平安 藤原氏はなぜ権力を持ち続けたのか

今月の放送

およそ400年にわたる平安時代、それは藤原氏による貴族政治の時代といえる。藤原氏は、摂政(幼少の天皇に代わり国政を執行する官職)・関白(天皇を補佐して国政を執行する官職)の地位を手に入れ”摂関制”を確立、長きにわたる繁栄を謳歌し、摂関家として鎌倉時代以降も生き残っていく。なぜ、藤原氏は強大な権力を持ち続けることができたのか、番組ではその原点を求め平安時代をさかのぼる。
院政とそれに続く武士の時代、藤原氏の勢力は翳りを見せる。保元の乱ではお家存続の危機に瀕するが摂関家として培った知的財産を武器に存続に成功する。藤原氏の生き残りを可能にするだけの地位と権力を確立したのが藤原道長であり、何代にもわたって天皇家との姻戚関係を結び、摂関政治を完成させた。そして藤原氏による摂関掌握の背景には、政敵を排斥する巧みな政治力があった。さらにその源を探っていくと、平安遷都を実現した桓武天皇の子・嵯峨天皇が進めた藤原氏との連携強化、互いに姻戚関係を結ぶことで絆を深いものにしようとする施策があった。400年にわたる繁栄を謳歌した藤原氏の歴史をさかのぼり、政治家の家「藤原氏」を生み出した原点に迫る。

今月の語り手

朧谷 寿
今月の語り手の朧谷 寿さんの詳細

同志社女子大学
名誉教授

今月の放送予定

2012年1月(全4回) 第1回 摂関家の危機 第2回 藤原道長の栄華 第3回 権力独占への道 第4回 摂関政治の誕生
平安時代


1167
平清盛、太政大臣
となる
1159
平治の乱
1156
保元の乱



1107
藤原忠実、摂政
になる


1086
白河上皇、院政を
始める
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平安 藤原氏はなぜ権力を持ち続けたのか

摂関家の危機

本放送:2月7日(火)22時00分~22時25分 再放送:2月14日(火)5時10分~5時35分、13時05分~13時30分

1156年、藤原氏にお家存続の危機が降りかかる。天皇家や武士を巻き込んだ保元の乱である。藤原忠実は自らの後継者を巡り、後白河天皇に与する長男・忠通と対立、家督を次男・頼長に譲っていた。ところがこの乱で頼長は敗北、藤原氏は財産没収と摂関家滅亡の危機に瀕する。そのため忠実は頼長を見限り、勝利した後白河天皇についた忠通と関係修復、家の存続のため権力側にすりよる現実路線を選択する。この乱を契機に武士の世が到来、勝利側の平清盛らが勢力を拡大していく。一方で藤原氏は政治への影響力を失っていくが、摂関家として有職故実の知的財産を武器に存続を図っていく。

歴史の証言

強装束・貴族のプライド
強装束・貴族のプライド

写真の肖像画は14世紀中頃に描かれたとされる「天子摂関御影」の中の関白・藤原忠通の肖像画です。この天子摂関御影に登場する院政期以降の天皇や貴族の肖像には、ある共通した特徴があります。
それは肩肘がぱりっと張った強装束(こわしょうぞく・剛装束とも書く)と呼ばれるスタイルで描かれていることで、これは院政期の鳥羽天皇や、当時「花園の左大臣」と呼ばれ洒落者だった源有仁らが好み、威儀のあるファッションとして貴族社会に広まったと考えられています。これ以前は柔装束(なえしょうぞく・凋装束とも書く)とよばれる、ゆったりとしたシルエットのスタイルが主流でした。
院政期は朝廷の権威が衰え、武士の力を借りずには世の中を支配できなくなってきた時代でした。強装束は糊で固められ着るにも人の手を借りなければならず、着心地の良いものではなかったと思われますが、姿形だけでも威厳を保とうとした貴族たちのプライドが生み出したファッションだったのかもしれません。
(番組ディレクター)

歴史の現場

歴史の現場 城南宮

平安遷都の際、国土の安泰と都の守護を願って平安京の南に祀られた宮です。
城南宮のある伏見区・鳥羽の地は平安時代後期、白河上皇の離宮・院御所が置かれた場所で、白河、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇と4代にわたって院政の中心となった都の副都心でもありました。
毎年春と秋に行われる貴族の遊び・曲水の宴が、平安時代の貴族文化を今に伝えています。

城南宮の地図を見る
平安時代


1051~62
前九年の合戦
1045
寛徳の荘園整理令


1018
藤原道長「望月の歌」を詠む
1011
一条天皇、崩御
966
藤原道長誕生
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平安 藤原氏はなぜ権力を持ち続けたのか

藤原道長の栄華

本放送:2月14日(火)22時00分~22時25分 再放送:2月21日(火)5時10分~5時35分、13時05分~13時30分

摂関政治の最盛期、藤原道長は権力を盤石なものにするため、女子を天皇家に嫁がせ姻戚関係を構築、つまり外戚となることで政治の強化を進めた。長女・彰子には文芸を愛する天皇の寵愛を独占するため紫式部など当代一流の作家・歌人を女房につけ英才教育を施した。教養を身につけた彰子は狙いどおりに天皇に愛され、9年後、待望の皇子を産む。
道長はまた、自分に取り入る中下級貴族をとりたて、貢ぎ物と引き替えに自らが握る人事面での優遇を図った。天皇と密接に結びつき人心を掌握した道長は前例のなかった摂政職の世襲にも成功、政権の要職は藤原氏で独占され、摂関藤原氏を頂点とする貴族の序列化を完成させた。そして、孫の後一条天皇に対し、三女の立后を果たした道長は「望月の歌」を詠み、我が世の春を謳歌する。内心ではその専横を批判してきた貴族も、道長の権勢の前には追従する以外の道はなかった。

歴史の証言

日記は語る・平安貴族人間模様
日記は語る・平安貴族人間模様

京都市にある陽明文庫には藤原道長直筆の日記、国宝「御堂関白記」が保存されています。この日記は道長が左大臣に就任した直後の長徳4年から20年以上にわたって綴られたものです。当時の貴族たちのあいだでは日記をつけることが一般的でしたが、プライベートなものと言うよりは業務日誌のようなもので、道長の日記も朝廷での日々の出来事が簡潔に綴られています。とはいうもの、中宮彰子が敦成親王を産んだ時には出産の様子を細かに記し、敦成親王が後一条天皇として即位した時には「天晴」と喜びを表現するなど、天皇との外戚関係構築に執念を燃やした道長ならではの心情も垣間見えます。
しかしこの日記には、かの有名な「望月の歌」の記述はありません。私たちが今日望月の歌の存在を知ることが出来るのは、同じ藤原氏の藤原実資が自分の日記に書いたからです。実資は権勢では道長に遠く及ばないものの、家柄や教養では負けていないという自負を何かにつけ記しています。なかには道長に見つかったらただでは済まなさそうな記述も多数登場します。道長が書かなかった歌のことを実資はあえて書いた。その意味することは一体何だったのか、想像するのも楽しいものです。
(番組ディレクター)

歴史の現場

歴史の現場 京都御苑(土御門第跡)

藤原道長の邸宅の一つ、土御門第は京都御苑の北東の一角にあります。道長の妻・倫子の父、源雅信の邸宅を道長が譲り受けたものです。三女・威子の立后を祝い道長が詠んだ「望月の歌」はここで詠まれました。三代にわたって天皇の里内裏となり道長の栄華を象徴する邸宅でもありました。

京都御苑(土御門第跡)の地図を見る
平安時代
969
安和の変 源高明を左遷



903
菅原道真、死去
901
菅原道真、太宰府へ左遷される
897
菅原道真、権大納言に昇進
894
遣唐使派遣中止
887
宇多天皇即位
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平安 藤原氏はなぜ権力を持ち続けたのか

権力独占への道

本放送:2月21日(火)22時00分~22時25分 再放送:2月28日(火)5時10分~5時35分、13時05分~13時30分

9世紀後半、関白に任命された藤原氏は、任命書の文言にけちをつけ宇多天皇に謝罪させるという事件を起こし、貴族社会にその力を思い知らせることとなった。宇多天皇は藤原氏を警戒、親政を行い、学者である菅原道真を抜擢した。道真は寒門(身分の低い)の出であったが天皇の信任を得て最高権力者・藤原時平に次ぐ地位を獲得する。しかしその急激な出世をねたむものが多く、大臣たちのボイコットや同僚からの辞職勧告にあう。そこで時平は貴族社会の世論を味方につけ、道真を「天皇を廃し娘が生んだ親王を皇位に就けようとした」として左遷する。この後、時平の跡を継いだ弟・忠平の時代に藤原氏の勢力は不動のものになり、摂政・関白が常に置かれ藤原氏がその官職に就くようになる。さらに藤原氏は天皇との外戚関係を独占する道を歩む。

歴史の証言

歴史が必要とした悪役・藤原時平
歴史が必要とした悪役・藤原時平

京都の北野天満宮には、その由緒を記した絵巻「北野天神縁起」が伝わっています。
雷神に姿を変え都に祟りをもたらす菅原道真と太刀をもって雷神にたちむかう藤原時平が描かれているのが国宝の承久本(1219年)。それ以外にも弘安元年(1278)作成といわれる弘安本が伝わっています。
この弘安本には承久本にはない記述がいくつも登場します。たとえば、時平が道真を讒言するくだりは承久本ではただその事実のみを記していますが、弘安本では皇位転覆を謀ったと理由まで記されています。これはおそらく天神信仰が広まるにつれそのディテールまで記す必要が出てきたからではないかと思うのですが、道真左遷と同時代の歴史資料には皇位転覆はおろか讒言したという記述さえありません。
しかし道真の死後、道真を慕う人たちだけでなく藤原氏の人間さえも、道真が無実の罪で左遷されたと考えていたことは様々な資料、研究から明らかになっています。道真に対する同情と懺悔の思いが時平を希代の悪役に変えていったのではないでしょうか?
(番組ディレクター)

歴史の現場

歴史の現場 北野天満宮

平安時代中頃の天暦元年(947)、京都に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが、神殿を建て菅原道真を祀ったのが始まりとされ、後に藤原氏によって大規模な社殿が造営されました。
道真の命日の毎月25日には「天神市」が開かれ、京都市民には「天神さん」の愛称で親しまれています。

北野天満宮の地図を見る
平安時代
884
藤原基経、関白となる(関白の始め)

866
藤原良房、人臣初めての摂政となる
842
承和の変


810
藤原冬嗣、蔵人頭となる



794
平安京遷都
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平安 藤原氏はなぜ権力を持ち続けたのか

摂関政治の誕生

本放送:2月28日(火)22時00分~22時25分 再放送:3月6日(火)5時10分~5時35分、13時05分~13時30分

794年の平安遷都。ところがこれに反対する勢力が天皇家の中でくすぶっていた。嵯峨天皇はこの動きを制し、藤原冬嗣を側近に抜擢、さらに天皇として初めて娘を冬嗣の子・良房に降嫁させた。天皇家の娘と婚姻関係を結んだ藤原氏は、並行して外戚関係の構築にも務める。天皇家と強力なパイプを築く藤原氏は、政権の「ミウチ化」を推し進めていく。858年、良房は孫の清和天皇を9歳で即位させ、太政大臣として政治を後見するようになる。そして866年、応天門炎上を機に他の貴族を失墜させ、人臣として初めて摂政に任命される。これにより藤原氏による摂関政治の扉が開かれていく。

歴史の証言

日の当たらなかった弟・藤原良相
日の当たらなかった弟・藤原良相

昨年12月、京都市のJR二条駅のすぐそばで、人臣初の摂政となった藤原良房の弟・藤原良相の邸宅跡が発掘されました。邸宅跡からは白磁や青磁といった海外からの高級輸入磁器や水晶の碁石、良相の姉で当時の太皇太后・藤原順子にかわいがられたことを物語る墨書土器などが出土しました。
藤原氏は真夏と冬嗣、時平と忠平、道隆と道長に見られるように、弟の方が成功するパターンが多いのですが、良相も文徳天皇、清和天皇の二代にわたって娘を嫁がせ外戚関係を築き、また政治家としても民のことを考える有能な人物だったそうです。
それにもかかわらず良相は応天門の変の対応を誤り事実上失脚してしまいます。その背景には、兄・良房が良相の存在を疎ましく思っていたことがあったと言われています。権力に対する執着は兄・良房が上回っていたのかもしれません。
(番組ディレクター)

歴史の現場

歴史の現場 平安神宮

平安神宮の社殿は、明治28年に平安遷都1100年を記念して開催された内国勧業博覧会の会場として建てられ、平安京大内裏・朝堂院の建物を8分の5の縮尺で再現しています。正門の応天門は866年に炎上した応天門を、拝殿は朝堂院の正殿である大極殿を模しています。

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