2010年09月03日 (金)「知床旅情」 千葉県・浦谷正光さんの思い出です


名曲「知床旅情」は、森繁久彌さんが知床を舞台に映画を撮影した際、

地元の人々への感謝を込めて1960年に作った歌で、ことし誕生50年を迎えます。

NHKでは「知床旅情」に関する思い出・エピソードを募集し、番組を制作いたしました。

ご投稿および取材へのご協力、まことにありがとうございました。

ご投稿いただいた記事はこのブログでご紹介させていただいております。

 

今回の記事は、千葉県・浦谷正光さんから。ありがとうございます。

浦谷さんは19年前、ご夫婦で知床を旅行されたそうです。そのとき、晩のおかずを調達しようと釣りを始めたオホーツク海のある岩場でのエピソードを寄せていただきました。

 

知床紀行

千葉県 浦谷 正光

 


一九九一年八月十九日、定年を機に何十年振りかで故郷知床のウトロを再訪した。青春時代に行った時は未だ道路が整備されておらず、網走から漁船で行ったものだ。あの時、岩場で釣りをした印象が鮮烈。海水の透明度が抜群。底の方まで透き通っていて吸い込まれそうだった。その釣り方がまた並はずれていた。一本の糸に十くらいのハリをしかけ、その中の一つに餌をつけて下ろすと、大群が「待っていました」とばかりに押し寄せる。ひきがあるとか無いとかでなく、集合したのを見届けて無造作に上げると、たちまち何匹もが餌やハリに食いつき、体のあちこちにひっかったりして竿がしなるほど釣れた。通称「がや」だそうで、なんでも、がやがや寄って来て無茶苦茶釣れるので、そう云うとか。真偽のほどは分からないが。

さて数十年を経た今はどうか?それを確かめたくて、はるばる来たのだが。
「晩御飯のおかず釣って来るけど、ま、あてにしないで」
愛車のタウンエースで待つ妻に、ちょっと気の無い物云い。近くで餌のイソメを一パック購入、八〇〇円也。
「ちょっと高いんじゃない。魚買って食べたほうがまし」
などと釣具屋さんに憎まれ口きいて、いざ出陣。風光明美な奇岩をぐるり回ると、そこが釣り場。おじさんや大学生が三々五々。広々とした岸壁。目の前を観光船が緩やかに通り過ぎ、オホーツクの微風がささやく。海はべたなぎで鏡のよう。絶好の日和。いつものように私流のやり方、通しおもりで脈釣り。遠くへ投げては緩急をつけて巻いてくる。すると興奮した魚がぱっと食いつき、面白いように釣れた。赤茶色の片手で握れぬくらいの太い奴。お馴染の「がや」。昔をほうふつとさせる入れ食い。ところがややあって、餌取り名人みたいなのが。軽くつついて放し、またつつく...の繰り返し。
「よし、それじゃ勝負しよう!」
糸一本でつながっているお相手さんとの根くらべ。チョンと来たらそっと合わせ、躊躇したら緩め...の綱引き。そのうち奴さんしびれを切らして、ぐーんともっていった。糸が鳴る。
「来た...ぁ」
予期せぬ手ごたえに仰天。そんな大物が来るとは思いもよらず、ハリス2しかつけてない。下手にしゃくると切れてしまう。しかも岸壁は海面からの高さ十メートル近くで、寄せることも出来ず。仕方なく得体の知れぬ魚との格闘。ひたすら弱るのを待って三十分余。海面近くに来た魚影に胸の鼓動は高鳴る。なおも暴れまわるのをそろそろと手繰り寄せ引き上げたら、周りに人垣が出来て歓声と拍手。まれに見るでかいカレーだった!これに力を使い果たし、早々に退散。「がや」と合わせ発砲スチロールの容器一杯の大漁。釣具屋のおばさんには先刻の無礼を詫び、
「おっきいの釣れました。餌が新鮮だからでしょ。こんなに釣れたら、ちっとも高くないです。旅の途中で道具も何もないので、これ差し上げます」
破顔一笑、半ばうわずった声で云うと、
「ほんと、めったこんなおっきいの釣れませんよ。うちは知り合いの漁師さんからようもらうので、いいです。慣れてますから、さばいてあげましょう」
調理を快く引き受けて下さって、その場で刺身に。肉厚四センチもあろうかという巨大カレーの豪華版。家内と二人では食べ切れないくらい。持参の醤油だけで頂いたが、うまいのなんのって。こりこりして甘くて、食べた後は体がしゃきっと若返るようだった。

知床の海や人や魚達...みんな素朴で優しかった。変わらずに...

20100903uratanisamasiretoko.jpgこの岩山の陰でガヤ、カレイが釣れました

投稿者:NHK札幌放送局 | 投稿時間:17:58 | カテゴリ:知床旅情の思い出 | 固定リンク

2010年09月01日 (水)「知床旅情」 北海道旭川市・中島啓幸さんの思い出です


名曲「知床旅情」は、森繁久彌さんが知床を舞台に映画を撮影した際、

地元の人々への感謝を込めて1960年に作った歌で、ことし誕生50年を迎えます。

NHKでは「知床旅情」に関する思い出・エピソードを募集し、番組を制作いたしました。

ご投稿および取材へのご協力、まことにありがとうございました。

ご投稿いただいた記事はこのブログでご紹介させていただいております。

 

今回の記事は、北海道旭川市・中島啓幸さんから。ありがとうございます。

中島さんは森繁久彌さんと親交があったそうですが、そのきっかけには「知床旅情」があったのだとか。「知床旅情」を人生の応援歌に、森繁久彌さんを応援団長にして、お仕事をがんばっていらっしゃる中島さんのエピソードです。

 

森繁先生と知床旅情をデュエットしたときのこと

北海道旭川市 中島 啓幸


二〇〇九年十一月十日に96歳で亡くなった森繁先生の告別式とファン向けのお別れ会が青山葬儀所で行われた模様を僕は旭川市の職場、重症心身障がい児施設で18人の子どものお昼ごはんの介助をしながら見ていました。そりゃあ、お葬式には飛んで行きたかった。でも「子どもたちを頼むぞっ!」と励ましてくれた森繁先生の声を思い出すと職場を離れるわけにはいきませんでした。叱られてしまいます。17年間、森繁先生と文通をさせていただき、ご自宅に招いてくださったり仕事場を案内してくださったこと20回あまり...

僕は中学時代、ひどい「いじめ」を受けました。キッカケはごくささいなこと。自転車で転んだとき持っていたレコードをかばったために、手を複雑骨折。これを「マヌケ」とからかわれたのが発端でした。このとき持っていたのが「知床旅情」でした。いじめはますますエスカレートして、イスに画びょうを置かれたり、机に花を飾られたり、通学自転車のタイヤの空気を抜かれたりは日常茶飯事。クラス全員が僕を無視するようになりました。毎日のように泣きながら家に帰った時のたった一つのなぐさめ、それは午後4時から再放送されていた森繁先生のホームドラマのぬくもりでした。あのドラマのおかげで人をもう一度信じる気持ちになれたことを教育大、障がい児教育の道を進むことになったときに森繁先生へのお礼の手紙に辛かった日々のことをつづりました。十日もたたないうちに奇跡が起きました。森繁先生から返事がきたのです!こうして始まった心の交流は、ずーっと続き「よかったら、遊びにおいで」と誘ってくださり、森繁先生が愛車のリムジンに乗せてくださり千歳船橋の御自宅から銀座まで、あんみつを食べに連れて行ってくれたこともありました。その車中、車窓からみえる東京をユーモアたっぷりに案内してくださったり、そのとき、ご一緒に口ずさんだ「知床旅情」の歌詞はいまも僕の心にしっかり深く刻みつけられています。「ドラマの中で励ましなぐさめてくれた主人公が、僕の目の前にいて『心の友』と言ってくれた!」いじめられていた頃の自分自身に、いつしか僕は語りかけていました。涙が止まらなかった......

森繁先生は、いつも障がいをもつ子どもたちと僕の七転八倒の日々を「そうか...そうか」といつも真剣に聞いてくださり、時に涙し笑い、ユニークな質問をしてくださり、励ましてくださった。森繁先生と生前、さいごにお逢いしたNHKの日曜名作座の収録の帰り、スタッフと一緒に帰りの車を見送るとき、窓がスーッと開いて、僕を呼びよせ森繁先生は何度もこう熱く言いました。「おい、子どもたちを頼むぞ!頼んだぞ!頼んだぞ!」
そのときの森繁先生のあったかい表情と知床旅情のメロディーがいまも僕のいちばんのやさしい勇気です。支えです。

投稿者:NHK札幌放送局 | 投稿時間:19:58 | カテゴリ:知床旅情の思い出 | 固定リンク

2010年09月01日 (水)「知床旅情」 鹿児島県・田中一朗さんの思い出です


名曲「知床旅情」は、森繁久彌さんが知床を舞台に映画を撮影した際、

地元の人々への感謝を込めて1960年に作った歌で、ことし誕生50年を迎えます。

NHKでは「知床旅情」に関する思い出・エピソードを募集し、番組を制作いたしました。

ご投稿および取材へのご協力、まことにありがとうございました。

ご投稿いただいた記事はこのブログでご紹介させていただいております。

 

今回の記事は、鹿児島県・田中一朗さんから。ありがとうございます。

田中さんが知床を訪れたのは40年前の夏。九州・鹿児島県の田中さんにとって真夏の7月だというのに上着が必要なほど寒いことに驚いたそうです。そんな田中さんが体験した「知床旅情」エピソードです。

 

「知床旅情」が結ぶ縁

鹿児島県 田中 一朗


前日に札幌、洞爺湖、登別温泉等を巡り、夜行列車で早朝の網走に着いた。7月というのに、やたらと寒い。真っ先に、運良く開いていた駅前の衣料品店にかけこみ、長袖のジャンパーを買い込んだのを記憶している。列車が停車するたびに不思議に思っていた駅舎の煙突からの煙も、ストーブのそれとあとから聞き、なるほどと納得した。しかし、南国育ちの私には、「7月=長袖シャツ」「7月=ストーブ」がどうしても結びつかず、その感覚を受け入れるのに、しばらくの時間が必要だった。
当時、病院勤めをしていた私は、隣接の看護学校の教務から、学生の修学旅行に誘われた。行先は「北海道」という。初めての地ということに加えて、40名余りの同行者はすべて看護学生とのこと。鹿児島からは往復とも列車で、道内の移動ほとんどがバスという、今では信じられないようなハードスケジュールに二の足を踏むこともなく、二つ返事で参加をOKしたのは言うまでもない。
その日、網走市内を観光したあと、バスはウトロへ向かった。正面に斜里岳が美しい。バスがウトロに近づくと、ふと誰かが「知床旅情」の歌を口ずさんだ。それはやがて、バスの中での大合唱となった。ウトロの港では、岬巡りの船の出発まで多少の時間があるという。短い時間を惜しんで、私はオロンコ岩に駆け足で登ったり、港周辺を歩き回った。とその時、「知床旅情」の歌碑を見つけた。歌碑の存在を知らなかっただけに、まさに「思いがけず...」という感じだった。つい先程、バスの中で、皆で、このような形でこの歌を歌ったということも加わり、なお一層、この歌への愛着と愛おしさが増す思いだった。
その後、バスは納沙布岬、釧路、阿寒湖、摩周湖、層雲峡と回った。その間、ずっと「同じバス、同じ運転士、同じガイド」だったことも幸いしたのか、日を重ねるに従い、バスの中は、まるで「ひとつの家族」のような和やかさと親しみに支配されていった。そして、バスの中で退屈してくると、誰からともなくこの歌を口ずさみ、皆で合唱する日が続いた。
帰鹿してから半年後のその冬、思いがけずも、その時のバスの運転士を務めていただいたAさん一家が来鹿、卒業を前にした彼女らと共に再会を喜んだ。歓迎会のあとの別れにも、全員でこの「知床旅情」を歌ったのは言うまでもない。
以来、北と南の果てに住む者同士、Aさん一家とはお互いに行き来し、近況を報告し合いながら、今でも家族ぐるみの交流が続いている。当時、同行した彼女達のほとんどは、定年退職した者もおれば、それぞれの病院で婦長や主任を務めたりしている人も多い。
今も彼女らと会い、そのたびに話題になるのは、この時の北海道旅行の思い出と、「知床旅情」の歌である。私にとって、今から40年も昔の懐かしくも貴重な思い出である。

投稿者:NHK札幌放送局 | 投稿時間:19:18 | カテゴリ:知床旅情の思い出 | 固定リンク

2010年08月31日 (火)「知床旅情」 北海道小樽市・大田和夫さんの思い出です


名曲「知床旅情」は、森繁久彌さんが知床を舞台に映画を撮影した際、

地元の人々への感謝を込めて1960年に作った歌で、ことし誕生50年を迎えます。

NHKでは「知床旅情」に関する思い出・エピソードを募集し、番組を制作いたしました。

ご投稿および取材へのご協力、まことにありがとうございました。

ご投稿いただいた記事はこのブログでご紹介させていただいております。

 

今回の記事は、北海道小樽市・大田和夫さんから。ありがとうございます。

知床旅情」は大田さんの会社の上司が宴会で十八番にしていた歌。社員旅行で知床の斜里町ウトロ地区を訪ねた時、遊覧船で「知床旅情」が繰り返し流れ、社員全員が覚えてしまったとか。そんな何かと縁がある「知床旅情」、実は大田さんとかなり強い結びつきがあることを知ったそうです。その深い縁とは?

 

知床旅情の思い出

北海道小樽市 大田 和夫

 

昭和四十年頃でしたでしょうか、小さな会社の宴会でしたが酔いがまわり歌が出はじめると、酒をすごしてテーブルに顔を伏せていた工場長が「知床の岬に...」と独特の節回しで歌い始めるのが常でした。
そして「...ピリカが笑う」まで歌うとバタット畳の上に倒れて寝てしまいます。
すばらしい歌をどこで覚えてこられたのだろうと皆で話していました。しらふの時に教えてほしいと何度も頼んだのですが酔わないと思い出さないと断わられてばかりでした。
そうこうしている内に、会社の社員旅行が企画され、当時は、美幌峠や摩周湖の方が有名でしたのでそちらの観光のついでに斜里のウトロに一泊することになりました。
ウトロに到着すると知床岬までの遊覧船が出ているとのことで全員で乗ることにしました。
出港して間もなく「知床の岬に...」と森繁久彌さんの声で歌が流れてきました。
工場長が歌っていたのはこれだと喚声が上り、何度も流れるメロディに遊覧が終るまでに皆が覚えてしまい、その夜の宴会では「知床旅情」を皆で大合唱した思い出があります。また、私は今から五十年前の昭和三十五年に二十四才で小樽に本州から来ました。誕生日は七月十七日です。最近、知りましたが、五十年前私が来樽した年の私の誕生日に森繁久彌さんが「知床旅情」をラウスを去られる折に初めて歌われたと知りこの歌との縁の深さに驚いています。

この歌を口ずさむと「カムイの大地」佇んでいるような気がします。

投稿者:NHK札幌放送局 | 投稿時間:15:48 | カテゴリ:知床旅情の思い出 | 固定リンク

2010年08月30日 (月)「知床旅情」 神奈川県・市野一喜さんの思い出です


名曲「知床旅情」は、森繁久彌さんが知床を舞台に映画を撮影した際、

地元の人々への感謝を込めて1960年に作った歌で、ことし誕生50年を迎えます。

NHKでは「知床旅情」に関する思い出・エピソードを募集し、番組を制作いたしました。

ご投稿および取材にご協力いただき、まことにありがとうございました。

ご投稿いただいた記事はこのブログでご紹介させていただいております。

 

今回の記事は、神奈川県・市野一喜さんから。ありがとうございます。

今年7月にアタックした知床岬へのトレッキングにまつわる夫婦のエピソードを写真と共に送っていただきました。

 

夫婦の絆深めた知床トレッキング

神奈川県 市野 一喜

 

私達夫婦は今年の7月に知床を旅してきました。普通、知床というと大抵の人は知床5湖やカムイワッカの滝などを思い浮かべると思いますが、私達はテントを担いで岬にある灯台まで歩いてきました。大自然がそのまま残るこのルートは、熊の多出没地域であるほか、垂直な崖をへつる岩場や、海の中を歩かなければならない所もあったりして大変スリリングなものでした。もちろん岬に通じる道などはありません。私達は何年も前から計画を立てて情報収集に励みました。そして今年の夏ようやく岬へのアタックが実現しました。
初日の天気は曇り。初めは遠足気分で熊よけの笛で合奏をしたり、記念写真を撮ったり楽しんで歩くことができました。

20100830itinosamaCIMG6487torekkingu.JPG
しかし二日目は朝から雨。その日は岬手前の赤岩でテントを張る予定だったのですが、午後になると雨はどんどん強くなり、おまけに風まで吹いてきて、止む得ず念仏岩という滑落事故の名所の下でビバークすることになりました。夜になると風はますます強くなり、テントは今にも吹き飛ばされそうでした。目の前には大きく張り出した崖。明日はその崖を登らなければなりません。「あの崖から落ちたら死ぬ」そんなことを考えると、とても眠ることができませんでした。結局朝になっても雨は止みませんでした。テントの周りに張った熊除けのロープと鈴は風で吹き飛ばされていました。しかし待っていても天候が回復する兆しはありません。私達は午前8時に念仏岩にアタックを開始しました。その時の妻の不安そうな顔は今でも忘れられません。きっと絶対に動きたくなかったのだと思います。でも彼女はついてきてくれました。風に飛ばされないよう四つん這いになって崖を登り、垂直降下ではザックを放り投げて身一つで降下にアタックしました。強風下での念仏岩越えは本当に寿命の縮まる思いがしました。その後の難所は比較的楽に通過することはできたのですが、雨風に行く手を阻まれ、岬に到着したのは予定時間を大幅に遅れた午後1時過ぎでした。
岬の先端は広い草原になっています。これまで岩場や崖ばかり歩いてきた私たちにとっては何だか雲の上を歩いているような気分でした。灯台は岬の高台に建っていて最後は階段になっています。最後の一段は二人で足をそろえて登りました。初めは何だか信じられませんでしたが、灯台にタッチした時には「歩き抜いた!」という達成感が体中からこみ上げてきて二人で抱き合って喜びました。
あいにくの天候でしたが、今回のトレッキングは私達夫婦の絆をますます強めてくれた気がします。暴風の中、励ましあって過ごした不安な一夜。念仏岩では手と手を取り合って崖を登りました。こんな経験は日常では絶対にできないものだと思いました。晴れていればきっともっと楽に岬まで行けたと思います。でも、今回は天候が悪かった分、余計に貴重な体験ができたと思うのです。知床岬の灯台で撮った記念写真は一生の宝物になりました。二人が手にしているのはこの日のために作った手作りのノボリです。この時の感動は今でも忘れません。
でも今回旅で一番嬉しかったことは、彼女が辛い道のりを文句も言わずについてきてくれたことです。共に喜び、共に苦労し、その思い出を振り返ってくれる人がそばにいてくれることです。同じ想いを共感できる人がいる。今、その幸せをかみしめています。これからも二人で力を合わせてやっていこうね。本当にありがとう。

20100830itinosamaCIMG6655fuufu2s.JPG2010年7月11日(日) 知床岬灯台

投稿者:NHK札幌放送局 | 投稿時間:20:58 | カテゴリ:知床旅情の思い出 | 固定リンク

2010年08月26日 (木)「知床旅情」 北海道札幌市・寺下敏さんの思い出です


名曲「知床旅情」は、森繁久彌さんが知床を舞台に映画を撮影した際、

地元の人々への感謝を込めて1960年に作った歌で、ことし誕生50年を迎えます。

NHKでは「知床旅情」に関する思い出・エピソードを募集し、番組を制作します。

ご投稿いただいた記事は随時このブログでご紹介いたします。

 

今回の記事は、北海道札幌市・寺下敏さんから。ありがとうございます。

寺下さんから、昭和60年夏にお孫さんたちと知床に家族旅行をしたときの思い出を寄せていただきました。

 

家族の夏休み

北海道札幌市 寺下 敏

 

八月の暑い昼下り、リリンーリリンー電話のベルの音、「去年は級友会十和田湖一泊二日だったが、今年は何処か近間にしようやー今年は女性の方で探してよっ」電話の声は級友の男性の幹事からだ。昭和六十年八月の事である。まだ紅葉にも早いが級友のA子さんを誘い観光案内所へ調べに行く。夏と秋にかけ知床が一番、景色と食べ物が美味しくと勧められ、大体の見積りにホテルと民宿のコピー二枚貰い、又後でと二人は家に帰った。一日閉め切ってあった部屋は暑く、早速窓を開け風を入れた。バックから案内所で貰った二枚のコピーを机の上に置き、私が別の部屋に行って居る間に強い風が吹き込み、二枚のコピーがヒラヒラ舞い上り飛んだ。そこへ長男(三十五才)が部屋に入って来て「なんだこれは」。床の足下に落ちている一枚のコピーを拾い「観光の折込広告かなー丁度子供達の夏休み一泊何処かと考えていたからー民宿だけどたまにいいか?早速電話しようー」。そのコピーを持ち部屋を出て行ったその後私が部屋に戻ると「アラッ」。確か机の上に二枚置いたコピーが無い、もしか風かなあーと思った、其の夜おばあちゃんー八月十二日知床一泊予約したからねー」私が案内所から貰って来たコピーとは知らず「長男も私の息子、よく似た事するなあ...」とおかしくなった。

八月十二日、長男夫婦、孫中一(男)、小四(女)、私を入れ五人が出発。国道を車で走り層雲峡、大函、小函、数々の滝、移り変る景色は素晴らしい。やがてオホーツク海「知床だ」。切り立つ岸壁、青い海に真っ赤な夕日が海面を照らし美しい。民宿は二階建てのホテルの様な派手さはないが廊下を行くと部屋へ、その途端驚いた、十畳間の片隅に五組の布団が山高く積み上げられ、浴衣も置いてない。「すみません浴衣貸して下さい」。奥から七十過ぎのぢいさんが「浴衣ほしいのうー」と奥から持って来た。私は一瞬気が抜けた。「今夜は温泉にゆったり首までつかり、家事一切忘れのんびり楽しめると思って来たのにー朝夜布団は自分勝手に敷けと言う事なのか...まるで学生の合宿だ、民宿でもサービスの良い所もあるのにー車の中でワイワイ騒いで来た孫達も、指折り数え今日を楽しみにして来たのに期待はづれで言葉も無い、私は待望の知床へ来てふさぎ込んでは勿体ない、今夜は私達の運が悪かったのだと悟し、夕食は知床の活きの良い生寿司を食べに五人は夜の飲食街へ出た。店先の赤提燈がユウラユラーお客達が炭火で魚介類を網で焼くその焼きコゲの香りが香ばしく匂いお腹がグウーと鳴る。そんな風景の中、「知床の岬にーハマナスの咲く頃」、あの渋く甘い森繁久彌の知床旅情が流れ、一層私の心に哀愁を感動させる。生きたイカを眼の前で料理し炭火の網に乗せ焼くのを見て「可愛そうー」モヤモヤ孫達は叫ぶ。次の日遊覧船の船内にも知床旅情が流れ、切り立つ岩壁、大小の岩の間を縫う様に何十羽のカモメがエサをねだり遊覧船を追いかけ飛んで来る。家へ帰った翌朝、中一の孫が部屋を掃除して居たら、一枚のコピーが机の下から出て来たと持ってきた。私はドキッー「あの時ー無くしたコピー?」早速長男を呼び話を順番に聞いて行く内「風で一枚は机の下、もう一枚は知床」と判り皆が大笑い。コピーを拾った中一の孫は手に持ち「ヤアッ此のコピーで知床行って居たらもっと豪華なホテルで楽しめたのに残念...」足をバタバタ机をたたき悔しがる「残念だったが家族の一夜の想い出は何時までも残るよー来年はもう少し良いホテルをねーアハハハー」父親は笑う。

あの飲食街で流れた知床旅情が私の脳裏にやきつき帰って早速レコード店で買った。それから約二十五年過ぎ現在、カセットのケースも色あせ、森繁さんの声も少し疲れて来たが、今でも歌を聞く度あの当時の事が眼に浮かび懐かしく、私の想い出が多くさん詰った宝物...森繁さんは亡くなられたが知床旅情は生きています...「ヤアッー知床は本当エエトコダベサアッ一度遊びに行ケバイインデナイカイー」

投稿者:NHK札幌放送局 | 投稿時間:21:28 | カテゴリ:知床旅情の思い出 | 固定リンク

2010年08月26日 (木)「知床旅情」 群馬県・卯木滋哉さんの思い出です


名曲「知床旅情」は、森繁久彌さんが知床を舞台に映画を撮影した際、

地元の人々への感謝を込めて1960年に作った歌で、ことし誕生50年を迎えます。

NHKでは「知床旅情」に関する思い出・エピソードを募集し、番組を制作します。

ご投稿いただいた記事は随時このブログでご紹介いたします。

 

今回の記事は、群馬県・卯木滋哉さんから。ありがとうございます。

卯木さんは群馬県にお住まいながら、これまでになんと8回も知床を訪ねている方です。ヒグマとの遭遇など自然豊かな知床ならではの貴重な体験を寄せていいただきました。

 

地の涯カムイの地に憧れて

群馬県 卯木滋哉

 


シリエトク、昭和三十一年六月、学部の旅行で北海道に遊んだ時学友から「斜里の先に知床と云う地があり原生林の中の集落への道路がなく、船でしか行けない住民より羆が多い秘境」と聞き、海辺の白老アイヌ集落で多数の羆の頭骨と戦いの踊りを、方々の観光地で羆の飼育を見て秘境知床へもと憧れたことが八回も実現し、ボランティアまでとは思ってもいませんでした。
昭和四十八年十月、北海道に行ったのは知床に入ったのが最初で、斜里からバスでオシンコシンの瀧を左眼下に眺め、現在の海岸道路ではなく原生林の中をウトロ迄、旅館で○月○日○時頃と昨日の日付けで羆出没と書かれた注意書きがあって驚き、翌日ビクビクしながら熊笹の狭い道を一湖と五湖を見物、私達の声と鳥の声のみの静寂に感動しました。
昭和五十九年春、知床100平方米運動を知り参加。六月、妻と共に網走からレンタで知床に入り初めて五湖を一周、四米程の狭い道路を知床大橋まで出て来たキツネに和み、ラウスに向いラウス岳を背景の知床峠の石碑から国後島、国内から外国を遠望し、ラウスの町に入った時、数多くの畳一枚程の羆出没注意の立て看板に緊張し下車する事を躊躇し熊の湯入浴も諦めました。
平成三年十月、紅葉の五湖を一周。五年二月、流氷と雄鹿の優雅を。八年三月、中標津からレンタでラウスへ。厳冬なのにスムースに走行出来、樹上のワシの多さと船でラウス沖の流氷群、ワシ、アザラシ等に感動。潮風公園のオホーツク老人森繁像から朝五時四十八分、国後島からの朝日に日本の夜明けはここだと実感しました。
平成八年六月、ボランティア講習会に参加。原生林を歩き羆の冬眠穴、骨だけの鹿の死骸で食物連鎖を思い、船で斜面に遊ぶ羆、カムイワッカ瀧横の丘の上の2歳児2頭を見た時は猛々しさは感じられず、頑張れと応援していました。
六十三歳の平成十年五月七日から一ヶ月間ボランティアに参加。帰る迄屋内は暖房を焚いているのに屋外では刻一刻と春が萌え、知床連山の雪山を背景に若葉が増している樹木達の風景、袋角の鹿の群れ、春蝉の合唱、桜が咲き季節の変遷の早いこと、五湖ではダダダダダーンとクマゲラが活動し、営巣確認に朝四時から一週間通い、キィーと鳴きながら抱卵を交替したつがいに感動。カムイワッカ瀧横の斜面を知床大橋への道路に向い七人程で登っていた時、我々二名が遅れ、間隔があきその間の二十米程先に羆が表われ唯々ニラメッコ。教育されていた対処通りとは云え此方をチラッチラッと見たら立去った時は非常に長く感じ汗をビッショリかいていました。オオジシギの煩い鳴声、春蝉の合唱にスピーカーで流しているのかと聞いた観光客、バナナ状の房を持つシウリ桜、オロンコ岩上の花の楽園、知床岬の番屋等、強烈な思い出と楽しい思い出でした。
帰宅後病に倒れ入院。以後のボランティアは不可能となりましたが、回復後の平成十四年十月、自宅から車でフェリーを含め十二日間の北海道を、岩尾別温泉と峰温泉に宿泊。鮭の産卵や鹿のラブコールを、念願の熊の湯にも入浴。八回目、妻五回目の知床を楽しみました。
七十五歳の現在でも地の涯カムイの地シリエトクへの思いが消えない今日この頃です。

投稿者:NHK札幌放送局 | 投稿時間:21:10 | カテゴリ:知床旅情の思い出 | 固定リンク

2010年08月26日 (木)「知床旅情」 北海道札幌市・佐藤吉信さんの思い出です


名曲「知床旅情」は、森繁久彌さんが知床を舞台に映画を撮影した際、

地元の人々への感謝を込めて1960年に作った歌で、ことし誕生50年を迎えます。

NHKでは「知床旅情」に関する思い出・エピソードを募集し、番組を制作します。

ご投稿いただいた記事は随時このブログでご紹介いたします。

 

今回の記事は、北海道札幌市・佐藤吉信さんから。ありがとうございます。

佐藤さんは48年前、東京での仕事をやめ、北海道での暮らしを始めました。その後、訪ねた羅臼町での偶然の出会いから「知床旅情」を知り、その魅力に感じ入ったのだそうです。どんな出会いがあったのでしょうか?

 

北海道永住の決断それは「知床旅情」

北海道札幌市 佐藤吉信

 


北海道のことは、小学生の時にクラスの仲間と、NHKラジオの気象通報を聞きながら、その地点の気象状況を記録していたので、北海道の北には稚内市があることを知り、最北端であることも分かったのです。それからは、北海道に興味を持ち始めてきました。北海道の東は西は南は、そして稚内のある北はどんな所だろうかと思っていました。
そして昭和37年4月15日にそれまでの東京での仕事を止めて汽車に乗り稚内に着き、北海道での暮しが始まったのです。
知床旅情の歌と出会ったのは、それから3年目の昭和40年の夏に、仕事の関係で根室管内に研修旅行をしたときでした。時間の余裕があったので羅臼町を訪れました。その時に偶然にも町長さんと会ったのです。町長さんからは、日本一自然の美しい知床のことや、羅臼町の豊富な漁、名所などの話を聞かされました。それまで私は、北海道に来て稚内しか知りませんでしたので、町長さんの話は興味津々でした。そして町長さんは、急に俺の家に行こうといわれ訪問したのです。町長さんのところは、自然風美な庭があったことを今でも覚えています、町長さんから、皆んな入れや、といわれ部屋に案内されました。そこには今では珍しい、大型で木製の四角いテープレコーダーが置かれていました。右から左へとテープが平行に巻かれる形式です。スイッチを入れる前に町長さんが、このテープには森繁久彌さんが羅臼町を訪れた時に、始めて発した知床旅情の「素歌」が吹き込まれている、といいながらスイッチを入れました。独特の低音で歌い始まりました。伴奏も間奏もなく自声で終りまで歌っているのです。北海道に住んで間もない私でしたが、このテープの森繁久彌さんの素歌を聞き、知床ならでの自然の奥深さを感じ、住んでいる皆さんの心の優しさを感じたことを覚えております。
翌日早めに起きて、港や林道を散策しましたが、ピンピンした魚の豊かさ、どこまでも続く自然の美しさを実感し、昨日聞いたテープレコーダーの「素歌・知床旅情」とマッチしていたことを感じ、あらためて「知床旅情」は素晴らしい歌だと思ったのでした。
今では、知床の自然の豊かさが世界自然遺産として認められ、日本の自慢となっています。
そして、知床旅情は国外でも数多くの人達に歌われています。
人間、心につまずいた時や、自分を見失いかけた時などに、この唄「知床旅情」を思い出し、歌って自分の素朴な本心に戻ることを導いてくれる素晴らしい歌ではないかと思っています。
また、知床旅情は、知床世界自然遺産と一体となって歌い続けられることでしょう。
私は、この知床旅情を聞いているうち、昭和41年に北海道での永住を決めました。
ラジオやテレビから、知床旅情が流れてくると、羅臼町長さんの部屋で聞いた、テープレコーダーを思いだします。ちなみに、私は、数少ない好きな歌のひとつが「知床旅情」です。

投稿者:NHK札幌放送局 | 投稿時間:20:20 | カテゴリ:知床旅情の思い出 | 固定リンク

2010年08月26日 (木)「知床旅情」 北海道札幌市・村井俊博さんの思い出です


名曲「知床旅情」は、森繁久彌さんが知床を舞台に映画を撮影した際、

地元の人々への感謝を込めて1960年に作った歌で、ことし誕生50年を迎えます。

NHKでは「知床旅情」に関する思い出・エピソードを募集し、番組を制作します。

ご投稿いただいた記事は随時このブログでご紹介いたします。

 

今回の記事は、北海道札幌市・村井俊博さんから。ありがとうございます。

中学校の音楽の先生だった村井さんは47年前、職員旅行で知床を訪ね、初めて「知床旅情」を知ったのだそうです。以来、今日まで歌い続けているという村井さんのエピソードを寄せていただきました。

 

「知床旅情」の出会いと今

北海道札幌市 村井俊博

 


1 知床の旅
昭和38年夏、私は空知の妹背牛中学校で音楽教師として、生徒と共に合唱や吹奏楽の指導・練習に明け暮れていた。その当時、夏休みになると、毎年恒例となっている職員旅行が計画されていた。「日頃なかなか行けないところへ行こう」と、道東知床方面を旅することになった。
国鉄を乗り継いで斜里駅へ、そこからバスでウトロを経てトドワラを横に見ながら、目的地岩尾別温泉についたのは夕方であった。本当に「地の果てに来た」という感じであった。
翌朝は2コースに別れて、体力に自信があり元気な人たちは、登山で斜里岳を山越えして羅臼の町に向った。私はゆっくり行くバス組に入った。斜里バスは山の中でところどころ道路がぬかるみ、全員降りてバスを押したり、砂利道でパンクするというハプニングもあったが、夕方羅臼のホテルに無事到着し、山越え組と合流した。大原始林を越えての旅であった。

2 「知床旅情」の歌と楽譜
その夜の交流交歓会の席で、ホテルの女中さん(当時はこう呼んでいた)方々の歌った「知床旅情」の歌を初めて聴いた。そのやさしく、親しみやすいメロディーは、私の心を捉えて離さなかった。早速その場で五線紙に書きとめ、すぐ2部合唱に編曲して、皆さんに歌ってもらった。
私が自分の耳で聴いたままを音符にしたので、楽譜は8分の6拍子・ニ長調・弱起の曲として楽譜を完成させた。しかし後年、ある市販の「曲集」を見たら、この曲は4分の3拍子・ハ長調・強起の曲であった。この楽譜が森繁久彌さんの原曲かも知れない。しかしそうだとすると加藤登紀子さんが歌っているのも、その譜とは少し違っているように思った。民謡のように歌う人によって少しずつ変わっていくのかもしれない・・・・。
その夜の大合唱から、合唱曲「知床旅情」は、「妹背牛中学校第2校歌」と言われ、転勤の送別会や交流交歓会のフィナーレーの曲として、素晴らしいハーモニーを響かせ、長く続いた。

3 今日も歌う幸せ
退職して既に10余年が過ぎた。私は今、高齢者ばかりで構成された男声合唱団「深室グリークラブ」に所属し、歌い続けている。
そこでたくさんの曲を歌っていますが、「知床旅情」はその中の大切なレパートリーである。特に「楽しく歌おう」と、会場の聴衆と一緒になって歌うとき、あの昭和30年代の「知床」の旅や我が青春と謳歌した日々を思い出され、胸が一杯になり、本当に幸せです。
「知床旅情」は私の人生を彩る最高の「応援歌」になりました。感謝!

投稿者:NHK札幌放送局 | 投稿時間:19:40 | カテゴリ:知床旅情の思い出 | 固定リンク

2010年08月26日 (木)「知床旅情」 北海道旭川市・山名るみ子さんの思い出です


名曲「知床旅情」は、森繁久彌さんが知床を舞台に映画を撮影した際、

地元の人々への感謝を込めて1960年に作った歌で、ことし誕生50年を迎えます。

NHKでは「知床旅情」に関する思い出・エピソードを募集し、番組を制作します。

ご投稿いただいた記事は随時このブログでご紹介いたします。

 

今回の記事は、北海道旭川市・山名るみ子さんから。ありがとうございます。

山名さんは元バスガイドさん。道内を観光するお客さんに「知床旅情」を広めた立役者の一人です。当時、そして数年前に知床を訪ねた時の思い出を寄せていただきました。

 

知床旅情の思い出

北海道旭川市 山名 るみ子

 


知床旅情の想い出とラジオで聴いて遥か遠い日を想い浮かべています。昭和四十四年春から四十六年春までの二年間、道内の観光バスに乗務していました。丁度知床旅情が大ヒットしていた頃で、毎日マイクを握って唄っていたものです。ドライバーの後ろに手書で歌詞を書いた紙をぶらさげて唄の時間を作って半ば、強制的!?に唄って覚えて頂き、お客様と一緒に唄ったものです。ガイドの研修で知床に行き揃って唄った仲間達。先輩達とすごした予備室という部屋で、勝手に唄っていると"うまい!!"と云われ、嬉しかった事など知床旅情は忘れられない唄です。数年前友人と2人で一泊で知床を訪ねたところ、ガイドさんが唄ってくれなかったのが、残念でした。
大自然の知床と一緒に、この唄がずっーと唄い継れて行って欲しいものです。知床に行ったなら、荷物にならないお土産に是非覚えて唄って欲しい曲です。

投稿者:NHK札幌放送局 | 投稿時間:19:10 | カテゴリ:知床旅情の思い出 | 固定リンク

ページの一番上へ▲