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さなイチ

『真田丸』で時代考証を担当していただいた黒田基樹先生、平山優先生、丸島和洋先生に、クランクアップの際にお話を伺いました。

 
Q.『真田丸』の時代考証を終えられての、感想をお願いします。

『真田丸』では、“近年の戦国史研究の成果を出来る限り反映させたい”という思いで取り組みました。例えば、民衆の武装であったり、官位についてだったり、人の呼び方だったり…。近年のドラマなどでは、あまりこのように表現することはないようですが、豊臣秀次のことを「近江中納言」とか「近江宰相」というように、その時の官職に応じた呼び方を、セリフに入れていただけたことは良かったと思います。また、豊臣秀吉が名乗る際のセリフを、「とよとみ ひでよし である」ではなく、「とよとみ の ひでよし である」としていただけたことも良かったですね。基本的な史実を元に物語を組み立てることを含めて、かなり反映させることができたと思っています。

Q.黒田先生は北条氏の研究もご専門ですが、『真田丸』は歴代の大河ドラマの中でも、北条氏のことが特によく描かれた作品なのではないでしょうか?

そうですね。『真田丸』では、数代にわたって築き上げられた大国として描いてくださいました。実際にそうなのですから。それゆえに、豊臣秀吉に従うのか、それとも、従わないのか。その判断基準が、真田や上杉とは違いました。プライドが邪魔をしたという感じでしょうか。「戦国の論理」と「秀吉の論理」が重なって干渉しあうような描き方になっていたので、とても良かったと思います。『真田丸』は真田が主人公の物語なので、登場したのが氏政、氏直、江雪斎の3人のみだったというのは、しかたがないですね(笑)。

Q.『真田丸』の時代考証を終えられての、感想をお願いします。

『真田丸』は、時代考証側の意見を極めて受け入れていただいた作品だと思います。小さい国衆の一つであった真田が、どうして大名までのし上がることができたのか。「天正壬午の乱」は非常に複雑な内乱なので描くのが難しかったと思いますが、脚本の三谷さんが真田視点で面白くコンパクトにまとめてくださいました。しかも、真田昌幸という人物についても、ただの裏切り者としてではなく、自分の家と領土を守るためにどのように動けばいいのかを考えた末に選択した結果だったということを、非常に丁寧に描いていただけたと思います。そういう意味で、昌幸のイメージも真田家のイメージも『真田丸』を通して変わったんだろうなと、私はそう考えていますね。

Q.“表裏比興の者”といわれる昌幸ですが、ドラマの中では武田の旧領である信濃と甲斐を取り戻すことに必死になっていました。やはり、武田への思いは強かったのでしょうか?

昌幸が、武田に対する思い入れが強く、信玄に対する敬愛がすごく深い人物だったというのは確かです。「信玄公の菩提寺を自分が再興する」というふうに書かれた手紙が残されていますし、「信濃一国はもちろんだけれど甲斐も欲しい。ゆくゆくは信玄公がいた甲斐で隠居したい」という思いがあったと、記録にあります。7歳から35歳の頃まで武田家の中でずっと育ち、青春の全てが信玄と共にありました。自分を教育し、育ててくれたのは信玄だったという想いも、もちろんあると思います。昌幸が亡くなる時に「御屋形様…」と叫ぶシーンは、上手いなと思いましたね。史実は別に置いても、昌幸は本当にそういう心持ちだったと思います。

Q.『真田丸』の時代考証を終えられての、感想をお願いします。

小道具で用いる書状類、手紙類を当時の書式に沿ったものにきちんと整えることができたので、これまでの大河ドラマとは違った小道具類を出すことができたと思っています。映るか映らないかわからないような小道具にも、結構こだわっているんですよね。大坂夏の陣の開戦前に、信之と信尹が大坂の幸村の元へ向かうシーンがありました(第49回「前夜」)。

この時に信尹は、家康から貰った通行手形を所持しているのですが、こんなものに家康が花押を据えるわけがないので、当時家康が使っていた印判の絵をスタッフさんに送って相談をしたら、寸法も含めて再現してくださいました。結局映らなかったんですが(笑)。

鉄火起請(てっかぎしょう)などの戦国の社会風俗を示すような事柄を、上手く取り上げていただけたのも良かったですね。「武力で物事を解決する時代から裁判を仰ぐようになる時代へ」という中世と近世の社会の姿勢の違いを、段階を追って描いていただけたことは、非常に大きかったと思っています。

これは何とかできませんかと、結構強くお願いしましたね。

政治史の面では、石田三成を加藤清正たちが襲った「七将襲撃事件」。実際の三成は、伏見城内の治部少輔丸にある自分の屋敷に籠城したのに、ながらく家康屋敷に逃げ込んだという創作が信じられてきました。

これは何とかできませんかと、結構強くお願いしましたね。

三谷さんが快諾してくださって、本当にありがたかったです。家康が仲裁に乗り出すのも、大谷吉継の要請の結果なのですが、きちんと信繁が吉継のアドバイスで動く形になっていましたし。

Q.大坂の陣には、多くの牢人たちが豊臣方として参加しました。「ろうにん」という言葉には「牢人」と「浪人」の二つの書き方がありますが、違いはあるのでしょうか?

仕官先がない人という意味で用いる「ろうにん」という言葉には、本当は「牢」という字が使われていました。領地や地位・俸禄などを失って落魄(らくはく)することを「牢籠(ろうろう)」といい、そのような状態に陥った人を「牢籠人」と呼びました。これを略して「牢人」というふうになったんですね。一方「浪人」は、本籍の地を離れて流浪・浮浪する人という意味で用いられており、江戸時代半ばまでは意味合いが異なる言葉でした。
ところが、江戸時代中期になると、動物に例えられることが非常に嫌われるようになり、「牢」の内に含まれる「牛」の部分が問題視されるようになります。その結果、読み方が同じ「浪人」が、本来「牢人」であるべき意味でも用いられるようになりました。ですから、大坂の陣に集まった人たちを表すには、「牢人」という言葉を用いるのが正解です。
子どもたちが学んでいる歴史の教科書も年々変わってきていますが、それは研究の進歩によるものです。「絶えず研究が進展しているものなんだ」ということを、少しでも皆さんに実感として持っていただければと思っています。

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