猪苗代湖ズ が語る"あの日"

「あなたの“伴走曲”は何ですか?」(2022年3月4日放送)に出演したバンド、猪苗代湖ズ。
福島県出身の4人にとって“あの日”はどんな1日だったのか、お聞きしました。

 

渡辺俊美さんの“あの日”
2011年3月11日、渡辺さんは何をされていましたか?

(渡辺)恵比寿のライブハウスでリハーサル中でした。地震でリハーサルが中止になり、急いで家に帰って息子の安否を確認しました。実はその日は、翌日から息子と二人暮らしを始める運命的な日でもありました。電話が繋がらなくなったので、息子にTwitterを教えてもらって、そのときに初めて使いました。そのおかげで連絡が取れるようになって、息子にはすごく感謝しています。当日は実家とも連絡が取ることができましたが、次の日から連絡が取れなくなりました。3月11日はそれが印象的で、“大切な人に連絡する”ということの大事さが、あらためて分かった日でした。今回の収録前もそうですが、(“あの日”のことを考えると)モヤモヤした状態がずっと続くという当時のモードに戻ります。10年以上たった今でも、そういう感覚は消えないなと思いました。

220302_inawa02.png


山口隆さんの“あの日”
山口さんは“あの日”何をされていましたか?

(山口)僕はサンボマスターのライブで高知県にいました。最初はニュースを聞いても何が何だか状況が全然つかめなくて…情報がいろいろと錯綜していて、自分が想像し得ないことが今起こっていると思いました。メンバーと高知県にいて、何が起きているのかを掴みきれなかったのが正直なところです。本能では何とかしなければならない大変なことだと分かるのですが、想像し得ないくらい様々な情報が入ってきて、全体像が見えませんでした。“何が起きているのかを早く知りたいし、自分にできることを早くやらなければ”という焦りの気持ちがありました。高知から東京に帰ってすぐ、その足で『風とロック』(箭内道彦氏の事務所)に向かったことを覚えています。大変なことになっているのであれば、僕は何かをするべきだから。その一つは、『風とロック』で箭内さんと話すことだったというか。
そのとき山口さんが考えていたことは?
(山口)自分にできることをいち早く最大限にやるべきだろうと思いました。被害にあっている方々をどう手助けすれば……、手助けというのも偉そうですよね。少しでも自分に何かできることがあるだろうかと思っていました。
それはアーティストとして?
(山口)“アーティストとして”なんて思いません。自分の立場とか関係なく、今自分にできることをやらなければという気持ちがすごく強くて、それを一生懸命探していました。

220302_inawa03.png


箭内道彦さんの“あの日”
箭内さんは“あの日”何をされていましたか?

(箭内)川崎市にあるスタジオでCMの撮影をしていました。長澤まさみさん・オダギリジョーさん・大森南朋さん、あとロックバンドの怒髪天と一緒に撮影をしていました。そのとき地震が起こって、アスファルトが波のように“ぐにゃぐにゃ”とゆがみました。でも直後は、全体の状況が分からないから、余震が収まる度にスタジオに戻って撮影を続けていました。夜になって徐々に全体の状況が分かってくると、今すぐにでも福島に向かいたいと思ったんです。でも、周りの人に「福島は混乱しているし、箭内さんが行っても1人分多くのご飯が必要になる。東京でできることをやってください。」と言われたのが3月11日でした。
 僕は翌日の土曜日にラジオのレギュラー番組を持っていて、もちろん放送休止になりました。「そっか休止か、それはそうだよな」と思っていたら、リスナーから「箭内さんは自分の番組が中止になっても何もしないんだ」とメッセージが来たんです。「絶対、何かをしてくれると思っていたのに」と。自分も“どうしよう”となっている状況で、放送休止を受け入れてしまいましたが「ああ、それじゃ駄目なんだ」と思いました。その1通のお便りというか“つぶやき”に、背中をめちゃくちゃ押されたんです。それからは、待つのではなくて、自分から発信したり動いたり、仲間と一緒にできることをすることができました。もうギリギリの状況でしたが、そのメッセージをくれた人にとても感謝しています。

220302_inawa04.png


松田晋二さんの“あの日”
松田さんは“あの日”何をされていましたか?

(松田)僕は代々木のスタジオでTHE BACK HORNのメンバーとリハーサル中でした。(地震が起きて)リハーサルは中止になって解散したのですが、交通機関が動かなくなっていたので、都内の自宅まで情報を集めながら歩いて帰りました。福島が大変な状況になっていると知って、真っ先に家族がどうなっているか心配になって、何度も連絡しましたが繋がらない状況で、もうずっと心配していたのですが、夜8時くらいですかね。福島の家族から1通だけメールが届き、翌日の3月12日が母親の誕生日なのですが、真っ暗の中でろうそくをつけ、ささやかに誕生日会をしている様子が動画で送られてきました。僕もすごく心配になって早く会いに行って何かしたいなと思ったんです。でも、メールに「家族は無事で元気です。今後どうなるか分からないけれども、今はみんなで生きています。晋二は晋二で今やれることを東京でやってください。」と書かれていて。そのとき、“会いたいな”とか自分の気持ちを優先して動いていたけれども、音楽であったり、この状況の中で自分のやれることを探すことが、結果的に家族や誰かのためになることを教えてもらった気がしました。
 それからしばらく時間も経ち、一人離れて東京で暮らしてますが、家族とはいつもどこかで繋がっていると感じます。いまコロナ禍で、直接顔が見られなかったり、同じ空間で話せなかったりしますが、どこかで信じていたり、思い続けたりすれば、それだけで揺らぐことはないと。“あの日”そのことを教えられて、それが今でもずっと続いていると思います。

220302_inawa05.png


“あの日”に感じたこと、今も続く“あの日”の経験から気づいたことを、
メンバーそれぞれが思い思いの言葉で語ってくれました。

 

NHK仙台局のサイト「あの日、何をしていましたか?」では、
みなさんの2011年3月11日について投稿を募集しています。
https://www.nhk.or.jp/sendai/311densho/souieba/