“ほんのちょっと当事者”になれたら

ざっくり言うと
誰かの困りごとを自分事として考える“ほんのちょっと当事者”
巡り巡って、自分の困りごとを誰かが想像してくれるかもしれない
2019/12/15 マイあさ! 「著者からの手紙」 『ほんのちょっと当事者』青山ゆみこさん(フリーライター)

文学

2019/12/15

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2019年12月15日(日)放送より

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ローン地獄、児童虐待、性暴力……。さまざまな社会問題をみんなが“ほんのちょっと当事者”になって考えることができたなら、社会はもっとふくよかになるんじゃないか。そのためには、どうすれば? 『ほんのちょっと当事者』の著者、青山ゆみこさんに伺います。


自分もきっと何かの当事者

――この作品のメッセージですけれども、「誰もが自分と関係のない他者の困りごとの当事者になるということを意識すると、この世界は生きやすくなるのではないか」ということだと感じましたが、いかがでしょうか。

青山さん: 自分と関係のない誰かの困りごとの当事者になるって、すごい難しいことですよね。なかなかなれることではないと思うんです。ただ、ふだんは意識していないけれども、「自分ももしかしたら何かの当事者なのかもしれない」と考えたら、「今まで全く関係ないと思っていた誰かのこと、他人事だった問題も、もしかしたら自分事だったのかもしれない」と気付けたらいいな、っていうことを思いながら書きました。

――プロフィールをご紹介します。
フリーライターの青山ゆみこさんは、1971年兵庫県生まれ。月刊誌副編集長などを経て独立されました。現在は単行本の編集や雑誌記事の執筆をしていらっしゃいます。著書に『人生最後のご馳走』があります。

今回の作品の序盤で、青山さんが“当事者”になれなかったエピソードが登場します。生まれつき高い音が聞き取りにくい青山さんは、手話講座に行って聴覚障害と断定された際、「わたしは『そっちのチーム』じゃない。『普通』なのに!」と、声を上げそうになったそうです。このときのことを、「強烈に恥ずかしくもあった」と書いていらっしゃいますよね。

青山さん: 今思い出しても汗が出るような、自分に対してすごくショックだった出来事ですけれども。
ご説明いただいたように、私は生まれつき遺伝性の高音域の難聴がありまして、ただ日常にはほとんど問題がないんです。手話講座のときに、事前資料としてプロフィールを書く欄があったんですけれども、そこに「高音域の難聴を持っています」みたいなことをさらっと書いたんですね。そしたら講座の運営者の方が、「この中にも聴力に少し問題を抱えている方がおられますので、その方としゃべるときはできる限り口を大きく、そして声を大きく、はっきりとしましょう。その方はこの方です」と、3名挙げた。ぼーっと他人事のように聞いていたら、最後の3人目に私の名前を挙げられて、「えっ?」って思って。お二方は、障害者手帳を持っておられて、ご自身に障害があると認識されている、いわゆる“当事者”でした。そのとき私は、「その2人と自分は違う。あなたたちとは違う」っていうふうに思ったんです。それがすごくショックで。「私はそういうことを思う人間じゃないと思っていたのに、思ってたんや。きれい事を言ってるけれども、全然きれいじゃないよ」っていうことですね。

当事者の本心は分からないけど

――そして「父の介護と母の看取り」と題される部分です。青山さんは、ご自身のお母様が病床にあって痛みに苦しんでいたとき、「頑張って治療して元気になろう」と声をかけた際、「これ以上なにを頑張れっていうのよ」と、強い口調で言われたそうです。
今、青山さんがこうした場面に遭遇したら、痛みに苦しむ人に対してどんな言葉をかけられますか。

青山さん: これは本当に難しいなと思って、今も聞いてたんですけれども。
あくまで私の場合は、母が肝硬変と肝がんで末期症状になり、最後はすごくもだえ苦しむという感じだったんですね。どうしてもそばにいると、「頑張れ」ってつい言ってしまう。でも本当に頑張っている母が思わず語気を強くして「頑張ってるじゃない!」って言ったときに、「こんなに苦しんでいる母をさらに傷つけてしまった」みたいに思ったんですけれども、看護師さんはそのことに対して、「お母さんが甘えられるのは、そばにいる娘さんだけ。私たちには多分気を遣って言わないけれども、娘さんには気を遣わないから思わず言ったんでしょう。そういう言葉を受け止める存在も、すごくお母様のためになっているんですよ」と言ってくださったんですね。役にも立っていないようだけど、「母の心が少しは緩和されるんだったら、よかったのかな」と思うんですけれども、「正しい答え」というのが、ないんですよね。

だから今、苦しんでいる人に対して、こんな言葉をかけましょうとか、体をさすってあげましょうとか、言えない……。体をさするのもいいって言われていたからやったんですけど、すごく嫌がられて、「気持ち悪いからやめてちょうだい!」って。看護師さんが同じことをすると、「すごく気持ちがいい」とか言って。彼女に聞いてみないと本心は分からないんですけれども、そういうときも、もしかしたら私に甘えてくれていたのかもしれない。私自身は、そういう経験をしたことがあるっていうことです。

それから、ホスピスの取材を1年半ほどしたことがあります。私から見ると、家族の方と介護師さんとですごく手厚く介護されていた。患者さんも納得してみんなに感謝のことばを述べて命を全うされたんですけれども、それでもやっぱり家族は「やり残したことがある。後悔がある」っておっしゃるんですね。「もっとこんなことをしてあげたかった」とか。
「そういうものなのかな」と。どれだけやっても、やり残したものがあると思ってしまう。だから正解はないというよりも、もうそれは、抱えていくしかない。自分なりに精いっぱいやって怒られたとしても、できることを少しでもできたら、あるいはできなかったとしても、できなかったということを考えることで、何か気持ちは変わってくるんじゃないかという感じがします。

――そして、「わたしは『変わる』ことができるのか」と題された部分です。
青山さんはご自身を「卑劣で弱い人間だ。(略)自分の弱さが誰かに対して暴力に変わるかもしれない」としつつ、そこから変わる方法として「『事実をつくっていく』こと」と記しています。「事実をつくっていく」というのはどんなことになるのでしょうか。

青山さん: 20代、30代、40代と生きている中で、自分自身が誰かの面倒な対象になったり、面倒な存在になったりすることが何度もあって。その度に、面倒なんだけれども許されて、受け入れてもらったということがあった。それが、自分をもしかして“変えた”、変わったかどうかは分からないですけれど、“変えた”のかなと思っていて。
面倒かもしれないけれど、面倒な人を受け入れる。そういう事実を1つ1つつくっていけば、排除される人っていなくなりますよね。結局は、みんながお互いに迷惑をかけ合って生きているというか、面倒な存在なんだということを受け入れて、その面倒な日常をこなしていく、生きていく。そういうちっちゃいことが事実をつくることで、その事実によって、大きい社会は形づくられるのではないかなと思ってます。

“ほんのちょっと当事者”になる

――私たちが“ほんのちょっと当事者”になるには、どんな意識を持てばいいとお考えでしょうか。

青山さん: 自分が当事者になるというのは、例えば自分の中に抱えている小さいモヤモヤっとしたものだったり、生きている中で感じた違和感みたいなものを、ふだんはスルーしちゃうんですけれどそうしないで、1つ1つ心のメモ帳みたいなものに書き留めて温存していく、というか。自分の中にモヤモヤや違和感をためていくと、人に対しても、「この人も小さいモヤモヤを持っているかもしれない。違和感を持ちながら生きているかもしれない」、横にいる人、隣にいる人、あるいは目の前にいる人も、当事者かもしれないと思える想像力になる気がするんです。
自分の一部を認める、それを意識するということが、他人への想像力につながる。自分が当事者かもしれないと考えることが、同じ社会に暮らす誰かの想像力につながる1歩となるっていうことが、大切だと思っています。
ささやかな小さな1歩かもしれないけれども、そういうさざ波が大きなうねりになって、どんどん広がっていく。隣の人に向けた想像力が、回り回って全然違うところから、全く思いもしなかった人から、想像力が持ってこられるかもしれない。そんなふうになるといいなと思っています。

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2019年12月15日(日)放送より

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