海は広いな、大きいな ~あるがままを感じる瞑想~

23/12/11まで

ラジオ深夜便

放送日:2023/07/19

#医療・健康#カラダのハナシ#ココロのハナシ

健やかな暮らしのヒントをお送りする「からだの知恵袋」。心の健康をテーマに、リラックスやリフレッシュにつながる瞑想(めいそう)法をご紹介しています。

今回は、仏教で大切にされてきた2種類の瞑想について、禅僧で医師の川野泰周(かわの・たいしゅう)さんに話を伺いました。
※なお今回のお話は、11月の放送でご紹介する内容に関係する部分がありますので参考にしてください。(聞き手:齊藤佳奈ディレクター)

川野泰周さん

【出演者】
川野:川野泰周さん(林香寺住職、精神科・心療内科医)

仏教に伝わる二つの瞑想

――さて、きょうは…?

川野:
「♪う~み~はひろいな、おおきいな~♪」と楽しいタイトルを付けてもらいました。

――歌がお上手ですね!

川野:
とんでもないです(笑)。
今回は、「あるがままを感じる瞑想」ということですが、実はこのあるがままを感じる、というのが仏教の瞑想ではとても大切なことなんです。きょうは少し専門的なお話をしましょう。

――はい。

川野:
皆さんは「瞑想」とか「マインドフルネスの瞑想法」と聞くと、どんな物事を思い浮かべるでしょうか?
きっと、呼吸に意識を集中させる「呼吸瞑想」、坐禅(ざぜん)をしているお坊さんのようなイメージを抱くのではないかと思います。また、こうした瞑想以外にも、例えば、足の裏に感覚を集中する「歩く瞑想」、食べる行為に意識を向ける「食べる瞑想」などもありますね。共通しているのは、ひとつひとつの行動を丁寧に、感覚を研ぎ澄まして行うということです。

仏教には、瞑想の種類を分類するための大切な観点があります。それは、

  • 「サマタ瞑想」(日本語では「止瞑想」)
  • 「ヴィパッサナー瞑想」(日本語では「観瞑想」)です。

いずれも2500年以上前にブッダが実践したことから仏教瞑想として位置づけられています。この2種類の言葉で特徴的なのは、瞑想でどのように座るか、どのように動くかといった「外側から見える違い」ではなく、「何に注意を向けて瞑想するか」という「心の内側のスタンスの違い」によって分類されているという点です。つまり、同じように坐禅のような姿勢で座布団の上に座って背筋を調えて瞑想をしていても、その注意を自分の心だけに向けているのか、それとも、聞こえてくる鳥のさえずりなど外界の情報にも注意を向けているのかで、サマタ瞑想にも、ヴィパッサナー瞑想にもなり得るということなんです。

「止瞑想」は一点集中の瞑想

――なるほど。自分自身の呼吸に意識を向ける、という呼吸瞑想は…

川野:
基本的に「サマタ瞑想」の一つとして位置づけられます。「サマタ」は古代インドの言葉であり、漢字にすると「止める」という意味を持ちます。ですから「止瞑想(しめいそう)」と呼ばれるわけです。
英語では「focused attention」と訳されます。つまり、「一点集中型の瞑想」というわけです。
呼吸瞑想は基本的に、呼吸にともなって鼻の穴を出入りする空気の流れに注意を向ける、あるいは体が膨らんだりしぼんだりする感覚に注意を向けて、途中で雑念が生じても、そのつど呼吸に意識を戻すようにする瞑想法でしたよね。古い経典によるとこのサマタ瞑想は、怒りや貪(むさぼ)りの心を静める瞑想とされています。
古代インドにおいてもブッダはまず、このサマタ瞑想を実践するところから瞑想修行を始めたとされています。こうして、怒りの心を静めて、物事に対する欲を手放すことができるようになった人を想像してみるといかがでしょうか? どんなことがあってもびくともしない悠然とした心。例えて言えば、あの戦国武将、武田信玄が敬った禅僧「快川国師(かいせんこくし)」が、信長の軍勢が放った火に包まれてなお発した、「心頭を滅却すれば、火もまたおのずから涼し」の精神と言えるかもしれません。まさに精神修行を極めた達人のような強靭(きょうじん)な心ですね。

――そうですね。

「観瞑想」はパノラマの様に

川野:
しかし、ブッダの瞑想修行は、このサマタ瞑想で終わりではなく、さらなる瞑想修行が必要だと考えました。それは何故でしょうか? 少し考えてみましょう。
サマタ瞑想で心の動きや乱れをピタッと止めて、静かで平和な精神状態を体現できたとします。つまり「自分の中の部分」は安寧、安心そのものというわけです。そのまま日々を送れば、なんの問題もなく人生を全うできるわけです。しかし、この姿勢はそれこそ山奥で世俗を離れて暮らす仙人のようだと私は思うのです。山奥でひっそりと一生を送れば、たしかにその人の心には何の曇りも不自由もなく、彼自身の人生は満足と言えるでしょう。でもブッダは、その境地に至ってなお、新たな修行を続けることを選びました。

それが、「ヴィパッサナー瞑想」です。
これもまた古代インドの言葉で、漢字にすると「観察する」の字から「観瞑想(かんめいそう)」と呼ばれています。英語では「open monitoring」と訳されます。つまり、サマタ瞑想で心の働きを止めるだけでなく、そこから自分や他者、さらには世の中全体を「観察する」瞑想に進んでいったというわけです。マインドフルネスの分野では、「注意をパノラマ的に広げる瞑想です」と説明されることがあります。

――このヴィパッサナー瞑想は、以前お散歩中にできる瞑想として、少しご紹介しましたね。

川野:
そうですね、公園を散歩するにしても、鳥の声、水の音、お子さんの声といった、外側の世界で起こっていることにも注意を広げていく、と説明したと思います。
呼吸などの一点に注意を集中させるサマタ瞑想に対して、注意をまるで、扇子を広げるようにしてパーッと外の世界に、あるいは自らの心や体の状態にもむけて広げていく、それが「ヴィパッサナー瞑想」なんですね。
視野を広げて、今ここで起きているあらゆる現象を観察する瞑想、と言い換えることができます。

観瞑想で育む心の在り方

川野:
仏教の経典によればこの瞑想は、物事の真実を見極める「智慧(ちえ)」を獲得する瞑想とされています。ただ単に、自分の中で心を静めておけば万事OK、というわけではなく、社会の中で起こっているさまざまな現象や問題に対して、自分自身に何ができるのかを智慧の目で見極めていく、そんな姿勢を、ブッダもこの瞑想を通して確立していったのではないかと思いますね。

実際にブッダはこれら2種類の瞑想によって35歳でお悟りを開いたのち、80歳で亡くなるまでの実に45年もの歳月を、山奥に隠とんするのではなく、市中で悩んだり、苦しんだりしている人の元を訪ね歩き、教えを説いて過ごしたそうです。

きょうはそんなヴィパッサナー瞑想を、体験いただきます。最初は呼吸瞑想を行い、だんだんとヴィパッサナー瞑想に移っていく、という手法をご紹介します。ヴィパッサナー瞑想については世界でも複数の流派がありますし、指導・実践の仕方も異なります。今回体験いただく瞑想法は、私なりに、多くの方に実践いただけるようアレンジして「あるがままを感じる瞑想」と題してお送りします。

――そしてきょうは鳴らし物を使ってくださるんですね。

川野:
はい。瞑想の始まりと終わりの合図に、チベットで作られた鳴らし物、ティンシャの音を入れます。

「ティンシャ」

あるがままを感じてみよう

(♪BGM:広橋真紀子「静けさの彼方で」)

姿勢:
椅子に浅く腰掛けるか、床に楽に座って、頭のてっぺんを天井から一本の糸でつり上げられているようなイメージで、背筋を軽く伸ばします。手は手のひらを上にして、ももか膝の上に置くのが基本ですが、両手を組んだりしても構いません。

呼吸の仕方と目:
呼吸は鼻から吸って鼻から吐くことを基本としますが、鼻が詰まっているなど、口の方が自然にできる方はそれでも結構です。あくまで自然に呼吸できる方法を選んで下さい。
目は軽く閉じるか、坐禅のように数メートル先の床の一点を見る「半眼」にします。

深呼吸から自然な呼吸の観察へ:
ゆっくりと2~3回、深呼吸をして心をリセットします。そのあとはもう、呼吸をコントロールせず、ありのままの呼吸を観察します。鼻の穴を出入りする空気の流れを感じるか、お腹や胸がふくらんだりしぼんだりするのを感じます。腹式呼吸を意識せず、あくまで自然な呼吸で胸やお腹が空気で満たされたり、空になったりするのを感じるだけです。

雑念が生じても、それを消そうとするのではなく、優しくおおらかな気持ちで「よし、もう一度呼吸に戻ろう」と心の中で宣言をして、注意を呼吸の観察に戻します。

呼吸瞑想から注意を広げる:
そのままの姿勢で、注意の範囲を広げ、あるがままの感覚を受け入れていく瞑想に進みます。
呼吸への注意は心の片隅に維持したまま、体の感覚、あるいは心の中に生じる感情や思考など、今この瞬間に感じていること全てに、平等に注意を向けてみましょう。感じたこと全てをそのまま受け入れるようにします。

全ての情報を観察する:
外界から聞こえる音、見えている物、光、匂いに意識が行くこともあると思います。体のどこかがかゆくなったり、痛みを感じたりするかもしれません。心の中にネガティブな感情や考えが沸き起こることもあるでしょう。今生じているそうした感覚が、どのような性質のものであっても、それに反応せず、ただ観察し続けるようにします。そして心の片隅で、自然な呼吸への注意を保つようにします。

深呼吸してリセット:
最後に深呼吸をして、心の中をスッキリと調えます。
少しずつ目を開けて楽にします。お疲れさまでした。

川野:
前半部分は「呼吸瞑想」をしていただきましたが、後半で、注意の対象をパノラマ的に、扇のように広げてゆくのは難しいと感じた方も少なくないかもしれません。大切なのは「継続すること」です。少しずつでも着実に、外側から感じること、そして自分の内側から感じることを洞察する力を深めていきましょう。最初は静かなお部屋の中でゆったりと座ってするのがお勧めですが、慣れてきたら電車やバスの中、公園のベンチで、オフィスやカフェで休憩しながらでも実践することができます。

――気分転換にもなりそうですね。

禅語「薫風自南来」

川野:
最後は禅語のお話です。
中国は唐の時代の政治家で、書家でもあった柳公権(りゅうこうけん)という人が詠んだ詩に、「薫風自南来(くんぷうじなんらい)」という禅語があります。この言葉には続きがあって、さらに「殿閣微涼(でんかくびりょう)を生ず」とうたわれています。(殿閣=宮殿、ここでは「その場所」ととらえます)
この言葉を禅的に解釈すれば、「さまざまな迷いを、清々しい一陣の南風、薫風によって吹き払ってしまえば、そこにはサッパリとした清々しい涼しさを感じることができる」といったところでしょうか。日々の暮らしの中においても、今ここで感じるあらゆる物事へ等しく注意を振り向けて、それをあるがままに受け入れることによって、私たちの心も執着と苦しみから自由になることができるのではないかと思います。

――ありがとうございました。

おまけの知恵袋「うみ」

――タイトルの童謡「うみ」のお話ですが、まさに今回の話は、「海は広いな、大きいな」と感じようっていうことですよね。

川野:
まさにそれが等しく注意を向けること、と言えるでしょうね。

――そこから心が前向きなる、という意味で、私は三番の歌詞がとても好きなんです。
「~♪うみにおふねをうかばせて、いってみたいなよそのくに~」ってありますけれども、あるがままに受け入れて、それに乗っかっていけたらいいなと感じました。

川野:
ああ! なんだか夢や希望につながるイメージがしてきましたね!

川野「私もよく海を散歩して心を調えます」


【放送】
2023/07/19 「ラジオ深夜便」

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