言葉に、津波の到達点より上の高台などに設置されている。
写真は2013年11月23日、1基目の石碑の除幕式の時のもの

鈴木)石碑は、2011年4月に津波で大変なことになってしまった故郷のためにどういうことが出来るかみんなで考えたいという授業を最初にしたらしいんですけど(※当時智博さんは仙台の中学校に通っていてた)、急にこっちに帰ってきたら「石碑を立てたい」とか色々聞いて、「無理だろうな」って。どうせ中学生が言っているだけで、計画させて「よく出来ました」で終わりなんだろうなって何となく思っていたんですけど、1年生の最後の方に、当時の僕は何を思ったか分からないんですけど、社会科の先生に「作文を書きます」って言ったんですよ。内容が震災の記憶というか体験について。「誰か書く人いれば教えてね」と言われて「僕書きます」って言っちゃったんですよ。そこから中心っていうか関わるようになってきて。僕の始まりはそんな感じでした。

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中学校1年生だった智博さんの作文。
智博さんたちが作った「女川いのちの教科書」に掲載されている。

丹沢)作文を見た周りの人たちが「こういう思いがあるなら」ということで巻き込んでいったんですか?

鈴木)作文を書いたあとに、委員会みたいなのを作ろうという話があった時に勝手に名前が載っていたんです。当時「津波対策実行委員会」って名前だったんですけど、そこに入れられていて、「実家が漁師だから海のことにも詳しいだろう」って委員長に祭り上げられて、そこから中学校の間は一応まとめ役としてやっていました。


中学生が1000万円の資金を集める

丹沢)石碑を建てるとなったらお金とか色々なことが出てくるでしょう?

鈴木)一番はやっぱりそこで、まず協力してくれる石屋さんがなかったんですよ。最初の頃。丸森の石屋さんに何とか紹介していただいて、行ったら「石は寄付させていただきます」と。本当に有難い話なんですけど、「設置費と工事費、あと彫るお金は何とかしてほしいです」と言われて、どれぐらいなのかなと思っていたら、「1000万かかる」って言われたんですよ。

丹沢)中学生で…。

鈴木)いやこれはどうしようって思って、でもせっかくやってきたんだし、お金がないから募金して集めるしかないよねって。中学2年生の秋、冬ぐらいかな、最初100円募金で色んなお店に募金箱を置かせていただいて女川の町内で募金活動していました。そのあと東京に修学旅行で4月に行った時に、まあ大人になってからでも東京は行けるだろうし、中学生の時、この活動をやっている時にしかできないことをしたいねということで、文部科学省とか電通とかジブラルタ生命とかユネスコとかそういう所にお邪魔して発表して募金活動させてもらいました。2013年の夏に目標の金額達成して11月に第1基、第2基の披露ということでつながりました。

丹沢)すごい!中学生が1000万。

鈴木)そうなんですよ!本当にまさかと自分たちもびっくりしたんですけど、何より先生方とか、よく来て取材していた方とかが、もう「まさか」って感じで本当にびっくりしていました。


自分と同じ思いはしてほしくないから

丹沢)気が付いたら委員長になっていたという状態で。そういうことを頑張るのはすごくはっきりした意志がないとできないんじゃないかと思うんですけど…。

鈴木)はっきりした意志があるかと言われたらそれは自分でもよくわかっていない所はあるんですけど、でも、地元のために何かしたいなっていう気持ちと、自分みたいな被害というか、同じ思いをしてほしくないって思いは中学校の時から今もあると思います。僕だけじゃないんですけど、みんなそういう気持ちで、何とか今もやっているのかなという気がしています。
よく「建って良かったね」「これで終わりだね」って言われるんですけど、建てて終わりではなくて、100年後だろうが200年後だろうが1000年後だろうが、それがあるからこそ一人でも多くの人の命を救えたら、その時にやっと建てて良かったなというのを思うと思うんですよ。
ゴール的には、一人でも多くの人の命が次に災害が起きた時に助かればって思いでやっています。

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「もし、大きな地震が来たら、この石碑よりも上へ逃げてください」
「逃げない人がいても、無理やりにでも連れ出してください」などと刻まれている。


“夢だけは 壊せなかった 大震災”

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石碑にはそれぞれ五七五のメッセージが刻まれている。
1基目と21基目のメッセージは「夢だけは 壊せなかった 大震災」

丹沢)「夢だけは壊せなかった大震災」あの言葉は誰が考えたんですか?

鈴木)あれは同級生です。僕ではないんですけど、当時中学生だった僕らの1個2個上の世代の人たちが国語の授業で、俳句の短い言葉で自分の思いを吐き出そうという中で出来た俳句で、これはいいなって思うのを自分たちが選んで載せています。あの「夢だけは壊せなかった大震災」もその一つで、第1基と最後の石碑の両方で同じやつが刻まれています。

丹沢)ちょっと難しい質問かもしれないですけど、夢ってなんですか?

鈴木)笑。難しいですね。

丹沢)智博君にとっての。

鈴木)そうですね。なんでしょうね。昔から「自分はこうしたい」というのはあんまりないんですけど、何かしらの形で人のために貢献できるような活動ができればなあって思っていた所があったので、それがこういう防災の活動に近いのかなっていうのはあります。これを自分が嫌になるまで、とりあえず死ぬまで続けていきたいなって。自分も続けられるようにですけど、下にもちゃんと受け継いでいけるような、そういう活動をしていきたいなっていうのが、夢ですかね。