この記事は2012年に取材し、所属も当時のものです。

大震災とNHK 東日本大震災から私たちは、いったい何を学んだのだろうか。被災地復興のために、もっともっと何かできることがあるはず。近未来に起こると言われている巨大地震に備えて、何ができるのか。大震災とNHK、問われているのは公共放送としての存在理由です。
報道 報道も技術も総務も全NHKが大震災と戦っていた。
2011年3月11日14時46分 東日本大震災発生
2011年3月11日14時48分 全8波で1週間24時間体制の地震報道をスタート
総合、BS1、ラジオ第1[地震関連ニュース]教育テレビ、BS2、FM[安否情報・生活情報]
その時、私は。
気仙沼報道室初代記者(震災時は仙台局勤務)道下 航 見たこともない光景が広がっていた震災直後の仙台放送局。天気カメラを見ていた職員たちが津波の到達を確認し、何か声を上げていたのを覚えています。すぐにデスクから気仙沼行きを命じられました。市内は見たこともない大渋滞で、気仙沼に着いたのは5時間後の午後9時。真っ暗な中、高台に避難している人たちを取材しました。
翌日明るくなると見たこともない光景が広がっていました。何メートルもの高さのがれきが何キロにも渡って、見渡す限り町を埋め尽くしています。空襲にあったように燃え続ける町、焦げた匂い。ヘリコプターで救助される人々。はだしで歩く親子連れ。家族の安否を確認する列。
この惨状を少しでも全国に伝えよう、何か被災者に役に立てることはないだろうかという思いで、8日間気仙沼に滞在して取材を続けました。
その時、私は。
避難所暮らしの郵便配達員が再開した“日常”の配達 被災した人たちを元気づけることができないだろうかと考えていた時、寝泊まりしていた避難所にいた、ある郵便配達員と知り合いました。「津波から郵便物を守り、避難所近くで保管していること」「必ず郵便物を届けたいという強い想い」を話してくれました。大震災から20日目、志願して行った2回目の応援取材で郵便配達が再開したことを知り、取材を申し込みました。取材を進めるうちに、「故郷を離れた息子からの手紙」や「孫の合格祝い」など、内容のある手紙を期待した自分が恥ずかしくなりました。届けられた手紙は、ダイレクトメールのチラシや請求書がほとんどでしたが、皆さん本当にうれしそうに手紙を受け取っていました。スーパーの週末セールのチラシに載っているマグロの写真を「おいしそうだね」と言って、じっと見つめるおばあちゃん。セールの日付は3月11日。昔を懐かしむような表情が印象的でした。郵便配達員が届けた1枚のチラシは、震災以前の日常を思い出させてくれ、一瞬でも被災したことを忘れさせてくれる、そんな贈り物になったのだ
映像取材部(報道カメラマン)大沼達也 「私を撮影して!」避難所で被災者から頼まれた 南三陸町にたどり着いたのは震災翌日の正午過ぎ。発災直後の午後4時に渋谷の放送センターを出発してから、20時間余り経っていました。10日間避難所に寝泊まりし、町内のどの地域がどのような被害にあっているのか撮影を続け、映像を伝送することの繰り返しでした。前の年まで仙台局に勤務していたので、南三陸町には何度も訪れたことがありました。かつて町役場の外観を撮影したところに立つと、視界を遮るものが何一つなく、とても現実のこととは思えませんでした。避難所に行くと、「私を撮影してほしい」「母親を撮影してください」と多くの人から頼まれました。当時、携帯電話は全く通じなくて、テレビに映れば、親戚や知人に「自分が無事だ」と伝えることができる。伝言板代わりだったのでしょう。それからは、ワンカットでも多く、できるだけたくさんの人を撮影するように心がけ取材しました。
その時、私は。
報道局 制作・回線部 一色 麻衣 津波映像を使わずに編集 当時勤務していた名古屋局から初めて盛岡局に入ったのは、震災から2週間後の3月26日です。当時は各地で撮影された津波の映像を繰り返しニュースで放送していました。それから毎月一週間ずつ被災地の放送局に出張し、ニュース制作を続けましたが、次第に被災者の方々から「津波の映像を見ると当時の恐怖がフラッシュバックする」「子どもへの影響を考えてほしい」と言った声が相次ぐようになりました。津波被害の実態を伝えるのに、当時の映像が本当に必要なのか、静止画や津波が引いた後の映像だけでも十分なのではないか、毎回デスクと相談しながら編集しました。
震災にこだわり続けたい 震災報道には、私がNHKにいる限りずっと関わっていかなければならないと思います。私は今年東京に異動し、スポーツニュースを担当することになりました。一見すると震災報道から遠い部署のように思えますが、被災地で開催されたプロ野球の試合や、故郷の復興に取り組むスポーツ選手の取り組みを放送する機会もあります。「いま自分のいる場所から、どのようにして震災報道につなげることができるのか」。子どもがいなくなって探し続けるお母さんや、避難所をまわり親族を探す被災者の映像を編集した日々が、私に問い続けています。
その時、NHKは。
2,000を超える世界のテレビ局に映像を提供「やっと電話がつながった。CNNで映像を使っていいですか?」地震発生直後、CNN東京支局は映像使用の許諾を得るために、NHK国際報道プロジェクトの職員たちに電話にかけ続けたという。「映像が使えるぞ!」東京支局からの一報はすぐにCNN内にメールで周知されました。CNN以外からも問い合わせは殺到し、映像使用を許可し続けました。さらにNHKからも海外メディアに次々と連絡をとり、映像使用を許諾し続けました。米ABC 、英BBC、中東アルジャジーラ、ロイター、APなどでNHKのニュースをそのまま同時に放送・配信するようになりました。ニューヨークタイムズなど海外の新聞社が紙面上で静止画として使用することも認めました。極めて異例の対応ですが、把握できただけで、2,000を超えるテレビ局、数千の新聞社にNHKの映像が提供されました。「日本のこの現状を世界に伝えなければ」「現場の同僚たちの情報・映像・思いを世界に届けたい」「海外ジャーナリストたちの伝えたいという思いを大事にしたい」という考えから、全世界へ映
像の配信を続けました。
震災報道を支えた仙台局の2つの技術
報道を視聴者にお届けするためには「取材現場から放送局まで映像・音声を送る技術」と「放送局から送信所などを介して視聴者に放送を届ける技術」の両方が機能しなければなりません。大震災では、さまざまな設備や通信回線が甚大な被害を受け、広い地域で停電が発生したため電源喪失の危機にも見舞われました。震災直後は携帯・固定電話もつながらず道路も寸断され、設備の被害状況の確認もままならない状態でした。また最も情報を必要としている避難所にテレビ受信機が無いという状態も続きました。仙台放送局では、技術部職員が一丸となって、震災の状況を被災地の視聴者に届けるために、必死で放送を支え続けました。
システムソリューション
放送ネットワーク技術
番組制作技術
放送技術研究
あの時、放送はこうして確立された
仙台技術部 専任エンジニア佐々木 徳昭 「現場から映像・音声を送る」技術NHKでは、地震、津波の映像をいち早く視聴者にお届けするために全国各地の沿岸部に、遠隔操作できるロボットカメラを設置しています。今回の震災報道の津波映像の多くも、ロボットカメラによるものです。
ロボットカメラの電源は、停電が発生するとバッテリーなどのバックアップ電源を持っているものでも2,3時間しか持ちません。そのため、特に重要と思われるロボットカメラについては、震災の2,3日後に発電機と遠隔制御するための機材を持ち込んで復旧させました。また、ロボットカメラの数に比べて東京の放送センターに映像を送るための素材伝送回線の数には限りがあるため、どの映像を送るのか優先順位をつけるのに苦労しました。
一方で、通信衛星で映像を伝送できるCSK(衛星伝送中継車)が、ピーク時には20台近く全国の放送局から東北沿岸部に集結しました。余震が続くなか安全を確保しながらどこにCSKを配置するか、通信衛星回線も限られているためどのCSKの映像を東京の放送センターに送るのか、安全確保と回線確保の調整が続きました。
震災当日の夜、仙台駅に多数の避難者が集まっているという情報が入り、駅前からの中継が決まりました。しかし、仙台局のすべての車両は取材で出払っており、タクシーも手配不可能な状況だったため、倉庫の奥からリアカーをだして、FPUと呼ばれる映像無線伝送装置などの中継機材を運び、仙台駅の状況をなんとか伝えることができました。
その後、ロボットカメラの被害状況が分かるようになって、本格的な復旧に着手しました。沿岸部のロボットカメラでは、取り付けていた高さ10m以上のコンクリート柱ごと流されてしまったものもあり、大津波でも流されない少し高台の場所に移設しました。さらに、停電になっても長時間の使用に耐えられるようにバッテリーをより大容量のものに変更し、放送局から遠隔制御する際に使用する回線も通常の電話回線だけではなく、衛星電話の回線も利用できるように変更しました。
仙台技術部 送受信担当デスク佐々木 剛 「視聴者に放送を届ける」技術 送信所には「親局」と呼ばれる一番大きな送信所と、その電波などを受けて県内一円に放送を中継して届けるための「中継局」があります。地震発生後、仙台駅近くの山の上にある宮城県の親局で、大型の高圧トランス(変圧器)の火災が発生しました。親局の電源は地震発生時に自家発電装置に切り替わり、放送電波が途切れることはありませんでしたが、このままでは商用電源に戻せないため、一刻も早く復旧させる必要がありました。偶然にも、NHKのほかの設備で使う予定であった高圧トランス2台が静岡県にあり、接続用のケーブルなど工事資材もあわせて搬送することになりました。しかし、震災後の道路状況が全くわからなかったため、東北自動車道経由の太平洋ルートと関越自動車道経由の日本海ルートの2ルートで同時に運ぶことにしました。結果的に、日本海ルートのほうが早く、震災翌日の3月12日の晩に到着し、13日早朝にはトランスの取り替え作業を完了し、商用電源に戻しました。
中継局は、停電すると短いもので10時間、長いもので2、3日くらいしかバックアップ電源が持ちません。それでも、中継局から放送電波を出し続けるために発電機を持ち込んで、NHKの関連会社とも協力しながら、燃料が無くならないように24時間体制で補給し続けました。
震災対応で最大の問題点は、送信所の電源確保でした。今回の経験から、停電しても1週間以上放送を出し続けられるような設備にできないか、さまざまな観点から検討し、対策を進めています。 「視聴者にテレビとラジオも届ける」 震災当初、多くの避難所はテレビもラジオもない状態でした。このため電機メーカ各社からテレビ750台、経済産業省からラジオ1万台を提供していただき、避難所に配ることにしました。被災地域が広範囲のため、日本CATV技術協会のみなさんにも協力してもらい、およそ1カ月間で約400か所の避難所に500台近くのテレビを取り付け、電気が通じていない避難所を中心に9000台近くのラジオを配ることができました。テレビがあると人々が自然に集まり、今まで静かだった空間にいろいろな会話が始まって、避難所の空気が和むのを感じました。
その時、私は。
報道・総務部 加藤 史彦 全国から集結したスタッフを支える 地震発生時、放送センターの1階にいた私は大きな揺れを感じ、階段を駆け上がって5階の居室に戻ると、テレビの画面には「震度7 宮城北部」の文字。宮城出身のため、すぐに上司から仙台局行きを命じられ、地震発生から約1時間後には記者とともに、食料、ヘルメット、防寒着などを詰めん込んだ災害対策車で現地に向け出発しました。15時間あまりをかけてようやく到着した仙台は、人も車もまばらで完全に機能を停止し、これまで見たことのない異様な現実を前に思わず絶句しました。
現地入りしてからの3日間はほぼ徹夜で、総務や経理などの職員が一丸となって次から次に全国から応援に入る職員の食料や宿泊場所の確保、そして車両・燃料の確保に奔走しました。被災したホテルやタクシー会社から、施設の提供などにご協力いただいたことに心から感謝し、NHKに寄せられる期待や信頼を裏切ってはならないと強く感じました。
未曾有の災害に直面して、災害報道の前線を支える仕事の重要性を改めて実感し、生まれ育った故郷・東北の復興が1日も早く進むよう、これからも放送を通じて微力ながら支えていきたいと思っています。
その時、NHKは。
あらかじめ計画していたことでもないのに、驚くほどの早さでNHKニュース映像がインターネットで同時再配信されました。NHK職員を含めて、多くの人の「いま被災地ではテレビを見られない人がいるんじゃないか。だとしたら少しでも早く多くの人々に震災情報を伝えるにはどうしたらいいのか」という思いがつながり、その場でできる最大限のことを行った結果だと思います。もちろん平時ではこうした同時再送信は認められていません。今回のことは、緊急時に本当に情報を必要としている人たちに、どうしたら届けることができるのか、NHKに突きつけられた大きな課題でもあります。
「少しでも早く情報を伝えたい」という思いがつながったインターネット配信
3月11日(金)
14時46分 東北地方で震度7
14時50分 大津波警報
15時02分 各局災害情報ページ開始
15時40分頃 オンライントップ緊急ページ
18時過ぎ 同時再送信 NHK急きょ公式に承認
19時40分 総合放送 ニコニコ生放送開始
21時30分 総合放送 ユーストリーム配信開始
3月12日(土)
0時40分 ラジオ第1放送 ライブストリーミング開始
3月13日(日)
0時04分 総合放送 ヤフーライブストリーミング開始
0時30分 WORLD TV ユーストリーム配信開始
3月14日(月)
19時30分 WORLD TV Nico Nico Live開始
23時05分 Eテレ ヤフーライブストリーミング開始
3月18日(金)
24時00分 Eテレ ヤフーライブストリーミング終了
3月22日(火)
20時00分 ラジオ第1放送 ライブストリーミング終了
3月25日(金)
24時00分 総合放送 ライブストリーミング終了
WORLD TV ライブストリーミング終了
番組 いろいろな番組での特集が始まる。
番組を通して伝える
ETV特集シリーズ 「ネットワークでつくる放射能汚染地図」 放射能汚染の実態をいち早く警告 放射能が同心円に広がるのではなく、まだら状に拡散していることや、高濃度の汚染されたホットスポットがあることを取材・調査で明らかにました。情報が届かずに残されていた住民にいち早く警告を発しました。放送は原発事故から2ヶ月後です。政府、東京電力から放射能汚染のきちんとした報告はまだありませんでした。30代、40代の子育て世代の女性を中心に、科学者と取材チームの調査、発見は大きな反響を呼びました。その後も除染、海洋汚染などの問題を住民目線で取り上げ、シリーズで放送。
あの日を忘れない。震災を語り続ける。
番組を通して伝える
シリーズ東日本大震災 生活再建や産業の復興を阻む壁は何か、被災地の復興への取り組みを取材した「復興はなぜ進まないのか」。被災者の鎮魂への思いと絆にスポットを当てた「東北 夏祭り」。震災から半年が経過しても生活再建が一向に進まない「追い詰められる被災者」。子どもたちが希望を持って生きていける社会について考える「震災遺児1500人」。震災直後からリスク覚悟で地元企業の再生に全力で取り組む信用金庫に密着した「魚の町は守れるのか」。震災から1年以上経っても数々の問題を引き起こし続ける「がれき2000万トンの衝撃」など、月1回のシリーズで放送。
原発事故についても、なぜ深刻化し、放射能汚染はどのように広がっていったのか。徹底ルポと長時間討論で国内だけでなく海外も含めて原発の今後を掘り下げて考えた「徹底討論 どうする原発」。政府や東京電力の政策を歴史的に検証した「安全神話」。事故原因に総力で迫った「メルトダウン」、そして「メルトダウンⅡ」。原発から20km圏内の海の本格的な調査を実施した「知られざる放射能汚染」など、さまざまな角度から検証している。
番組紹介ページを見る
番組を通して伝える
番組を通して伝える 原発事故以降、日本のエネルギーをどうしていくのか「どう選ぶ?わたしたちのエネルギー」。原発事故で広がった食への不安と新しい取り組みを紹介する「食の安心をどう取り戻すか」。国民はどこまで負担を分かち合い支え合っていけるのか「税から考える 日本のかたち」。なぜ日本にはリーダーが育たないのか有識者と市民が徹底討論した「生み出せ!危機の時代のリーダー」など、「震災後の日本はどうあるべきか」をシリーズで放送。
番組などを通して被災地復興を支援する。
番組などを通して被災地復興を支援する。
東北発☆未来塾
東北発☆未来塾 東北の未来を担う若者が、さまざまな業界で活躍する講師から“未来を創るチカラ”を学ぶ塾です。テーマは観光や街づくりから教育、ボランティアなどさまざま。1テーマを4週に分け、じっくり、そして、しっかりと学びます。未来への芽も少しずつ育ち、被災地各地で新しい取り組みが始まっています。 番組紹介ページを見る
番組を通して伝える
TOMORROW beyond 3.11 日本を愛する著名外国人が震災後の日本を旅して、明日の復興に向けて歩み始めた日本の姿を伝えるドキュメンタリー&紀行番組。復興に向け立ち上がる人々や、未来に向かって進もうとしている人々に焦点をあてます。今の日本の姿を伝えることで、日本への誤解や風評被害の払拭も目指します。
TOMORROW beyond 3.11
番組を通して伝える
きらり!えん旅
きらり!えん旅 東北応援紀行 歌手やタレントが東北を応援し、その魅力を再発見する旅番組。地元の人たちが「ふるさと自慢」を紹介、海山の味覚や絶景、歴史に培われた芸能などを披露します。仮設住宅なども訪ね、被災者たちとふれあいます。締めくくりに旅人の歌手やタレントが歌や話芸などで、地元の人たちに元気を贈ります。
災害対策番組、被災地支援活動 災害に備える。被災地の子供を元気づける。
番組を通して伝える
MEGAQUAKEⅡ巨大地震シリーズディレクター:植田和貴 伝えたかったことは「3.11以後の日本で生きる覚悟」 津波、地震の被害に関する情報も重要ですが、なぜこのような巨大地震が発生し巨大津波が発生したのか、そのメカニズムをしっかり検証し、「わかりやすく伝える」ことも非常に重要なのではないかという思いから、この番組の企画はスタートしました。
地下世界を知る重要なカギとなったのは、3.11に記録された膨大なデータです。科学者はこのデータを使ってシミュレーションを行い宮城県の沖合で始まった地震がマグニチュード9に拡大するプロセスを明らかにしていきます。「わかりやすく伝える」ためには、「地下世界の可視化」が不可欠です。CG担当者と相談して何度も試行錯誤を繰り返し、誰もやったことのない巨大地震発生のメカニズムのCG可視化にチャレ
ンジしました。
チームで取材を進めていくと、「うれしくない事実」も明らかになってきました。3.11の地震の結果、日本の地下環境が以前とは大きく様変わりして、首都直下型地震や火山の噴火のリスクが上昇していることがわかってきました。もちろん起きてほしくはないですが、もし次にどこかで巨大な地震や津波が起きたとき、その発生メカニズムを知っていれば助かる可能性が高くなるのではないかという思いも強くありました。このシリーズで最も伝えたかったことは、地震を知り地震と向き合い「3.11以後の日本で生きる覚悟」です。
被災地を応援する
被災地の子どもたちに笑顔を!大人に元気を! 今回は「みんなのところに行くよ」というイベントです。被災地で生活する子どもたちに、少しの時間ですが、ちょっとでも近くに寄り添い元気づけたいと、現場でもいろいろと試行錯誤しながら、子どもたちに心から喜んでもらうことを最優先にしてきました。普段、番組やキャラクターを応援してくれている子どもたちに恩返しするのですから。「子どもたちの心からの笑顔は、大人を元気にする力の源です」そういうご意見もたくさんいただきました。多くの被災者の方々に喜んでいただき、あらためてNHKで働いていることの責任感と誇りを感じています。今年は内陸部を含めて、より広範囲で実施しています。これからどうするのか、今もいろいろと検討中です。形は変わるかもしれませんが、NHKの被災地支
援は、これからも続きます。
視聴者事業局 事業部 本木 裕治 地元目線で始めた 被災地応援イベントキャラバン 震災直後から、NHKのコンテンツで少しでも元気になってもらいたい、何かイベントによる被災地支援はできないのか、という意見が数多くありました。いま行って本当に被災者の方々に喜んでいただけるのだろうか。一方的な押し付けの支援にならないだろうか…。仙台局などに状況を確認してもらい、被災地の生活が少し落ち着いたタイミングを見計らって実施することにしました。自分たちが被災者でもある地元の放送局の職員が、復興状況、生活の落ち着き具合も一番わかっていることですから。東京目線ではなく、あくまでも被災地目線で行こうと。2011年10月から幼稚園・保育園を中心に、NHKの番組キャラクターによる被災地応援イベントを巡回しています。一年目は、深刻な被害を受けたにもかかわらず、道路事情などもあって支援が行き届いていない地域や交通アクセスの悪い沿岸部を中心にイベントキャラバンを実施しました。 参加者の方々からいただいた声
小さな町の、小さな幼稚園の叫びに誰が気づいてくれるでしょう。忍たま乱太郎の「勇気100%」に本当に勇気づけられ元気づけられました。
最近は、外で遊ばせていないので、子どもが何をするにしても「思いっきり」ができておらず、思いっきりゲラゲラ笑い、夢中になっている顔を見て、思わず涙が出てしまいました。
こうした貴重な体験ができるのは、震災があったからこそ。きっと子どもたちは助けられていることを忘れることはないと思う。いつか自分たちが人を助ける時がきたら、きっとこの子どもたちは真っ先に助けてくれると思います。
離れ離れになった当時の近所の人がイベントに来たことで、数ヶ月ぶりに再会したりするんです。楽しむだけでなく、再会の場を提供する意味もあるんですよ。NHKさん、また来てください。
明日へのメッセージ。
メッセージ
気仙沼報道室初代記者(震災時は仙台局勤務)道下 航 気仙沼のいま、そしてこれから希望も課題も 震災報道が一段落した後も、仙台での担当の仕事と並行して、月の半分以上は気仙沼で取材を続けていました。壊滅的な状態から一歩一歩立ち上がろうとする町と皆さんの姿を見ているうちに、どんどん引き込まれてもっと気仙沼で取材したいという思いが強くなり、上司に希望を出しました。今年の5月に気仙沼専任になり、7月25日に正式に発令が出て気仙沼報道室の初代記者になりました。
新しい水産工場ができたとか、町の人たちが明るくなるような希望を持てるようなニュースは、どんどん発信したいと思っています。しかしそれと同時に復興への課題を全国に発信していかなければならないと強く思っています。地震と津波で地盤沈下した地域の再建など、国の支援なくしてはできない課題が多いのも事実です。ニュースは新しいことを追いかけがちですが、復興が進まないという現実も掘り下げて取材していきたいと思っています。
メッセージ
アナウンス室 武田真一 より多くの命を救うために ~公共放送として~ 「放送で命を救う」―そう信じて、以前から緊急報道にあたってきました。地震・津波報道のマニュアルを作ったり、研究会を立ち上げたり、訓練のためのシミュレーターも開発してきました。
しかし、3月11日。黒い津波が緑の田園を塗りかえて行く。家やクルマの中にはおそらく人がいる。何を呼びかけたらいいのか。どうしたら救えるのか。「住宅や建物が、津波で流されています。…畑も今、のみ込んでいきます。…仙台市の、名取川の河口付近の様子です」私は映像描写のアナウンスを続けながら、本当に言うべき言葉が見つかりませんでした。生と死の境に立たされた人たちを前にして何もできない、無力感に打ちのめされていました。
その後、私たちは災害の際の伝え方をもう一度考え直すことにしました。まずは、いち早く逃げてもらうための「放送表現の改善」。未曾有の災害時に限ってアナウンサーの口調を「避難してください」ではなく「避難すること!」と強い命令調に変えるようにしています。また、大きな文字で「すぐ避難を」と表示することも考えています。テレビを視聴した人に瞬時に「ただごとではない」という印象を持ってもらうための工夫が絶対に必要です。南海トラフ付近で起きる巨大地震や、首都直下地震は必ず来るという前提のもとに、具体的に行動していくことが公共放送としての義務だと考えています。
報道・国際報道プロジェクト 記者
草場 武彦 世界のメディアから賞賛されましたが私たちは全く満足していません 平成23年度に開催された、欧州放送連合EBUが主催するテレビ報道の世界最大の会議「ニュース・エクスチェンジ」でプレゼンテーションする機会が与えられました。大震災の報道に対して世界の報道機関の関心は高く、多くの賞賛の言葉をいただきました。
英BBC
あの日の報道ほど、公共放送の価値を知らしめたものはない。受信料で支えられた放送機関が、国家的な危機に際して、公共に果たすべき任務を真摯に果たしたのである。それは視聴者に、生きるために何が必要かを説明し、情報を伝えることであった。
米CNN
どうしてあのような迅速な震災報道を行うことができたのか。どういう教育をしたら強い使命感を職員に持たせることができるのか。自分や家族・友人も極めて厳しい艱難な状況にある中で、現場で取材を続けたNHK職員の意識の高さに敬意を表する。
米ABC
しかし、NHK職員は誰一人として、今回の大震災の報道に満足していないと思います。公共放送の使命、報道の役割は、国民の生命・安心を守ることだと考えているからです。地震が起きてから津波が来るまで約30分の時間がありました。そして多くの方が地震そのものではなく、津波で亡くなられています。30分あればもっと多くの命を救えたのでは。NHKは、大震災の貴重な体験をふまえ、災害時の報道体制を見直す作業を進めています。