大友良英① ジャズ、アングラ、クレージーキャッツ

ざっくり言うと
原風景は親戚が集まったお祭り騒ぎ
横浜・福島・東京をめぐる音楽遍歴
2019/07/23 ラジオ深夜便 「時代を音楽で表現したい①」 大友良英さん(音楽家)

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2019/07/23

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連続テレビ小説『あまちゃん』、大河ドラマ『いだてん』の音楽を手掛ける大友良英さん。ことし2019年に60歳となり還暦を迎えられます。ジャンルにとらわれず多種多様な音楽を生み出す大友さんの原点はどのようなものでしょうか。横浜での幼少のころの記憶や福島で過ごした青春時代についてお話しいただきました。


にぎやかな音楽に囲まれていた幼少期

――大友さんは8月1日で60歳、還暦を迎えられる。おめでとうございます。

大友さん: ありがとうございます。人生は意外と早いですね。

――「意外と早い」というのが最初の印象ですか。

大友さん: もう1つは、「60歳って年寄りで、何でもわかっていてできちゃう」と思っていたら、意外とメンタリティーは中学のころと変わらないかも、と思っています。成長してないですね。ケンカ早いけれどケンカしなくなった、くらいしか変わってないような気がします。

――大友さんの音楽の創作活動を振り返っていただきます。
お生まれが神奈川県横浜市。横浜は、音楽面では「ジャズの街」というイメージがあるんですけども、大友さんに影響を与えたものはありますか。

大友さん: ありますね。1959年生まれなので、僕の育ったのが60年代なんです。ちょうど高度成長期で、おふくろが音楽好き、ジャズ好きで。
おふくろの実家が横浜なんですけど、そこに集まると大宴会。ジャズじゃなくて歌謡曲ですね。みんなでクレージーキャッツの「スーダラ節」を踊ったり、坂本九を歌ったり、という感じだったので、その影響が根っこにはあると思います。みんなで集まって歌えや踊れや…おいしいものを食べて、大人は飲んでいたでしょうね。子どもはそこにいるのが楽しかったですね。

――宴会でみんな歌っていた。

大友さん: おじさんがギターを持っていて、それで歌っていましたね。僕は踊っていました。「スーダラ節」を踊っていた。

――小さいころから、親戚の集まりでにぎやかな音楽ありきの生活だった。

大友さん: しかも近所の人も集まっていました。中学くらいになって、そこに集まる人、「宮寺さんのおばさんって親戚じゃないの? ただの隣の人だったの?」というくらい、近所が近かった感じでしたね。

――横浜でも、古きよき。

大友さん: 下町という感じでした。母方の実家にみんなが集まってワイワイやっているのが僕の原風景です。
横浜はジャズの街でおふくろがジャズ好きだったけど、それ以上に人とのつながりの中で生まれる音楽に接していたのが大きかったと思います。

転校生の聴くラジオ

――小学校の半ばに、福島に引っ越しをされるんですね。

大友さん: 高度成長期で、親父の勤めていた電機工場が福島に進出して親父が工場長をやることになった。1968年かな。一家そろって福島に引っ越しました。
思春期はまるっきり福島ですね。
横浜と福島で、今はそんなに差があると思わないですけど、当時は方言も含めて結構差があったので、最初のうちはなじめなかったですね。それで恋しくてラジオを聴くようになったんです。小学校の後半くらいから深夜放送を聴くようになったのが音楽に本格的にハマるきっかけかな。

――そのときに流れていたのはどういうものですか。

大友さん: 歌謡曲の中でもグループ・サウンズ。タイガース、テンプターズ、ショーケンとかジュリーですかね。それがきっかけでロックっぽいものにハマっていく。「男の人が髪の毛を伸ばしていいんだ」と、そっちが最初。あとからビートルズとか。当時はやっていた洋楽だとカーペンターズ、サイモンとガーファンクルとか。小学校の終わりくらいから、そういうのが好きになっていきました。
ラジオです。インターネットなんかもちろんないですし、テレビは歌謡曲だけでした。小学校も高学年になると、ませてきたんで海外のものにかぶれるわけです。
カセットテープレコーダー、ラジカセが出たばっかりだったんです。小6のころにうちのおやじが買ってきてくれたラジカセで録音。当時「エアチェック」といいました。カセットテープ1本をものすごく丁寧に使って、大好きな曲がかかるとバッと録音する。

――なるべくラジオDJの声と曲始めの素(す)を狙って、録音ボタンを押す。

大友さん: 今僕がラジオ番組をやっているときは平気で音楽にかぶせちゃいますけど、当時はかぶっていると「あー!」と思いましたね。「声をかぶせないで。フルで聴きたいよ」と。でもAMはなかなかそうやってくれなかったですから。今考えると、かぶっているのも好きです。残っているテープの中でも、かぶっているやつをそのまま残している方がむしろ貴重。

――トークも含めて、時代がわかる。

大友さん: そうなんです。山口百恵ちゃんの声で曲紹介しているのとかを後々まで残していたんです。今考えると、ああいうのをちゃんと残しておけばよかったと思いますね。

――お友達はどうですか。「きのうあれ聴いた?」ということで、音楽を通して広がったりもしましたか。

大友さん: そういうのを聴いている人は少なかったんですよ。中学・高校でだんだんそういう子は増えてくるんですけど、小学校の終わりや中1だとまだ少なかった。逆に、そういうのを聴いている人たち同士、クラスが離れていてもつながっていくんです。意外とみんな転校生だったりするんですよ。転校生は寂しくてラジオを聴いたのかもしれない。後々、バンド仲間や長い付き合いになる仲間は、そういうので知り合っていったのかな。

――音楽の趣味には同世代の仲間たちよりも先を行く、先進的な感覚が。

大友さん: 今考えると、それをプライドにも思っていた。「お前らにはわからないぜ」みたいに。といっても、聴いているのはビートルズとかなんですけどね。
だんだんレッド・ツェッペリンやキング・クリムゾンという、福島じゃなかなか手に入らない音楽にもハマっていくようになる。当時1学年400人くらいいたんですけど、その中に数人、そういうのが好きなのがいるわけです。その数人で集まっていた感じでしたね。

高校時代にジャズからアングラへ

――福島高校へ進学をされて、さらに音楽にのめり込んでいくんですね。

大友さん: バンドを始めるんです。「学園祭でキャーキャー言われたい」という、すごく素朴なきっかけ。
中学のときに音楽仲間の連中がバンドを始めた。そのバンドがステージに出ると女の子たちの目がキラキラするんですよ。それが悔しくて。僕は運動もできないし、モテる要素が皆無でしたから、せめてギターでなんとか…と。高校のときかな。郵便局でアルバイトして、エレキギターを買いましたね。

――聞くところによると、大衆受けする、同世代に受ける音楽よりも、さらにもっと先端の…。

大友さん: そこがモテなかった。

――前衛的なものに入り込んでいった、と聞いております。

大友さん: 高校に当時できたばかりのジャズ研があったんです。高校にジャズ研があるのは全国でも珍しかったと思うんです。そのジャズ研に入ったんですよ。先輩たちに変な人がいっぱいいて、「お前、こういうのを聴かなきゃだめだ」といろいろすすめてくる。最初は「うーん?」と思ったんだけど、だんだんハマっていくんです。
最初はエリック・ドルフィーや(ジョン・)コルトレーンとか、フリー・ジャズっぽいのから入っていったんです。そのうちジャズ喫茶に入り浸ると、そこでは…当時70年代中ごろですから、フリー・ジャズが盛んです。そこにいる大学生やママさんが、「あんた、こういうのを聴かなきゃだめよ」と言うんです。そうすると、大人になりたいから背伸びして、無理して聴くわけです。それでフリー・ジャズにどんどんハマっていきました。最初はわからなかったけど、そのうちおもしろくなってくるんです。
当時はとにかくアングラなものにハマった。なるべく人がわからなくて難しそうなものを「わかっている」と言いたくて。

――「アンダーグラウンドを知っている自分がカッコいいんだぞ」と。

大友さん: 音楽だけじゃないですよ。演劇も、福島で唐十郎の劇団の8ミリ上映会がある。それを観に行って、「すげー」「全然意味はわからないけど、すごい」と。高校3年くらいになると、アングラにどっぷりハマっていました。

――当時の福島で、そこまでアングラを楽しめていた人は少ないのではないでしょうか。

大友さん: 少ないでしょうね。高校でも、さすがにその話のできる人はほぼいなかったですね。ジャズやロックにハマっているうちはいっぱい仲間がいたんですけど、だんだんいなくなっちゃった。どんどん友達のいない人になっていった。
そのときは東京に出たくてしょうがなかったですね。「東京に行けば、こういうのがいっぱいある」と思っていた。実際に行ってみると東京も大してないんです。

<「時代を音楽で表現したい」大友良英②>につづく

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