2018年01月18日 (木)受精卵 いったい誰が作るのか


※2017年12月26日にNHK News Up に掲載されました。

「子どもがほしい」そう願って不妊治療のクリニックの門をくぐった夫婦。医師を信頼し「頑張りましょう」の言葉に励まされて体外受精へのチャレンジを決めたとします。
では、採取した妻の卵子と、夫の精子。それを受精させて育てるのは誰かご存じでしょうか?ほとんどの場合、医師ではありません。夫婦は大切な命の源を誰に託しているのか。皆さんの目となって、現場を見てきました。

ネットワーク報道部記者 牧本真由美

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<壁の向こう側にいる“胚培養士”>
夫婦の卵子と精子が運ばれるのは「培養室」。ここで受精の作業が行われます。ウイルス対策を施した清潔な空間で、患者は入ることができない“壁の向こう側”の世界です。
jus171226.2.jpg“培養室” ミオ・ファティリティ・クリニック
私がその部屋に入った時、受精卵への影響を減らすため明かりも抑え気味でした。実はここにいるのは医師ではありません。

「胚培養士」と呼ばれる人たち。多くの場合、医師が関わるのは治療方法を決めて採卵するまで。受精卵を作り育てるのは「胚培養士」の腕にかかっているのです。

作業は精緻を極めます。卵子は0・1ミリ。精子はその半分です。極細のガラス管を使いながらこの小さな小さな細胞を扱います。培養室は、静かで息をのむほどの張り詰めた空気でした。


<技術が左右受精卵の未来>
胚培養士の技術によって受精卵の育ち方に違いが出てくると言われています。卵子のどこに精子を注入させるのか、まずその場所選びが、受精卵が育つかどうかを左右します。

また卵子をできるだけ傷つけないために、どのガラス管を使うのか、精子を卵子にどのくらいの角度やスピードで注入するかも重要です。
ピエゾの顕微授精 撮影:山下湘南夢クリニック
そして機械で微細な振動を与えながら行う「ピエゾ」と呼ばれる顕微授精は刺激が少ないため、卵子が老化し膜が弱くなっていても有効です。しかしこれができる培養士はごくわずかと言われています。
卵子と精子の行く末を握っている胚培養士、その技術に大きな差があるのです。


<患者は胚培養士を選べない>
胚培養士は農学部系の大学で動物の卵子や精子を扱っていた学生が、医療機関に就職してから訓練を受けてなるケースが多くなっています。「日本卵子学会」と「日本臨床エンブリオ学会」、2つの学会による認定試験がありますが、国家資格ではありません。

jus171226.3.jpg取材で聞いた胚培養士の言葉があります。
「人事交流でクリニックに来た胚培養士の技術がひどいため、卵子を触らせなかった」「やりながら学ぶしかないので、初めのころは失敗があった」

患者は医師を選ぶことはできても、胚培養士を選ぶことはできません。胚培養士にとってはみずからが成長する過程での失敗だったとしても、夫婦にとっては、かけがえのない子どもになるかもしれない受精卵です。

「受精卵を紛失した」「培養液を入れ忘れ受精卵が死んでしまった」
そんなミスも聞いたことがあり、それを患者側に知らされていないケースも聞きました。壁の向こう側が、当事者から見えないことがまだ多いのです。


<なんちゃって胚培養士にならないで>
「クリニックによって胚培養士の技術や育て方に大きな差がある」。ベテランの胚培養士もその危機感を訴えています。

jus171226.4.jpg山下湘南夢クリニック 中田久美子さん
学会などで技術指導を行っている神奈川県の山下湘南夢クリニックの中田久美子さん。胚培養士を目指す学生がいる桐蔭横浜大学での講演を聞きにいくと「技術を磨くための努力を怠る“なんちゃって胚培養士”になってはいけない」と語気を強めていました。そしてなぜ技術を磨くのか、その根本を説いていました。

「1つ1つの受精卵の背景には、不妊に悩む夫婦がいる。そして私たちはその願いを託されている。夫婦から見えない作業だからこそ、その信頼を裏切ってはいけない。そのために技術は磨き続けなければならない」
そして、卵子や精子を扱うプロとして責任を持たなければいけないと強調しました。

「医師に対しても、“この方法が適してる”と提案していけるようになってほしい。そこまでやることが胚培養士としての役割です」


<倫理感がミスを防ぐ>

jus171226.5.jpg岡山大学
レベルの高い胚培養士を育てたり現場で働いている人のレベルアップを図ろうという動きもあります。
岡山大学では、4年前、「生殖補助医療技術教育研究センター」を立ち上げました。学生や現役の胚培養士を対象に、ウサギの卵子を使った技術訓練などを行っています。

それに加えて力を入れているのは、生命倫理のプログラム。技術の先に、子どもを授かれずに悩み、先が見えない不妊治療に願いを託している夫婦の存在を意識してもらおうというのです。

jus171226.6.jpg医師 中塚幹也さん
講師を務める医師の中塚幹也さんの言葉が心に刺さりました。
「知識と技術を磨くことはもちろんだがそれだけではだめ。倫理感があることで誰かがミスをしたり、もし不正をしようとしたりしたときに他の誰かが止められるし改善も促せる。結果として不妊治療全体の質を高めることができる」


<壁の向こうがわからない>
この記事を書くきっかけは、医療関係者との話の中で「受精卵が育たなくても、患者のせいにできてしまう」という言葉を聞いたからです。

確かにそうなのです。培養室の中で起きていることを患者は知ることができません。どんな胚培養士がいて、どんな経験を積んでいて実績はどうなのか。そうした情報が患者の手が届く形になっていないことが多いのです。胚培養士の訓練には全国共通のマニュアルはありませんし、技術力や倫理感をどう養うかは医療機関に委ねられています。

独自に試験を設け、技術が育つまでは現場に出さないなど厳しい指導をしている医療機関もあります。思いやりにあふれ、胚培養士も医師も一丸となって働く施設もたくさんありました。
その一方で、ただ個人の自助努力に任されているだけで学ぶ機会が無い施設も少なくないのです。


<未来の生殖医療に向けて>

jus171226.7.jpgいま不妊に悩んでいる夫婦は5・5組に1組と報告されています。培養室の壁の向こう側を患者が知ることができるシステムと、胚培養士の技術と倫理感を担保する仕組み作りが不可欠です。

患者の夫婦は医療機関に「卵子」と「精子」を預けていますが、気持ちの中では「命」を預けています。これからの生殖医療がそうした患者の思いに応える医療であってほしい、壁の向こう側を見た1人としてそう思っています。

投稿者:牧本 真由美 | 投稿時間:15時40分

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