2001年のしし座流星群で身近な天体観測の幕が開いた

24/01/05まで

ラジオ深夜便

放送日:2023/11/27

#天文・宇宙#サイエンス

しし座流星群が大きな話題になったのは、1998年から2001年のことでした。縣秀彦さんにも格別の思い出があるそうです。その後の天文界に与えた影響も含めて、縣さんにお話をうかがいます。(聞き手・坂田正已ディレクター)

【出演者】
縣:縣秀彦さん(国立天文台天文情報センター)

1998年、生徒と寝転び数えた流れ星

――今回のテーマは「しし座流星群の思い出」です。

縣:
はい。坂田さんは星空や宇宙に関して、何か思い出に残るような印象深い出来事を体験されたことはありますか。

――私はですね、まさに今回のテーマである、しし座流星群です。

縣:
私も個人的には、毎年11月になりますとしし座流星群を思い出します。特に1998年から2001年にかけて、しし座流星群が騒動になりましたね。このときのしし座流星群騒動が、日本人の天文や宇宙への関心を劇的に引き上げたのではないかなと個人的には感じています。

――しし座流星群、私が鹿児島に勤務していたときでした。外に出て、だんだん寒さが増してくるのに、何時間も、いくつもの流れ星が流れていくのを見ていました。2001年のこと。感動しましたね。

縣:
そうでしたか。当時いくつかの天文イベントがありましたね。もう1つ印象深いのは、1985年から1986年のハレーすい星です。

NHKアーカイブス NHKニュース「ハレーすい星接近」1986年放送

縣:
このときも、いろいろなテレビ番組がありましたし注目が集まりました。ただ、すい星は淡いので望遠鏡やカメラがないとなかなか写らないとか、あのときは南半球に行かないとよく見えないという観測条件だったので、すべての人が楽しめる天文現象という感じは、ちょっとしなかったですよね。ところが流星群のいいところは、望遠鏡も双眼鏡もいらないんですよね。

――そうですよね。

縣:
夜空があったらそれを見上げるだけで、お金をかけなくてもできるんです。ハレーすい星のころまでは、星を見る天体観測というとオタク文化、何か少数の詳しい人の趣味・ホビーというイメージが強かったと思うんです。それがしし座流星群・流れ星の観察をきっかけに、多くの人が手軽にアクセスして星や宇宙に親しむ時代が始まった感じがします。

――自分の目で見ることができる天文現象というのは、その話題をたくさんの人と共有できますものね。

縣:
はい。思い出してみると、最も関心が高まったのは1998年だったんです。この流星群の元となる母天体・すい星は、33年周期で太陽に戻ってくるんです。ですから33年前に大出現があって、1998年が33年後の当たり年でした。「雨のように流れ星が降るかもしれない」と予測した人たちがいたわけです。当時、私は学校の教員をしていましたが、中学生や高校生の天文部の生徒たちと、しし座流星群の観測に出かけたことを思い出します。

――どこに出かけたのですか。

縣:
東京から群馬に行ったんです。ぐんま天文台の敷地内で、みんなで寝転がって流れ星を数えるという経験をしました。

――授業が終わってから皆さんと移動したんですか。

縣:
普通はそう思いますよね。

――えっ、違うんですか?

縣:
実は授業を途中で、午後の授業をカットして……

――はっ?

縣:
授業の途中から出かけました。ちょっと信じられないでしょう?

――ええ……。

縣:
甲子園とかインターハイとか、運動部の皆さんが学校の授業をお休みして試合に行くのは、まぁ珍しくないことですよね。ところが文化系の部活動・クラブ活動で授業に出ないでいいから出かけていいよというのは、想像しにくいかもしれません。

そのときの職員会議で、かつては「流星雨」といいましたがそのイラストを示しながら、「しし座流星群は33年に1回しかチャンスがないんだ。こんなに貴重な機会をクラブの子たちに見せられないのは……」という話をしたら、なんと認めてもらえたんです。その学校ではたぶん初めてのことだったと思います。先生や他の生徒たちが手を振って見送ってくれましてね。大型のバスに乗り込んで、ぐんま天文台まで出かけたんです。

――縣さん、よほど熱く語ったんでしょうねぇ。

縣:
夜間の流星観測というのは、まだそれほどメジャーじゃないといいますか、誰でもイメージできる感じじゃなかったと思うんです。しかし、しし座流星群の話題が盛り上がったことによって、千載一遇のチャンス、めったにないことだから、ぜひ若い人たち、興味のある子たちにも体験してもらおうという気持ちに周りがなったと思うんです。それは私が勤めていた学校のみならず、全国、または世界中の多くの場所で、同じようなムーブメントが起こり始めたわけです。

ただ、1998年はあまり大した出現じゃなかったんです。天文現象は予報が難しいですよね。このときも流星雨を期待したわけですけれども、それほどの流れ星の数ではありませんでした。その翌年、1999年こそ流れるだろうというので多くの人が夜空を見上げたのですが、このときもほとんど流れていないんです。1998年、1999年というのは、ちょうど20世紀の終わりで世紀末という空気感がありました。当時はそういうことも、人々に対して星空を眺めようということへ誘う、何か心理的な効果があったのかもしません。

――そうですね。

NHKアーカイブス NHKニュース「しし座流星群 各地で観測」1998年放送

NHKアーカイブス 宇宙スペシャル
「夜空ミステリー・しし座流星群~32年ぶりの天体ショーを航空機で追う」
1998年放送

2001年、夜中に電話で「みんな見て!」

縣:
2000年になると、もう忘れ去られて「流れなかったね。」で終わるわけですが、問題は2001年なんです。2001年というと、伝統的な33年周期の予想からは、ずれています。出現のピークは過ぎているので、もうそんなには流れないと思っていた。ところが、「流れる」と予報をした研究者がいたんです。

――それは?

縣:
イギリスの若き天文学者、デイヴィッド・アッシャーです。この人が、2001年に大出現をするという予報をしていました。多くの関係者が、半信半疑でそれを受け止めていたわけです。

――縣さんもそうでしたか?

縣:
アッシャーの予報、私は8割ぐらいですね。ただ8割といっても、どれくらいたくさん流れるかわからないんですよ。通常に比べると多く流れるのはほぼ間違いないなというのは、彼の論文を読んだり、周りのその分野の研究者の方と話をして感じていました。

――そのころ縣さんは?

縣:
そのころ私は現在の勤め先、国立天文台に就職して3年目で、広報や普及活動を担当していました。当日は天文台の同僚の人たちが、「アッシャーの予言どおりだったら、ものすごく流れるはずだ。」って、皆で暗いところで見ようと出かけてしまいましてね。私はほぼ一人で、国立天文台の三鷹のオフィスに残っていたんです。そこは明るいんですよ。流れ星があまり見えない場所に取り残されて、マスコミや一般の方からの問い合わせ対応をしていました。11月18日、夜の10時ごろです。

しし座というと春の星座ですよね。11月の夕方には見えません。この季節、春の星座であるしし座が地平線から昇ってくるのは、深夜11時過ぎなんです。ですから日本でしし座流星群の流れ星・群流星が見え始めるのはまだまだ先で、夜中の2時か3時になってからかな、みたいな感じだったんです。そこで私はその時間、地球は回りますのですでにしし座が空高く昇っている場所が他にありますよね。その海外の速報データをネットで見ていったんです。そしたら、「あれれれっ!」という感じなんですよ。

――ほう!

縣:
アッシャーの出現予報のグラフと同じように、明らかに数がどんどん増えているんです。極大に向かってですよ。もうすでに数が多いんです。アッシャー理論だとこれから日本の明け方にピークとなりますから、「これよりまだたくさん流れるんだ!」という、驚きですよね。これは大変なことになるなと本当に胸が高鳴って、どうきが激しくなりました。

夜の11時を過ぎて、まだ電話しても失礼じゃないなという友達や親しい人には電話を、ちょっと気を遣う人には電子メールで、「ぜひ見てください!」と片っ端から連絡しましたね。「もし後悔したくなければ、すぐにあなたの友達、家族もたたき起こして外に出てごらん!」と(笑)。ちょっと乱暴な連絡でしたけれども。

――でも逆に、縣さんから連絡が来なくて見損なってしまったと言われたら、それはそれでねぇ。

縣:
そういう方も実際にいらっしゃいました。僕が連絡しても聞く耳を持たなかったという人もいなかったわけではないので(笑)。

――そうなんですか(笑)。

縣:
はい(笑)。そのあと私は、国立天文台三鷹本部の研究棟の屋上に上がったんです。すると、はるか北東の低いところから、流れ星がいくつも見え始めていました。幸い晴れていまして、遠く地平線に近いところです。遠くのほうを、斜めに流れ星が飛んでいる様子がわかるんですよ。その後、天空のあちらこちらを舞い始めましてね。CCDカメラという観測用の撮影機材を準備して記録を取りながら、数え切れない流れ星を本当に夢のような気持ちで朝まで追いかけました。

――幸せな気分も、あったんじゃないですか。

縣:
そうなんですが、疲れ果てました……。

――そうですか(笑)。

縣:
と言いますのは、朝4時過ぎぐらいからNHKさん始めいろいろなところから電話がかかってくるわけです。どのぐらい流れましたか、どこで観測していましたか、誰にアポイントメントを取ればインタビューに答えてくれますか、予報どおりですか、予報より多いんですか、何年ぶりですか……もう、次々とマスコミから問い合わせがくるんです。誰もいないので一人で全部対応しなきゃいけないので、お昼過ぎになってようやく解放されたぐらいでした。

――それはそれは……ご苦労さまでした。

NHKアーカイブス NHKニュース「大出現! しし座流星群」2001年放送

2001年の大出現を予報したアッシャー理論

テンペル・タットル周期すい星(1998.1.24)

――イギリスの若き天文学者・アッシャーさんは、2001年の大出現をどうして予報できたんですか。

縣:
アッシャーさんが予報できたのは、母天体のすい星の軌道・通り道を、毎回正確に予報する軌道計算技術を身につけていたからです。コンピューターを使ってそういう計算をさせる能力があったことが大きいです。ちょっと詳しく説明していきましょう。

――お願いします。

縣:
しし座流星群の母天体のチリ粒を、宇宙空間、地球の周りに残していくのは(どういうことかと言いますと、この母天体は)「テンペル・タットルすい星」といいまして、これは33.2年、約33年で太陽の周りを回っています。地球は太陽の周りを1年かけて回っていますよね。

ほとんどのすい星の通り道・軌道は、地球の通り道とは交差しないのですが、テンペル・タットルをはじめいくつかのすい星は、地球が太陽の周りを回っている通り道の面で交差しているわけです。ですからしし座流星群も、ほぼ33年の周期でその出現数が増えたり減ったりしてきました。33年たって太陽に近づいたときだけチリ粒が出て、そのチリ粒の近くを地球が通り過ぎるわけです。すい星が来ていないときには、ほとんどチリ粒がありませんから流れません。

ペルセウス座流星群の流星(4時間半ほどの間に出現したものを合成)

縣:
ただしし座流星群は、夏のペルセウス座流星群や12月のふたご座流星群のように、毎年決まってたくさん流れるわけではないんです。周期性があるテンペル・タットルすい星は若いすい星です。若いから、こういう周期性があるんです。ふたご座流星群やペルセウス座流星群が毎年決まって流れるのは、昔からその通り道・軌道上にいる、昔からそこを回っているからなんですね。そうすると通り道でチリが広がっていきますから、大体どこを通っても流れ星となるチリ粒があることになります。

ところがまだ若いすい星の通り道に残っているチリ粒は、非常に偏りがあるわけです。帰ってくるすい星の通り道は、毎回ほぼ同じですけど若干ずれますでしょう? アッシャーが気がついたのはそこで、それを全部詳しく調べたんです。これを、「ダストトレイル」といいます。しし座流星群のような周期性のある流星群のチリ粒が、母天体のすい星から均等に拡散して広がっているのではなくて、ダストトレイルと呼ばれるチリの集団の中にだけ、チリがとどまっていると考えたわけです。

縣:
そうすると、すい星からいつも同じだけチリが放出されるのではなくて、あるとき一斉に放出されて、それがかたまりを作って太陽系の周りを回ります。そこをたまたま地球が通過するとき、つまりダストトレイルに地球の軌道がぶつかった年、これが2001年だったんです。1998年でも1999年でもなくて2001年に、すい星が通った通り道上を地球が通過するという詳しい予報を出せるようになったんですね。ダストトレイルの中を地球が通るかどうかで、流れ星がどれだけたくさん流れるかが予報できるようになった。これが、アッシャー理論です。

――ダストトレイルを地球が横切れば、流星もたくさん流れるということですか。

縣:
そうです。アッシャー理論は革命的な流星の出現数の予測理論で、流星群の出現数や極大時刻の予報を正確に示すことができるようになりました。ただし、すべての流星群でうまく結果が出せるわけではありません。

――と言いますと?

縣:
しし座流星群のように母天体であるテンペル・タットルすい星がまだ若くて、軌道にのって周り始めてからそれほどたっていないものであれば、トレイル上に確実にチリ粒が残っていますが、長い時間がたつと拡散していきますので、予報が難しくなるということになりますね。

NHK for School 「しし座流星群」

しし座流星群は気軽に星空を楽しむ原点

――先ほども縣さん、おっしゃいましたが、天文現象は本当に予報が難しいですね。

縣:
そうですね。流れ星に限らず、すい星がどのぐらい明るくなるかとか、予報は難しいです。

しし座流星群の1998年から2001年の騒動は、天文学者や天文ファンだけではなく、いろいろな人が天文に関心を持つ機会になりました。当時、全国の中学校や高校の生徒さんたちにとっては、カメラはあったほうがいいかもしれませんけれども少なくとも高価な望遠鏡は必要ないわけですから、流星群というのは観測しやすい研究テーマで、特に高校生たちがその観測に挑みました。眼視観測、写真に撮る、それから電波観測。例えば流星群が通ることによって、FMの電波にノイズが発生しますね。それで流星の数をカウントするという、これが当時はやったFM電波観測です。

その中心だったのが、愛知県立千種高等学校など全国の高校です。本当に大人顔負けの高度な流星観測をしていました。こうした生徒さんたちの活躍や研究成果を世の中に示す必要があるんじゃないかということを、JAXA宇宙科学研究所の吉川真さんが考えまして、吉川さんを中心にして発表する機会を作っていくわけです。これが日本天文学会で毎年春に行われている、中学生・高校生の研究発表の場「ジュニアセッション」です。2000年の4月に東京で第1回が開催されました。

私が教員をしていた時代、20年以上昔ですけれども、1クラスは40人ぐらいでしたよね。多くの生徒はまず運動系のクラブに行きますよね。それから吹奏楽部や音楽部、美術部などで、天文部・天文クラブに入る生徒は40人いて1人いるかいないかくらいでした。天文クラブのない高校も多かったかもしれません。

ところが1998年の少し前ぐらいから、高校生が自分たちで観測できるテーマとして流星観測が意識されるようになってきて、本当にすばらしい観測ができていました。アマチュア天文家の皆さんも、若い人たちに門戸を開いていたんです。毎年開かれるアマチュアたちの研究会の「流星会議」や「彗星(すいせい)会議」に、高校生が参加するのもごく普通のことでした。そういう風土といいますか関係があったので、いろいろなところで発表している高校生たちの様子を見て、これはもっとみんなに聞いてもらおうと、それが日本天文学会ジュニアセッションの始まりにつながったわけです。

――そうなんですねぇ。

縣:
これがきっかけで、あるいはそれと前後して、1999年の3月には東京大学の木曽観測所で、高校生がそこに寝泊まりをして天体観測を体験する「銀河学校」が始まります。高校生たちが、プロの専門の観測装置や望遠鏡を使って研究できるというものです。また1999年の8月には、国立天文台三鷹でも同じように合宿をして研究観測をする「君が天文学者になる4日間」、通称「きみてん」が始まりました。こうした銀河学校や「きみてん」での成果、しし座流星群観測のムーブメントから始まった中学生・高校生たちの研究活動の成果が、個人で発表するケースもあると思うのですけれども、ジュニアセッションで発表されていくわけです。

「きみてん」は、10数年やって残念ながら今はやっていませんが、「きみてん」をきっかけに「君が作る宇宙ミッション」、通称「きみっしょん」がJAXA宇宙科学研究所で始まり、今も相模原キャンパスで続いています。他にも東北大学やさまざまなところに飛び火して、研究者のように観測する日常を4日間とか3日間、経験する機会がこの時期に増えました。そういったものも含めて、高校生・中学生の発表の場がいくつもできていったんです。ジュニアセッションは毎年、天文学会の春の年会で開かれていて、来春2024年3月には東京大学で26回目が開催の予定です。

――しし座流星群を契機にして、日本の天文学のすそ野がさらに広がったと言えますね。

縣:
はい。このころ中学生や高校生でこういう経験をした子たちが、今では大学や大学院で天文学を研究して、次々とすばらしい研究者として活躍しています。のみならず、われわれ日本人が星や宇宙に関心を持つ機会、気軽にアプローチする時代が、しし座流星群を契機に起こったと言えると思います。

天体望遠鏡やカメラを持たないで気軽に星空を見る、「宙(そら)ガール」という言葉もありますよね。また「星のソムリエ」とか「宙(そら)ツーリズム」、これは星空観光です。長野県阿智村や沖縄県石垣島、岡山県美星町、最近だと福井県大野市や東京・神津島などで、星空観光、宙ツーリズムも盛んになってきました。星空を気軽に楽しむ文化が盛んになった原点が、しし座流星群だったんじゃないかなと個人的には思っています。

――きょうも縣さんに熱い話をしていただきました。ありがとうございました。

縣:
ありがとうございました。


【放送】
2023/11/27 「ラジオ深夜便」

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