【丹沢研二】震災証言インタビュー/気仙沼市 加藤英一(かとう・えいいち)さん

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加藤英一さん(65)※年齢や情報は取材時点
気仙沼市魚町にあった「ホテル望洋」の元社長。東日本大震災直後に多くの避難者をホテルで受け入れた。ホテル望洋は2017年3月に閉館。現在は気仙沼観光コンベンション協会の理事を務め、観光ガイドや震災の語り部としても活動している。
                                            (聞き手・構成:丹沢研二アナウンサー 令和3年8月3日取材)

ただならぬ危機感を感じました
丹沢)2011年の3月11日、その瞬間はどうだったのか教えて下さい。

加藤)その時は私はホテルを経営していまして、海抜15mぐらいの丘に建っている波止場のすぐ近くのホテルですね。海からは大体100mぐらい。その事務所に私はいたんですね。2時46分だったのでホテルとしてはチェックアウトとチェックインのはざまで、事務所に2,3人と一緒にいた時に、だーっと揺れが来て。いったん収まってまた長くなって、今までにないような地震だったので、ちょっと収まった時に「外に出ろー!」ってみんなで外に出たら、ご近所の人もいて。うちのホテルは昭和42年の創業なので、かなり古い建物で崩れるんじゃないかと思った。揺れの後にちょっと1回戻ったら、2階に大宴会場があるんですけど天井から水がおりていたんですね。給水タンクっていうのが屋上にあるんですけどその水がどこかを伝って2階の宴会場にだーっと。ただそれはまあどうしようもないので、また外に出ましたね。そしたら大津波警報が市の防災無線で流れたんですよ。「ただちに高台に避難」と何度も繰り返されたんで、我に返って、ホテルから車で約5分ぐらいの所に自宅があって、そこに80になる母が一人でいたもんですから迎えに行きました。会社の軽で。行って連れてこようと思ったんですけどいなくて、「逃げたんだな」と思って、飼い犬の柴犬がいるんですけど鎖を外して車に放り込んで。戻ってきたら多くの人がホテルの前の駐車場に集まって沖を見ていて、誰かが「津波だ!」って言ったんですよ。振り向いて見たら、目の前の湾の水がガーッと引いていって。そのさらに沖の方に、真っ黒い壁みたいなものが迫って来ていて、それが街を壊してどんどん建物が壊れていくわけですよ。景色がなくなるみたいな恐ろしい感覚ですね。

丹沢)命の危険がすぐそこに迫っている状況ですね。

加藤)ただならぬ危機感を感じましたね。遠くで鉄塔が倒れたりでかい建物がどんどん潰されていくんですよ。大型マグロ船がぐるぐる回り出して、どんどん水位が上がっていく状態で、ここにいても怖いと思って走ってホテルのさらに裏の陣山って山の中腹まで逃げたんです。そこで第1波、第2波、第3波。6回か7回か来ているみたいですけど、それによって壊されていく町を高台、陣山の中腹から見ていたんですね。

丹沢)ホテルに残っていたらみんな危なかったですか?

加藤)かろうじてホテルは15mあったので、波は8mとか10mだったんですけどその5mの差で津波の直撃を受けないで助かったんですよ。ただその場にいたらものすごい怖いわけですから。上にいて、時間が経って、雪も降ってきたもんですから、下に、ホテルの前にまた戻ってきた。その途中で、湾の入り口に22基あった重油タンクに高圧電線、鉄塔が倒れてくすぶっていた火が引火して、ドーン!ドーン!って大きな音がして、爆発が起きるわけですよ。目の前が本当に火の海というのは生まれて初めて見ましたけど、現実なのか映画みたいな状況を見て。で、また降りてきて、その時はライフラインは全部止まっていますから、ホテルは5階建ての250名収容の大きいホテルなんですけど、自動ドアも止まっているんで、私と家内で手でこじ開けて、そこにいた80人ぐらいに中に入ってもらったんですね。
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震災後のホテル望洋(画面中央の白い建物) 船が打ち上げられている

ホテルが緊急の避難所に
加藤)まあホテルっていうのは色んなものがあったので、もちろん寝具はあったし、ロウソクとかもあったんですよね。それからポットに入った水もあったし、それで何とかしのいだという感じですね。

丹沢)それからホテルが避難所のようになっていくんですか?

加藤)うん。結局その晩はその人たちと一緒にフロントロビーで過ごしたんですけど、怖いのは目の前が、フロントロビーってガラス張りじゃないですか。海を眺めるために作ったホテルですから。目の前で爆発が繰り広げられていくわけですよ。真っ赤な炎で。それで、小さい子からおじいさんおばあさんまでいたんで、みんなショックでふるえて泣いたりして。そして余震も来るし、何よりも冷え込んだんですね。天井高いから。これじゃいけないと思って、2階が畳の間なので、一部水によってだめになったところを除いても150畳ぐらいの大きい宴会場があるので、そこに寝具なんかを運んでそこにみんな移動させたんですね。僕らスタッフは1階の事務所に待機して。そのまま揺れが来たので、何かあったら私の責任になりますから、一睡も眠れないで朝になりましたね。

丹沢)危険が過ぎ去っているわけではないですものね。

加藤)過ぎ去ってないです。明日からどうしよう。水はあるのか、食料はどうなんだ。厨房に行って調理長がロウソクで調べてくれて、備蓄の米があるとかポットの水があるとか分かって、翌日の朝早くから女性のスタッフと一緒におにぎり作ったんですよ。80人の人におにぎりを配るだけの米があったんです。泣いて喜ばれましたけど。そこからまた大変なことが色々あったんですけどね。

丹沢)どんなことですか?

加藤)食べると、出るじゃないですか人間は。ホテルってトイレ沢山ありますよね。ライフライン止まっているわけですから。

丹沢)そうか。水道、水も止まっているわけですもんね。

加藤)そうなんですよ。流せないんです。男女4つ5つずつあるわけですよ。汚れている所は入りたくないからどんどん隣に入るでしょ。全部汚れるわけですよ。すぐ翌日の夕方ぐらいだったかな、呼ばれて、臭いがひどいって。まあそれを新聞紙とか色んなものにとって、裏山に持って行って穴掘って埋めるとか、そんなことを。そんなん思ってもいなかったけど。でも助かったというか、水はないと僕は頭の中で思っていたんですけど、管理部門の社員が翌日だったか翌々日だったか「社長、水あった」って来たんですよ。なんだと思ったら、大浴場に水張ってあるんですよ。1・5トンぐらいの水。それをバケツでリレーして流すんだけど、いつ水戻るか分からないから、3日、4日目だったかにルール決めて、大は直接じゃなくて新聞紙ひいてやってくれとか、小やったらこれで2回やれとかね。色んなルール決めたりして協力体制をしいてやったんですけどね、やっぱり排せつ物の処理とかはきつかったですよね。最初はホテルのスタッフだけでやってたもんだから、明らかにスタッフが疲弊しているわけですよ。何でこんなことやんなくちゃいけないんだって。


被災者が被災者を助ける
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震災からおよそ10日後の様子 ホテル望洋は気仙沼市の認定避難所となり、仮設トイレなども設置された

加藤)4日目に自衛隊が入ってそこから外との連絡が取れていくわけですけど。でも何だかんだ70日間は運営したんですよ。

丹沢)70日間にもなったんですね!

加藤)だんだん人数が減ってはいくわけですけど、解けたのは70日後ですよ。55日までは人いましたから。あとは食料の供給所になっていたんです。うちの目の前が集合場所になって、自衛隊だったり市の職員が来て、そこで誰々さんの分っていうのを我々ボランティアで仕分けして、夕方みんな取りに来て。そこまでには給水タンクが置かれましたから、あと仮設トイレと。

丹沢)そこまでは排せつ物の処理なども行って。それを担うホテルのスタッフだって被災者ですよね。もしかしたら家が流されたり家族が亡くなったりした方もいるかもしれませんよね。

加藤)あとで調べたら家は、半壊の人はいたけど、みんな高台の方なんで誰も家は流されていなかったですよ。家族で亡くなった人もいなかった。

丹沢)それでも被災者でありながら被災者をフォローする側に回ってきたわけですね。

加藤)被災者が被災者を助けるっていうのが、実際の現場で起こるんですよ。

丹沢)珍しくなかった?

加藤)珍しくないですよ。私の知ってる人たちでも、家族亡くしたりしても、自分の家があれば、身内であろうが親戚であろうが転がり込んできた人を面倒みるでしょ。

丹沢)そうですね。

加藤)あと僕が一番神経をすり減らしたのは、最初の1週間2週間が一番つらいんだけど、避難所回りって人が来るわけさ。一般市民で、自分の家族を探して避難所を巡っている人が来る。うちも認定避難所になったから、「どこどこ町の誰ですけど、うちの母の何とかがこっち来てませんか」って言って。一応黒板に名前は書いているけど出入りがあるからね、上に連れて行って「何々町の誰々さんのお母さんいますかー!」って言うと「はーい!」って手を挙げるんだよ。そこで再会ですよ。ご家族が抱き合って泣くでしょ。そうするとみんなも「いがった、いがった」ってなるわけですよ。
でもある時ね、高校生だと思ったんだけど、お母さん探して女の子来たのさ一人で。で、「何て言うの」ってお母さんの名前で「お母さんいますか?」って言ったら、いなかったんですよ。そしたら階段の途中で動かなくなっちゃって、しゃがんで。「大丈夫だから。生きでっから」って。「絶対、もっと避難所いっぱいあるから、絶対お母さん生きてっから」って。 …生きてたんですよ。

丹沢)ああ、そうなんですね。

加藤)何か月かしてね、お母さんとうちに来ました。

丹沢)ああ良かったですね。

加藤)その時ね、号泣さ。私。今でもくっきり覚えてるもん。でもよく来てくれたと思ってさ、うちにね。その子がね。


若いボランティアとの交流
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ホテル望洋は気仙沼を訪れる若いボランティアの拠点の一つになった

加藤)うちはホテルじゃないですか。来やすいんだよね。鹿折地区も見やすい所にあるから。マスコミとか色んな人が来るんだけど、ボランティアが来たら、物資が余ると望洋に持ってくるんですよ。「こんなの積んで帰るわけにはいかないから」って。そういうものを全部僕は軽トラックに積み直させて、うちに来てた若い子たちに、「いいか」と。「この図面のここに持って行って、『物資ですよ!』と叫んで、来た人全員にやれ」と。やったら泣いて喜ばれたんですよ。それで帰ってきたら、子どもたちが、おどおどしてたけど人の役に立ったじゃない。目がらんらんと輝いて「社長!もっとあったら、また持っていきますから」って。「すげえ喜ばれました」って言うわけよ。
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軽トラックに物資を積み込むボランティアの若者たち

丹沢)若いボランティアの方が入ってきたのはいつぐらいですか?

加藤)4月の頭かな。食堂の一角を食卓にして飯食ってたんだけど、いっぱい来るわけですよ。夜になると。現役の大学生だよ。「君たちはなんだ」「いや、何でもやりますから」って。社員もみんな家に散っちゃってるからいないしね、身の回りのこととかやることいっぱいあったから、助かったんですよ。あの元気のない頃に来てくれた若者とは未だにつながっているし、会えばハグして、目頭熱くなっちゃうね。

丹沢)たとえばどんな仕事を学生たちがするわけですか?

加藤)来た子どもたちはまず、(避難所に)いる人数をカウントして自衛隊さんにそれを報告したり、必要なものをうちのかみさんが紙に書いたものを町の物資センターで申請してもらってきたり、それを配布したり、清掃したり。ありとあらゆることですよ。
最初はうちに来てた人たちのご飯食べる所は1階のフロントロビーだったんですよね。半分に仕切って。そこを「加藤家の食卓」にしてボランティアと一緒に飯食ってたんだけど、そこに後から来た若い連中が加藤家の食卓に来て、毎日毎日支給されたご飯やホテルで余ったご飯を無料で支給してみんなで飯食っていたわけよ。だってそこ家だもの、俺の。そこで色んな、こんな話をするわけですよ、語り部みたいに。加藤家の食卓にちょっと入れたら、もう客でもなければ、どこぞの誰でもなくて人対人なのね。ここでの会話とか育んだ気持ちっていうのはものすごく大きくて。震災は悲惨なことだったし、危機的な色んなことがあったけど、心と心をこんなにつなげることが起きたんだよって、現場では。
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「加藤家の食卓」

元気にしてなきゃやっていられないから
丹沢)そこで生まれたエネルギーが復興へ向かうエネルギーになった?

加藤)だと思います。彼らに言いながらも、自分自身に常に言い聞かせているわけよ。なぜかっていうと、ここで折れたら終わりなんだってば俺たち。家もまだないしね。一歩ずつ階段上がっていけばゆっくりでもいいから景色が変わる、景色を変えなきゃダメなのよ。後戻りしたら見えなくなるけど、一歩ずつ上がっていけば眺望が開けてくるんだから。これは俺の経験だけど、俺とはまた違う経験をした人がごまんといるわけ。身内を亡くした人もいるだろうし。この5万9千か何人かは、みんな経験しているから、その上で今日明日を一生懸命生きようとしているんだから、被災地には力があるんだ。

丹沢)「被災地の力」っていうのは感じるものですか?気仙沼の他の人たちを見ていても。

加藤)僕はなんでこんなにみんな来るのかなって思うの。何年も経ってもね。「また行きます」「ただいま」って来るのはね。被災地の人ってそれだけの懐が広くなったんじゃなくて、広くしないとやっていけなかったんだよね。たとえば太平洋を屋根に座ってぷかぷか浮いてたおじさんが、その辺で働いてるおじさん。「やあ~あのとき俺は屋根に乗って助かったんだよ」とか平気で言うような人がいっぱいいて、俺なんかはまだいい方で、もっと壮絶な波にのまれたとか、車の中にあったハンマーで後ろから出たとか、いくらでもそういう話ってあるわけですよ。そういう人、普通に生活してっから、ここ。
1回傷ついたものが瘡になってそこは強くなるっていうように、元気にしてなきゃやっていられないから元気にしていたんだけど、外から来た人が「や~元気もらいました」っていうのはちゃんちゃらおかしいんだけど。そうじゃねえんだよ。元気なことを言っていないとやってられねえから元気にしてんだって俺は思うんだけどね。みんなそうだと思いますよ、ここにいる人たちは。だけど、お天道様はまた上がるし、振り向いたってしょうがねえから前見て、階段上がったら景色は変わるって信じないと生きていかれないからっていうのはあるんでないですか。もしレジリエンス(復元力・回復力)っていうのがあるとすれば、おそらくそういうのの中にあるのかなって私は思うんですよ。


前を向く力を若い人からいただいた
加藤)やっぱりそのぎりぎりの所で結局「どうにかなるさ」みたいな、必ず良くなるとか、階段上がっていれば景色変わるとか、僕の場合は若者が周りにいたっていうのもあるんだよね。なぜかって言ったら、若者は生きて来た期間が短いから、未来のことを言うんだよねみんな。俺は、振り返れば3・11しかないわけだから。嫌な思い出としての。前を見て、大学終わったら就職してああしたいこうしたいああしたいとか、夢を語るじゃない。若い人が周りで。加藤家の食卓で。そこに自分がずっとさらされていたから、前を向く力を若い人からいただいたんだと思うんだよね、あれ。周りに若い人がいて未来のことを語ってくれたっていうのは、あの当時の俺にしてはものすごく良かったことだと思うんですよ。