2018年10月17日 (水)枕の下の手紙
※2018年9月5日にNHK News Up に掲載されました。
物心がついた小さい時から、母はいませんでした。
「もし、いたら…」
そう思うときもありましたが、考えないようにしてきました。自分のことをどう思っていたのか、それを知る由はありませんでした。先月までは、ありませんでした。
教えてくれたのは枕の下の手紙です。
ネットワーク報道部記者 飯田耕太
「家なき子」というのはフランスの作家が書いた児童文学で、よく似たタイトルの本を東京の古書店で見つけたのは、夏、真っ盛りのころでした。
『家なき児』
すでに絶版で、発行された日を見ると昭和23年10月と記されていました。
本には国どうしが武器を持って戦った後、子どもたちがどうなったのか、重ちゃんと呼ばれる仮名の男の子の取材をもとに書かれていました。
読んでみると、親が戦いに行って死んだり、爆弾の攻撃を受けて死んだり、病気の治療を受けられずに死んだりすることがよくあり、身よりがなくなった子どもは「孤児」と呼ばれていました。
<物乞い>
世の中が混乱している時代に「孤児」になると、生きていく手段を1人で見つけるしかありませんでした。
13歳の重ちゃんは、「物乞い」をします。
そうした孤児がいるのは、上野駅が有名で、
「僕たち戦争孤児なんだ」
そう言ってお金や食べ物をもらっていました。でも、いつもいつも、そうしたことをしていると、ものをくれる人もいなくなってきました。
<「ばかなまねは、やめろ」>
そこで重ちゃんは、同じ境遇の友達と考えて腕を骨折したふりをして「物乞い」をすることにしました。同情を買えば食べ物をくれると考えたのです。
すると、ある人が「こっちにこい」と言って家に入れてくれました。家にあがるとご飯やおしんこ、いもなどを出してくれて、でも右手は骨折したことになっていたから使えず、左手でごはんを食べようとしました。でも慣れてないのでうまく口に運べません、食べられません。しばらく見ていた、家の人が言いました。
「ばかなまねは、もうやめろ」
うそは最初から、ばれていました。みじめさと、うれしさが入り交じった気持ちでご飯をかき込みました。本に書かれていたのは戦いが終わって1年後ぐらいのことまででした。やがて重ちゃんは東京中野区にできた民間の孤児院に入り、そこで生きていくことを決めて本は終わります。
<愛児の家>
調べるとその施設は今もあり、孤児院から児童養護施設に変わりましたが、名前は変わらず「愛児の家」でした。
訪ねると、石綿裕さんという86歳の女性が迎えてくれました。愛児の家を作った人の娘で、いまも施設の子どもの世話をしています。
「“家なき児”の重ちゃんに会いたいのですが」と聞くと、「仙台に移り住んだのですが7年前に亡くなりました」と言われました。
「結婚したあとも母の命日には顔を出してくれる優しい子だったんですが」
<「正ちゃんは健在ですよ」>
石綿さんは、施設に残る孤児の作文を見せてくれました。
孤児が施設を出るときに書いた作文
「二年ぶりに入ったおふろは、何とも言えない程良い気持ち」
「施設に来てから暖かい布団に初めて寝ることができました」
そんなことが書かれていました。
そして、私がお礼を言って立ち去ろうとした時、石綿さんが言いました。
「家なき児に出てくる『正ちゃん』は健在ですよ」
<77歳の正ちゃん>
『正ちゃん』も仮名で重ちゃんが弟のようにかわいがっていた男の子です。電話をかけると5歳で施設に入った正ちゃんは77歳になっていました。名前は山内昭夫さん、埼玉県にいました。
“どれほど母親が恋しかったのだろう”
そう思って足を運びました。
でも想像とは少し違っていました。
母親のことも父親のことも、たんたんと答えている印象でした。
「父親は戦争に行ったまま帰らなかったと聞いています」
「肺を患って寝込んでいた母と少しの間、暮らしていたような覚えはあります」
右から2人目が山内さん
ーお母さんの記憶は何かないのですかー
「…ないですね。食べ物がないので道ばたの雑草をとって母親に食べさせてあげていた、そんなことを“後になって”聞きました」
「4歳か5歳ぐらいの子どもができることはしれています。母の病気は悪くなる一途だったんでしょうね」
そして言いました。
「写真も1枚もないし、顔も覚えていないですから」
<「母を慕わない」>
山内さんは孤児院に入ったころから、そうした傾向があったようでした。体中にしらみがたかった状態で孤児院に入り、同時に母親が入院したのは5歳のとき。母親はそれからわずか3か月で亡くなります。
「母を慕うことあまりない」
「しかられると反抗的な態度」
「生意気」
施設に残っていた当時の記録にはそう書かれていました。働き始めたころの山内さん
「中学卒業後は、住み込みで働ける仕事を探して前だけをみて生きてきたんです」
「つらい過去や覚えてもいない母のことを思ってもしかたがないですからね」
山内さんは、そう言っていました。
<謎だった175円>取材を終えて帰ろうとした時、山内さんが突然、言いました。
「残っているのは、これくらいかな、なんなんだろうね」
風呂敷から出てきたのは、
・大東亜戦争特別処置貯金証書10円×4枚
・報国債権1円×5枚など175円分の証書
・衣料切符と書かれた紙2枚
「施設を出る時に渡されたものだ」と言いました。
その時、今度は私が思い出しました。
「家なき児」に書いてあった正ちゃんの母の手紙です。
<枕の下にあった手紙>
山内さんの母・喜久枝さんは入院し孤児院の人以外、見舞いに来る人もない中、亡くなります。5歳の息子を残して、32歳で亡くなります。
その枕の下から手紙が見つかったのです。
こう書かれていました。
「(孤児院の)先生、私の一生のお願いです。正一をくれぐれもよろしくお願いします」
「あの子は生まれ落ちたその日から不運な子でした。私は何一つ親らしいことをしてやれませんでした」
「ここに多少の貯金があります。戦争にいったお父さんにもしものことがあったらと思って正一のためにためてきたお金です」
“山内さんが70年以上持っていたのは、お母さんが貯めたお金だ”
私はそう思いました。
手紙は続きます。
「正一を宜しくお願いします。このことを申し上げないと私には死ぬこともできません。お願いいたします」
「正一や、お前は先生様のいうことをよくきくんだよ」
<やせ細った母が>
山内さんは本のことも、手紙のことも全く知らず、私の話をじっと聞いていました。
「どんな母親だったのか、わかるんだったら知りたい」
山内さんはそう言って私と一緒に愛児の家に行く約束をしました。10日後。私は山内さんと奥さんと一緒に、「愛児の家」を訪ねました。退所したあと、足を運ぶのは久しぶりです。
86歳の石綿さんが迎えてくれて、77歳の山内さんに話しかけました。
「あなたは施設に来たのは雪の日で、お母さんはすぐに病院に入院したんです」
「しばらくしてあなたを病院に連れて行った。そしたらやせ細ったお母さんがいて、あなたをぎゅっと抱きしめたのを覚えています」
山内さんは石綿さんを見つめながら聞いていて、話が終わると、妻に向かってほほえんで、ゆっくりうなずきました。
<雷雨の日>山内さんはその足で母親の墓に向かいました。
顔を知ることはもうないけれど、思いを知れた母の墓です。
「初めて聞いた話で、心の整理ができません。幼い子を残すことは心残りで、悔しい気持ちで逝ったんだと思います。でも、母の心に、少しでもふれることができた。私のことを思って育ててくれた。そう知れただけで、今はうれしい」
連日の猛暑の中、この日は時折、雷雨に見舞われました。ただ、墓参りの間だけは、雨がぴたりとやんでいました。
投稿者:飯田耕太 | 投稿時間:15時19分
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