東京藝術大学130年の歴史 バイオリニスト学長・澤和樹の挑戦 (後編)

ざっくり言うと
名器「グァルネリ」がつないだ縁
東京藝大を「世界一の総合芸術大学に」を目標に
2020/01/02 ラジオ深夜便 明日へのことば 「東京藝大130年、これからの仕事」澤和樹さん(バイオリニスト・東京藝術大学学長)

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2020/01/02

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東京藝術大学の10代目の学長・澤和樹(さわ かずき)さん。東京藝大へ進学し、大学院を卒業後、イギリスに留学しますが、そこでの生活は順風満帆なものではありませんでした。当時を振り返り、今、思うこととは。さらに、これからの目標も伺いました。


藝大へ進学、妻との出会い

――東京藝大入学後は海野義雄(うんの よしお)さんに師事。1974年、第43回の日本音楽コンクールで3位を受賞したほか、数々のコンサートなどですばらしい成績を残しています。

澤さん: その時期に藝大に入ってよかったと思うのは、周りの友人たちのレベルがすごく高かったこと。もちろん先生から教えていただくことは大きかったですけれども、ある意味ではそれ以上に周りの同級生とか先輩とか後輩も含めて、学生同士での刺激のしあいというのはすごく大きかったと思うんですよね。

――奥様の蓼沼恵美子(たでぬま えみこ)さんとも学生時代に出会っていらっしゃるんですよね。

澤さん: 私が大学に入った年、彼女が藝高3年生のときに、たまたま同じクラスの後輩が卒業試験で弾くので聴きに行ったんですけど、そのときに伴奏をしていて、「高校生で伴奏のすごく上手な子がいるな」と思ってはいたんです。
それで大学4年生のときに、初めて故郷の和歌山で本格的なリサイタルをすることになったときに、共演ピアニストのことで師事していた海野先生にご相談したら、「蓼沼さんがいいんじゃないの」と、海野先生から彼女へも言ってくださったので、それで意を決して「自分のデビューリサイタルのピアノをやってもらえないか」と。ですけど、見事に断られました(笑)。
彼女はいわゆるアンサンブルもの、伴奏したりするのがすごい好きだったんですけども、ちょうど大学3年生になって、その年の日本音楽コンクールに初めてチャレンジしようと準備を始めたところでした。この機会を逃して4年生になると卒業試験とかもあるので「今年はコンクールに懸けたいから」ということであっさり断られました。そこで蓼沼が習っていた田村宏先生に直訴しまして、先生が「君はコンクールをやるより、澤のリサイタルのピアノをやったほうが勉強になるよ」って言ってくれて、引き受けてくれることになったんですよね。それが最初の本格的な共演ですね。

――コンクールのほうはどうなったんですか?

澤さん: 蓼沼はそのコンクールを諦めました。初めてのリサイタルの伴奏とはいえ、曲の中にバイオリンとピアノのソナタ、モーツァルトとかブラームスとか、かなりピアノの大変な曲が入っていましたので、とても二股は無理だということで、コンクールを結局諦めさせてリサイタルをやってもらうことになってしまったので、まぁ、責任を感じてます(笑)。

N響のコンマスを蹴って、イギリスへ留学

――大学院を卒業して、NHK交響楽団のコンサートマスターの就任が決まっていたと聞いてますが、これを蹴っているんですよね?

澤さん: 実はN響のコンサートマスターでいらした田中千香士(たなか ちかし)さんが、翌年の4月から藝大の常勤になられることがほぼ決まっていて、その後釜として私が候補に挙がって、大学院2年生の夏休みぐらいから学生契約で、大学院を修了したらコンサートマスターになる、という候補生的な感じで入ったんです。
周りから見ればやっぱりすごい話で、「新卒でいきなりN響のコンサートマスター」っていうと、“高校野球で甲子園で活躍して、プロ野球の四番打者にいきなり”っていうぐらいのことだとは思うんですけれども。そういう状況でN響には入ったんですけど、やっぱりまだまだ自分の力がそういうところには及んでないな、っていうのを実感しながら弾いてましたし、すごくプレッシャーがありました。だからそのうちにいろんな人から「だんだん弾き方が小っちゃくなっている感じがする」と言われたり。

そうこうしているうちにN響のソリストとして来日した、ジョージ・パウクというハンガリー出身でロンドンに住んでいたバイオリニスト、N響のメンバーですら誰も知らなかったぐらい無名な人だったんですが、1回目のリハーサルのときに、驚くほどすばらしい演奏だったんですね。日本で誰も知らないようなバイオリニストで、こんなに感動させてくれる人がいるんだ、と。そういうこともあって、「ちょっとこのまま日本にいていいのかな」ってことも思い始めたりしていました。
そのリハーサルのときに、パウクさんのほうから私に声をかけてくれて。というのも、たまたま手に入った「グァルネリ」っていうすごい楽器を持っていたので、「お前、何で若いくせにそんなすごい楽器を持ってるんだ」っていう話になって、彼はストラディヴァリウスを持っていたので弾き合いをしてみよう、っていうような感じで誘ってもらって、練習が終わってから一緒にホテルに行きました。彼の楽器を借りて弾いたり、彼が私の楽器を弾いたりしているうちに、「まだ若いのに1度もヨーロッパで勉強してないんだったら、そういうことも考えてもいいんじゃないのか」っていうようなことを言われたので、自分の力の足りなさも感じていたときでもあったので、そこで3か月ぐらい考えに考えて。「N響のコンサートマスターを蹴って行くことはないだろう」っていろんな方に反対もされましたが、1980年の4月からロンドンに行くことを決めました。
もともと留学っていうことに漠然と憧れてもいましたが、行くとすればドイツとかウィーン、あるいはパリとか、当時は結構アメリカに留学して成功している人が多かったですから、アメリカも含めて考えたりはしてましたけど、まさかイギリスのロンドンとは思ってはいなかったです。ただやっぱり自分が非常に感激したパウクさんに習えるんだったら、っていうことでロンドンを選んだわけですけどね。世界のすばらしい音楽市場でもありますし、習った先生もすばらしかったですけれども、妻と2人で年間100回ぐらい演奏会に通いましたね。そういう生活をできたのは最高でした。

当時すでに私は留学前にパリのロン=ティボー国際コンクールで4位ぐらいはとったりしていたんですけど、より良い成績を目指して国際コンクールにチャレンジするんだけど、全部予選でだめでなかなか結果が出ないってことで焦りを感じていたんです。パウク先生からも「せっかくいるんだから、きちっと基礎からもう一度やり直したほうがいいんじゃないか」ってことで、パウク先生のさらに先生にもあたるベラ・カトーナっていうやっぱりハンガリー人の方に見てもらうことになりました。その方は演奏家ではなくて本当に“教育者”なんですが、自分では国際コンクールでもそこそこの成績をあげたり、ましてやN響のコンサートマスター候補になったりっていうことでそれなりにプライドもあったんですけれども、その先生に見てもらって「やっぱり基礎ができてないから一からやり直さなきゃだめだ。音階と練習曲以外は一切やっちゃいけない、これから3か月は曲もやらないで、音階と練習曲だけ」って言われて(笑)。
本当に「ドレミファソラシド」をいろんなテンポやリズムを変えてやったりとか、そんなことはもう10年も15年も前に卒業しているはずだと思いながら、そういうことを一からやり直させられたんですね。当初はやっぱり、「こんなことをやりにN響やめてロンドンに来たわけじゃない」と思って、やっちゃいけないと言われている曲を内緒で練習したり、内緒でコンクールを受けたりしていたんですけど、やっぱり全然だめで、いよいよこれは基礎からやり直さなきゃだめだっていうことで、結局8か月くらいかかりましたけれども。
要はすごく無駄な力が入っていたんですよね。もっと若いころはそういう無理な状態で弾いても、ある種若さのパワーと運動神経でこなしていたようなことが、25、6歳とはいえ、だんだんプレッシャーも多くなるし、コンクールもチャレンジャー精神で無欲で受けていたころと違って、前に良い成績がある程度取れているから、より高いものを目指すってことがストレスになって、練習で弾けてたものが本番になると金縛りのようになって弾けなかったり、っていうことの連続だったんですね。そういうことだからもう観念して、カトーナ先生のおっしゃるように、しばらくは基礎に徹しようと。ただ、そういう気持ちになるまで半年以上かかりましたからね。それで精神的な焦りとかで十二指腸潰瘍になって、5キロも6キロも痩せたりとかしてました。
今思うと、もう60(代)半ばになって、その時期のトレーニングがなかったらもちろん弾けてないだろうなと思うんです。特に今のように大学の運営のこととかで大半の時間を取られるわけで。わずかの時間で土日の演奏会に間に合わせたりっていうようなことが今、何とかできているとしたら、やっぱりあのころ基礎に戻ったということがあったからだろうなと思ってます。 ヨーロッパの中の最も合理的なテクニックというのに、留学して初めて出会ったという感じもありますね。

「グァルネリ」がつないだ縁

――留学から1984年に戻り、東京藝大に迎えられました。先ほどのお話にもありました「グァルネリ」というバイオリンの音にほれ込んだと。

澤さん: そうですね。1978年に初めて当時のジャパンユースオーケストラのコンサートマスター兼ソリストでイギリスに行きまして、ロンドンでチャイコフスキーのバイオリン協奏曲を演奏する予定だったんですけれども、自分の楽器の調子が非常に悪くなってしまって、ロンドンの有名な楽器商を紹介してもらって、いい楽器を貸していただいて本番に臨んで、おかげさまで演奏会は成功に終わりました。その楽器を返しに行ったときにストラディヴァリウスやグァルネリ、アマティとか世界的な名器をいくつか弾かせてもらって、その中で特にグァルネリの音色に魅せられて。もちろん手に入れるのは無理だろうけど、もう恋に落ちたようになってしまって(笑)。
日本に帰ってから、出身校の桐蔭高校の前身の和歌山中学から数えてちょうどその年が創立100周年で、そこで弾かせていただいて、そのときに声をかけてくださった先輩にあたる方がすごく応援してくださる感じだったんですね。和歌山の大きな病院の院長さんもされているその方にグァルネリの話をしたら、お仲間何人かに声かけてくださって、「その楽器を共同で購入して、それをあなたが使えばいいじゃないの」っていう感じでやってくださって。ちょうど40年ぐらい前の話ですね。それでその楽器を持たせてもらうことになって。
パウク先生との出会いのときも、N響でコンサートマスターの隣で弾いていたんですけど、見る人が見れば目ざとく「これはただならぬ楽器だ」っていうのが分かって、先生のほうから近づいてきてくれたりとか。そのあともいろんな場面で、“この楽器を持っているからこそ”こんな人と話ができたんだっていうようなことが何度もあったんです。だからすごく出会いをつくってくれたと思いますね。まだ力が伴わないときは「いい楽器を持っている割には……」っていうようなことを言われたこともよくありましたけど(笑)。ようやく40年たって、この楽器の持ち味を聴いている人に届けられるようになってきたかなと思う、きょうこのごろです。

東京藝大を「世界一の総合芸術大学」に

――娘さんも演奏家として活躍されています。

澤さん: はい。澤亜樹(さわ あき)といって、年は33歳くらいになっていると思いますけど。藝大の附属高校と、藝大、大学院も行って、途中から2年間、英国の王立音楽院の大学院に行きました。今は東京藝大の藝大フィルハーモニア管弦楽団という、プロフェッショナルなオーケストラのコンサートミストレスを務めています。実は娘は6歳ぐらいからバイオリンをやっているんですけれども、私は教えたことがほとんどないんです。
初めは家内がピアノを仕込もうと思ってやっていましたけど、なかなか親子って難しくて、決裂しまして(笑)。それを見ていたので、「今度はバイオリンも私が教えて、バイオリンまで嫌いになっちゃうとまずいな」と思って。私もずるくて、“厳しい先生”でいるよりは“優しいパパ”でいたほうが得なので。私の元生徒さんにも教えてもらったりして。
娘の場合は小学校ぐらいのときはもう全然、「これはとてもサマにならないな」と思って、いわゆる趣味で好きで続ければいいな、ぐらいの感じで見ていたんですけれども、中学に入るちょっと前ぐらいから山本直純(やまもと なおずみ)さんがやってらしたジュニア・フィルハーモニックっていうオーケストラに入るようになって、そのころに結構友達もできて音楽が好きになったみたいです。
その時期にちょっと中学でいじめに遭いまして、一時期登校ができなくなったりしたこともあったんですけれども、そういうときに支えになったのがバイオリンだったみたいで。とても藝大の附属高校に進めるレベルじゃないのは私が一番知っていましたけども、逆にいじめでなかなか学校に行けなくて、でも自分にはバイオリンがあって、オーケストラに行くと本当に心を許し合って一緒に好きな音楽ができる友達がいる、という辺りで本気でバイオリンをやるようになって、藝高を受けたんです。だからやっぱりバイオリンが心の支えになったんじゃないかと思うんですよね。

――お孫さんもいらっしゃるんですよね? 何をやらせようと思っていらっしゃいますか。

澤さん: 1歳3か月くらいになりました。
もうこれは本当に“じじバカ”と呼べると思いますけど、チェロとかやってくれると。今、娘がバイオリンで、まぁ私もバイオリンですけどビオラもやりますので。家内はピアノで、婿がクラリネットなので、「チェロがいるといろんな室内楽ができるな」なんて思ったりして。でもまだ1歳ちょっとの子にチェロを弾かせようって思っても……(笑)。

――おじいさんとしては長生きしなきゃいけないですね(笑)。
東京藝術大学では10代目の学長として改革をやっていらっしゃるわけですが、一番大きな目標とはどんなことですか?

澤さん: まずは東京藝大が、「世界一の総合芸術大学」と言われるような中身をつくっていきたいと思うこと。そして頑張っている学生や卒業生が藝大で学んだことを世の中に十分に還元して、人々の幸せに貢献できるというのをできるだけ“見える形”にしていきたい、というのが目標です。

<東京藝術大学130年の歴史 バイオリニスト学長・澤和樹の挑戦 (前編)>

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