天動説から地動説へ。中世の暗黒時代をつないだイスラムの天文学

ラジオ深夜便

放送日:2024/02/26

#天文・宇宙#サイエンス

中世ヨーロッパで科学の歩みが停滞する中、イスラム文化圏では天文学が大いに重んじられました。その理由と成果について、縣秀彦さんにうかがいます。(聞き手・坂田正已ディレクター)

【出演者】
縣:縣秀彦さん(国立天文台天文情報センター)

天動説が長く権威を持ち続けた理由

――今回のテーマは「イスラムの天文学」です。

縣:
坂田さんは、イスラムの国々というとどんなイメージをお持ちですか。

――イスラム教を国の宗教とする国で、スンニ派とシーア派が対立しているとか、豚肉やアルコールの飲食が禁じられているとか。ハラールという言葉もありますよね。そのくらいかな……。

縣:
イスラムというと、中東の国々というイメージがあるかと思います。私はサウジアラビアという国を、今から10年前に訪問したことがあります。

――お仕事ですか。

縣:
はい。サウジアラビアというと砂漠と石油の国というイメージですよね。1週間ぐらい滞在しましたが、おっしゃるとおりアルコールがとれないので、ちょっと大変でした。

――そうですか(笑)。

縣:
中東に限らず、他にもイスラム教の国は多いですよね。アジアでもインドネシア、ここは何回か仕事で訪ねたことがありますが、多数の島々から成り立っている大きな国です。島ごとにメインの宗教が異なるのでイスラム教が全部というわけではありませんけれど、多くはイスラム教徒ですよね。他にもインド、トルコ、マレーシア、ナイジェリアなど、イスラム教の国を訪ねたことがありますが、世界人口の4分の1がイスラム教徒ですね。

――かなり多いですよね。

縣:
はい。イスラムの国々では今も天文学が盛んですけれども、古くから盛んなんです。実は中世ヨーロッパの暗黒時代、天文学は、主に中東、イスラム文化圏で発展を遂げました。特に望遠鏡などの光の学問、光学や、星の位置を正確に求めるための天文学、星の位置を調べて作る星図、いわゆる空の上の地図や、星のカタログを作るようなところで大きな進歩がありました。きょうは、こうしたあまり知られていないイスラムの天文学について、ご紹介していきたいと思います。

――去年5月のこの時間で、縣さんは「紀元15世紀ごろまでの科学の中心はイスラム文化圏」とお話しされました。その辺を、詳しくうかがえるわけですね。

縣:
そのとおりです。現代の「科学・サイエンス」という言葉、当時はなかったわけですけれども、古代ギリシャで芽生えがあったわけです。古代ギリシャの哲学者たちによる、思想ですよね。皆さんご存じのソクラテス、プラトン、アリストテレス、こういった人たちを中心に、活発な議論、実験や観察をして真理を探究する機運が高まりました。それが古代ギリシャの時代です。ですからまずは、古代ギリシャにおいて天文学が発展したといえると思います。特に有名なのは、紀元前150年前後、エジプトのアレクサンドリアで活躍して「天文学者の父」とも呼ばれたヒッパルコス、そして同じアレクサンドリアで、紀元後150年前後に活躍したプトレマイオスが、天文学では有名です。

――プトレマイオスといいますと、地球を中心に宇宙は回っているという説を唱えた学者ですね。

縣:
はい、天動説ですね。天動説をまとめて体系を確立したのが、プトレマイオスといえます。当時から、地球が丸いことは知られていました。この丸い地球を中心に、その周りを幾重にも囲んでいる球殻上の場所、天球という言葉がありますけれど、この球殻上を惑星や星々、天球上に星々、恒星がある。宇宙の中心に地球があり、その地球の周りを惑星も月も太陽も星々も回っている。これが天動説です。

天動説、プトレマイオスのモデル 『崇禎暦書暦引図編』1855より。 天文学辞典(日本天文学会)

縣:
ただプトレマイオス以前は、天動説を用いて、火星とか木星とか金星などの各惑星が来年の何月何日はどこに見えるかというような予報を、正確にはできていなかったんです。ところがそこにプトレマイオスが、ある考え、あるアイデアを用いることで予報精度が格段に上がります。このことでプトレマイオスの天動説は非常に確かなものとなり、プトレマイオスはそれを『アルマゲスト』という本にまとめます。この本は今も読めるんですけれど、天動説の集大成としてとても優れた書物だったんです。

――プトレマイオスのアイデアというのが、それだけよくできていたということですか。

縣:
そうですね。プトレマイオスが活躍したのは紀元後150年前後ですが、そのずっとあとの1543年に、コペルニクスの『天球の回転について』という本が出版されます。こちらは、太陽の周りを地球も他の惑星も回っているという地動説の本ですが、1543年の出版ですから、1400年もの長きにわたって、プトレマイオスの『アルマゲスト』が権威を持ち続けたわけです。これは一体なぜだと思われますか。

――これだけの長い間ですものね。ヨーロッパの国々がキリスト教を国教とするようになって、しかもそのキリスト教が、権威を持つようになったからではないですか。キリスト教では、地球が動くということはありえなかったわけですよね。

縣:
そうなんでしょうね。教会の力によって支配されて、サイエンス、科学的な取り組みがあまり奨励されない。何かそういうことをやりますと、当時だと魔女狩りだとか迫害をされてしまうような時代だったということです。でも、1400年も学術、学問が進まないと、廃れてしまうじゃないですか。

――そうですよね。

縣:
天文学の歴史を調べてみますと、プトレマイオス以降、しばらくはローマ帝国で、この難しい『アルマゲスト』を理解して、その重要な部分、要約を作る作業が行われて出版されていますが、7世紀になっても、中世ヨーロッパの時代には全く天動説が発展しておらず、研究が進んだ形跡がありません。当時のヨーロッパの人々、つまりキリスト教徒の人たちは、宇宙を探求することをやめたかのように見えます。もしこのままだったら、16世紀のコペルニクスにつながることなく、天文学は完全に廃れていたことでしょうね。

地動説 『太陽窮理了解説』1792より。 天文学辞典(日本天文学会)

イスラム国が天文学を重んじた理由

――それを救ったのが、イスラムの国々ですか。

縣:
7世紀以降、ということですよね。イスラム教が誕生したのが7世紀です。610年ごろに、アラビア半島、今のサウジアラビアで預言者ムハンマドが始めた宗教です。皆さんご存じのように唯一の神、アッラーを信じる一神教で、キリスト教や仏教とともに3大宗教の1つといわれることもあります。イスラム教の教えは、瞬く間に北アフリカからエジプト、サウジアラビア、今でいうイラク、イラン、インドへと広がり、イスラムの教えを信じる巨大な国が形成されていくわけです。それが最初のイスラム王朝、ウマイヤ朝で、そこからアッバース朝へと続いていきます。

――イスラム王朝は、宇宙を探求することを認めていたということですか。

縣:
はい。今でいう100%ではないのですが、理由があって、宇宙を詳しく知る試みを熱心にしています。主に2つのポイントがありまして、1つ目は、特にアッバース朝では異国の書物を次々とアラビア語に翻訳させました。アリストテレスの本、ユークリッドの本、さらには数学が盛んであったインドの本、これらに加えて『アルマゲスト』も翻訳されたんです。

――それだけいろいろな本が翻訳されたということは、異国の書物が入ってきたわけですから、アッバース朝があった場所は各国との交流や交易が盛んだったとか、地の利もあったんでしょうか。

縣:
イスラムの国はどんどん拡張していきましたから、盛んだったと思います。しかも新興国ですよね。新しく興った国ですから、特にイスラム教の教えを権威づける、またはキリスト教や仏教と比べて、優位性、こちらのほうがすばらしいんだよと訴えるためには、さまざまな国の最先端の学問を取り入れて翻訳して理解をし、その先を示す必要があったんでしょう。つまり、国策ですよね。これが1つ目になります。

ですからイスラム帝国では、イスラム教の正当性や優位性を示す必要があったので、天文学の本も翻訳されて研究が進んだんです。そして読んで終わりではなく、そこに書いてあることの何が正しいのか、またキリスト教の本に書いてあることのどこが間違っていてどこが正しいのか、論証を行うことが奨励されていたんです。

――論証、ですか。

縣:
はい。論証というのは、ソクラテスに始まる古代ギリシャに起源を持ちますよね。与えられた判断が真なのか偽なのか、正しいのか正しくないのかを、論拠を挙げて証拠を示して議論し推論して、正しいものを判断していくことになります。主にキリスト教との間の宗教論争ですが、宗教論争において論証を行っていくことは、古代ギリシャのように自由かったつな学問の探究を進めるのにプラスだったようです。

――なるほど。

縣:
2つ目は、これはイスラム教の国に限らないことですが、中世の時代というのは、宗教を問わず国を問わず占星術がもてはやされていました。これが理由になります。

――今の星占いとは違うんですか。

縣:
基本的に同じですけれど、今の星占いは一人一人の運勢を占っていますよね。しかし当時は、国の運勢を占うことも同時にしていたわけです。どこの国もその国の将来を占うのに、太陽、月、惑星がどの星座にいるのか、次の年はどの星座に移動するのか、こういったことが人の運命のみならずその国の運命にかかわってくる。国の運命を占うのに占星術が発達しましたから、イスラム帝国でも盛んに天体観測をして、星の動き、太陽、月、惑星の動きを詳しく調べる。そして予報する。そしてそれを占いに生かすことが行われたわけです。

――と言いますと、占星術を使う人は学者のような存在だったんですか。

縣:
占星術は当時は学問ですね。古い本を訳して理解する作業、天体を観測すること、そしてそれを占いというかたちで用いる、これら全体が、当時でいう天文学だったわけです。「天文学」という言葉が当時あったかどうかはわかりませんけれど、そういうことをしていた人たち、学者がいたということです。

――国が栄えるか滅びるかを天体の動きで占うとなりますと、占う人は惑星などの星の動きをより正確に知ろうとするでしょうし、天体観測のための器具や技術も進歩しますよね。

縣:
はい。イスラムの国々では、7世紀以降、天文学が盛んに行われるわけです。

研究成果は地動説にもつながった

縣:
コペルニクスの『天球の回転について』で地動説がいよいよ出てくるのは、16世紀の話です。コペルニクスはこの本で、地動説につながる先駆的な研究の内容、9世紀から12世紀ごろのイスラム圏の天文学者の成果を、5名の名前を挙げて紹介しています。ですからコペルニクスは、イスラムの天文学者の人たちの研究成果を読んで理解し、その先を考えて、地動説というアイデアに到達したと捉えられています。この5人の中から1人だけ名前を挙げますと、アル=バッターニーという人がいます。

――アル=バッターニー?

縣:
はい。アッバース朝時代にシリアで活躍した科学者です。天球、空は、平面ではありませんよね。曲がっている球面の上で天体の位置をどう表すかという方法を編み出し、そして天文台を作って41年間にわたって天体観測をし、489個もの星の正確な場所や明るさを示した星表、星のカタログも作っています。

――そうですか。もう1人、紹介していただけますか。

縣:
コペルニクスが名前を挙げている方ではないのですが、当時最も有名で、今もガリレオとかアインシュタインと同じくらい著名で尊敬されている科学者で、2015年にはこの人の業績にちなんで「国際光年」が国際的に開かれたという、イブン・アル=ハイサムがいます。

――イブン・アル=ハイサム?

縣:
はい。「近代光学の父」、光に関する学問の諸原理を発見しています。

――いつごろの人ですか。

縣:
11世紀に活躍した方です。イブン・アル=ハイサムは、物理学的な光に関する学問のみならず、プトレマイオスの『アルマゲスト』の問題点を鋭く指摘していて、天文学でも非常に重要な業績を挙げた科学者です。

プトレマイオスの時代は三次元で物事を考えることができなかったので、『アルマゲスト』は二次元の平面上で惑星の運行を説明していたんです。ところが先ほどのアル=バッターニーはじめ、空の上、球面状、つまり三次元の空間の中で惑星がどう動くかを詳しく考えた結果、プトレマイオスが導入して天動説の精度を上げたという考え、アイデアが間違っていることに、イブン・アル=ハイサムは気づきます。彼は『プトレマイオスへの疑問』という本も書いていて、プトレマイオスの天動説が間違いであることを明確に示しました。イスラム圏でのイブン・アル=ハイサムの探求は当時非常に重要な役割を果たし、そして後世に残っていくことになります。

――もう1人、誰かいますか。

縣:
イスラム圏で当時を代表するもう1人を挙げるとすると、時代が下がって15世紀、イスラム帝国のティムール朝の時代、第4代の君主がウルグ・ベクという王様なんです。トルキスタン文化の黄金期を作った非常に優秀な君主ですが、実は優れた天文学者だったんです。

――君主であり天文学者だったんですか。

縣:
はい。1420年ごろですけれど、サマルカンドという場所に巨大な天文台を建設しました。サマルカンド天文台、彼の名前を取ってウルグ・ベク天文台ともいいますが、そこで彼自身が、太陽、月、惑星、そして星々の観測を行い、後世長く使われるウルグ・ベク星表、星のカタログも出版しました。

サマルカンドといえば中東よりもこちら、古代シルクロードの中継基地ですよね。現在でいうとウズベキスタンのサマルカンドで、1908年にロシア人の考古学者たちがウルグ・ベク天文台を発掘しました。砂漠ですから埋まっていたんです。この天文台施設には、半径が36メートルもあるような巨大な天体観測の装置も設置されていたんです。

――半径が36メートル! 実際に使われていたんですか。

縣:
はい。六分儀の巨大なものです。六分儀というのは、星の位置を正確に測って時刻や今自分のいる場所の緯度経度を調べられる道具です。いわゆる天体望遠鏡がまだない時代ですから、こういう巨大なもので星の位置を正確に測っていたんです。

――普通は手に持って測りますよね。

縣:
それは小型のものですね。飛行機のパイロットさんや船乗りさんが使うのは手持ちの小型のものですけれど、それと同じように、巨大な分度器の形をしていてその端から中央をのぞいて角度を測ります。大きいとそれだけ精度が上がりますよね。これで星の位置を測る、角度を測るということです。

このように研究機関としての天文台という概念は、イスラム世界が最初でした。イスラム圏での研究機関の天文台は、主要なものとしては13世紀後半にマラガ、15世紀後半にサマルカンド、16世紀後半にはイスタンブールなどに建設されました。これらの天文台では天体の位置を正確に測ることが行われて、天文で必要なさまざまな定数や計算方法、優れた星表が発行されました。

――それまでの天文台は研究機関ではなかったわけですか。

縣:
ガリレオ・ガリレイの時代、17世紀に入りますと、いわゆる望遠鏡を設置した天文台がありますね。その前ですと、もちろん同じような、例えばティコ・ブラーエのように大きな六分儀や四分儀という装置を使って観測をしたことがありますけれども、それはイスラムの文化を受け入れて、ヨーロッパ圏で進むわけです。

――お話をうかがってきますと、天文学の世界ではキリスト教もイスラム教も関係なかったということがわかりますよね。イスラムの天文学者たちが今につながる大きな成果を上げていたことがわかりました。

縣:
現在もイスラム圏の国々は太陰暦という暦を使っていまして、月の満ち欠けを暦で使っています。イスラム圏の人たちは科学者、天文学者に限らず、新月からどうやって最初に月が見えるかを詳しく調べることがとても大事なので、天体を観測することに一般的に熱心なんですね。

――縣さん、今回もありがとうございました。

縣:
ありがとうございました。


【放送】
2024/02/26 「ラジオ深夜便」

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