2017年02月23日 (木)85歳 大都市東京 "最後の行商人"


※2017年2月13日にNHK News Up に掲載されました。

その人は朝7時、大きな荷物をカートに乗せ、通勤客に交じって、底冷えのする東京・JR大塚駅に姿を現します。岩井※靜さん、85歳。
風呂敷から出して並べるのは、自分でつくった自慢の野菜やお餅など。大都市、東京でこうした行商を続けている人はもうわずかです。
″戦後″の面影を今も残す姿に密着してみました。
※(左が青)

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<大都会の小さな朝市大都会の小さな朝市>
岩井さんが暮らしているのは
いまも田園風景が広がる千葉県印西市。午前3時半に起き荷物を準備し、自宅から1時間半かけて大塚までやってきます。

K10010874681_17021314172_223.jpg野菜を並べるのは午前7時から10時ごろまで。かつては毎日通っていましたが、3年前に体調を崩し、今は週2回、水曜日と金曜日です。駅前のいつもの場所に並べるのは、岩井さんがつくった小松菜や里芋などの野菜、そしてお餅などです。ほとんどがひとつ100円から300円。早朝から常連客が次々と買い求めていました。

「おばあちゃん、これいくら?」
「ブロッコリーは200円、おいしいよ。これはおまけ」
買い物袋におまけの大根菜も押し込めます。
売れ行きを尋ねたら、「いつも通りだ。オレの(岩井さんは自分のことをこう呼びます)野菜を待っててくれる人がいるんだもの。本当にありがてえよ」と破顔一笑。
「本当にありがてえよ」。これが岩井さんの口癖のようでした。


<カラス部隊と呼ばれて>
東京への行商が最盛期を迎えたのは昭和20年代から30年代にかけて。千葉県によると昭和30年には県内の行商は6600人を数えました。食糧難を背景に農村の女性たちが増え続ける東京の食料需要を支えてきたのです。

K10010874681_17021314526_17.jpg早朝、黒い大きな風呂敷で覆われた竹かごを背負い行商しか乗れない専用列車に乗り込む姿は「カラス部隊」とも呼ばれていました。


<20代からの行商生活>
岩井さんが大塚駅で行商を始めたのは25歳の頃だといいます。
23歳で嫁いだ農家が行商をしていて、しゅうとめに連れてこられたのです。

K10010874681_17021316138_17.jpg初めての行商の日、野菜を詰めた大きな竹かごを背に大塚駅で降ろされ途方に暮れたことを今でも覚えていました。住宅を一軒一軒訪ねて売り歩こうとしましたが、新参者の岩井さんから買ってくれる人はほとんどいなかったそうです。行商仲間が次々とやめていくなか、辛抱強く通い続け得意先を切り開いていきました。

「最初の3年くらいは本当に苦労した。でも、その後はいいお客さんに恵まれてな。会社勤めで忙しいご婦人には日曜日に持って行くと全部買ってくれたこともあったよ」と当時を振り返っていました。


<岩井さんの仕事哲学>

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行商に出る前日の岩井さんの畑にうかがってみました。野菜は自宅近くの農業用のハウスや畑で農薬をほとんど使わずに作っていました。「畑仕事は絶対に手を抜かねえんだ」と何度も話しながら畑の雑草を抜いていました。そして売りもののお餅を丁寧に丸めながらさまざまな思いを語ってくれました。
「人様から銭をもらうってことは並大抵のことじゃねえからな。楽しようと思っちゃだめだ」。「趣味?そんなの、ねえ。仕事と野菜作りだ。好きだからこそ続けられる」。

岩井さんと一緒に暮らす一人娘で60歳の文子さんは、「幼いころからお母さんの姿はほとんど見なかったような気がします。だって日曜日も行商に行くんですから。売り切って家に戻ってからも翌日の準備のために夜まで働いていましたよ。実は授業参観もいつもお父さんでした」と話していました。


<岩井さんに密着 大塚駅>
さすがの岩井さんも若いころのように50キロを超える荷物を背負うことはできなくなりました。ことしから大塚駅までの荷物運びを文子さんが手伝います。

K10010874681_17021314172_223.jpg訪れるお客はさまざまです。東京に転勤してきた通勤途中のサラリーマン。「朝、おばあちゃんの笑顔を見るとなぜかホッとするんです」
20年以上通う常連の女性。「おばあちゃんの野菜は新鮮で味が濃くておいしい」
近くの飲食店で働く中国人の女性。「おばあちゃんが野菜を並べる週2回は必ず来ます。姿が見えないと心配なの」
そして荷物運びを手伝ってくれる人、岩井さんにコーヒーやお菓子を差し入れてくれる人もいました。

K10010874681_17021314171_17.jpg見ていると岩井さんの朝市にはわれわれのふだんの買い物にはない特徴があることに気づきました。会話です。買い物をする時に何気ない会話が必ずと言っていいほどあるのです。
売り場を見ていると岩井さんから声をかけられ、会話が生まれます。小さな心配事から身の上話まで。買い物を終えて30分近く話し込むお年寄りもいました。話をしたくて遠くからやってきて今はスタッフのように手伝っている人もいました。
一人一人に向き合って話を聞く岩井さん。

「ほら最近じゃ買い物しても店員とひと言も話をしないでしょ。それじゃなんだか寂しいじゃない。オレも人と話をするのは好きだから、本当にありがてえなあ」と話します。そして決して悪口は言わず会話を続けるのです。優しさがなかなか見えない時代。岩井さんに密着してみると人の優しさが見えてきました。そして客は決して新鮮な野菜やお餅だけが欲しくて買い物にきているのではないような気がしてきました。

K10010874681_17021314189_17.jpg岩井さんが行商を始めて60年。
街が変わり、時代も変わっていきました。買い物をしながら会話をすること自体ほとんどなくなり、インターネットの注文だけで品物が届く時代になりました。
そうした中でいつもの時間にいつもの場所に足を運べば人情味あふれるおばあちゃんが温かく迎えてくれる小さな朝市。60年もの間、岩井さんが運び続けているのは決して野菜やお餅だけではないようです。

投稿者:岡崎 靖典 | 投稿時間:12時00分

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