【大竹しのぶ サイコロ回顧録】1987年『奇跡の人』があったから

24/04/03まで

大竹しのぶの“スピーカーズコーナー”

放送日:2024/03/27

#ライフスタイル#映画・ドラマ#舞台

放送を聴く
24/04/03まで

放送を聴く
24/04/03まで

しのぶさん、「言の葉種(ぐさ)」のコーナーで、舞台で共演している加藤諒(りょう)さんについて教えてくれました。最後まで稽古場に残って練習したり、幕が開いてからも、誰もいない舞台でご自分のナンバーをすべて練習している諒さん。ある日、歌を1拍だけ間違えてしまったあと、反省して遅くまで楽屋にいた諒さんをなんて純粋な子なんだろう、と思ったそうです。
今回のサイコロ回顧録は、デビュー前の「1970年」を少しと、服部晴治(せいじ)さんとのお別れの年「1987年」。


大竹しのぶの“スピーカーズコーナー”
R1・ラジオ第1 毎週水曜日 午後9時05分~9時55分

詳しくはこちら

13歳? まだデビューしてない、さすがに!

私、大竹しのぶは去年(2023年)の秋、デビュー作のドラマ『ボクは女学生』の放送開始から50年を迎え、うれしくないけど芸能生活50周年イヤーに入っています(笑)。そんな節目の年を迎えたのを機にこれまでの活動を振り返りつつ、お世話になったみなさんに感謝を伝えていこう、というのがこのコーナー。
今、スタジオにはですね、年代別に私の出演作などをまとめたリストと、サイコロが2つ用意されています。サイコロは、1つが、私がデビューした1970年代の“197”から2020年代の“202”までの数字が書かれた六面体、もう1つが、0から9までの数字が書かれた十面体。この2つのサイコロを振って、出た目の年代の作品について振り返りたいと思います。

前回は、私が16歳のときのデビュー作、1973年、昭和48年の『ボクは女学生』のお話でした。

【大竹しのぶ サイコロ回顧録】1973年「わあ、おいしそう」(2024/03/20放送)

それに続く今回は何が出るんでしょうか。さっそくサイコロを振ってみたいと思います。
サイコロ、サイコロ、サイコロ、ぷるぷるぷる~♫(サイコロを振る)

1970!?

そんなの、まだデビューしてないよ! まだデビューしてない、さすがに! 13歳? 13歳の思い出? 中学1年生? なんだろう……。
体操部だったんですよ、私。あははは(笑)。意外でしょう? ダンスをする体操のやつ。今でいう新体操、ではないんだけど、新体操みたいにボール持ったりとかひも持ったりとかして。
兄が体操部だったっていうこともあって、私も体操部に入って、マット運動とかやってたんですよ。……バレー部はなかったのかなあ。卓球部と体操部とバレー部と迷って体操部に結局入って、最後キャプテンになったんですよ私。あはははは(笑)。そんな中学生ですけれども。

お芝居に支えられた1か月

じゃあ、サイコロ振り直したいと思います。ちゃちゃちゃちゃちゃ~ん♫(サイコロを振る)

……1987年?

1987年って前に出たかなあ? 出てない? これは……いやあ、これは……、これはもう話すことがいっぱいあり過ぎちゃいますねえ。30歳ですね。
ドラマでは『家政婦・織枝の体験 5』『くらやみ祭に人が死ぬ』『男女7人夏物語 評判編(生放送だよ! さんちゃん・しーちゃんのなんでもトーク)』『(水曜ドラマ)ばら色の人生』『(木曜ゴールデンドラマ)手枕さげて』『(金曜ドラマ)モナリザたちの冒険』『男女7人秋物語』、映画『青春かけおち篇』『永遠の1/2』、舞台『奇跡の人』、報知映画賞主演女優賞。
えぇ、そうだった。ほんとにほんとにありがたいことですね。

あー、「こころくん・こころさん」と「かまっておんど」も出してますね。すごいねえ、映画に舞台にドラマにねえ。子どもが、二千翔が2歳のときかな。
♫こころ ころころ こころ ころ こころくんってなんだろう♫
♫あぁー かまって かまって かまって かまって パパ ママかまって ボクにかまって いつでも かまって♫……全然感謝を述べるコーナーになってない。
♫かまって くれなきゃ グレちゃうぞ♫って2曲ともつかこうへいさんの作詞で、当時はレコードですね、出しましたね。

あと『奇跡の人』もやりましたね。「アニー・サリヴァン」という、言葉があるということをヘレン・ケラーに教える家庭教師の役でした。
でもこの年はね、本当に大変な年でして、二千翔の父親である服部晴治さんとの別れの年であったわけで、その中で看病しながら、奇跡の人、アニー・サリヴァンのお芝居をやっていましたね。
で、その彼の容体が悪くなったのがその稽古中だったんですね、7月で。8月が本番だったんですけども、7月17日に心電図をつける容態になってしまいまして、私は病院から稽古場に通っていました。
なんかね、きょうはちょっと、悲しい話が重なってしまうんですけども。
(注:今回の「喜or怒or哀or楽」は、IMALUさんが生まれたころから約20年家政婦をしてくださった方が亡くなったというお話でした)

(服部晴治さんが)亡くなったのが24日だったんですけども、だから稽古、2日間かな、お休みさせてもらって、お別れの会をして、まあ……、うーん、それでそのまままた舞台稽古だったんですけれども、その稽古中もやっぱり、なんですかね、こう、みんなには言えないわけですよ。今、大変な状況だっていうのを。たぶんプロデューサーにも言ってなかったんですね。
だから休憩時間になると、ヘレン・ケラーの使ってるベッド、舞台装置のベッドで10分だけちょっと目つぶったりして。で、ちょうどその頃は誕生日だったんで、稽古終わりで「ハッピーバースデーしのぶちゃん」みたいな感じでケーキを用意してくれてたんですけども、私は一刻も早く病院に行きたかったから「ああ、ごめんなさい、ありがとう」だけ言って。みんなもおかしいな、とは思ってたと思うんですけど。
で、まあ、7月にさよならをしてしまいまして。

そのときの演出家の人がですね、アメリカからいらしたテリー・シュライバーさんという方で、もちろん告別式にも来てくださって私の手を握って、しのぶさん、と言って、最初のエジプトの方のメッセージとつながるんですけれども、「この芝居は、命を与える芝居です。あなたはこれからもたくさんの人に命を与えてください」っておっしゃったんです。
(注:今回のオープニングトークでは、放送日の3月27日が“ワールド・シアター・デイ(世界演劇の日)”ということで、エジプトの俳優サミーハ・アユーブ氏が昨年発信したメッセージの一部を読み上げました)
私は、その言葉はたぶん一生忘れないと思うんです。

幕を開けるしかないので、頑張ってやりましたね。で、ほんとに芝居に支えられた1か月だったかな、って思います。息子はまだ2歳、きっとわけわかんないときだったし、私は毎日毎日、お芝居の中に、さっきの言葉じゃないけどもほんとにお芝居してるときは全てを忘れて、そのアニー・サリヴァンという役になるということで、ほんとに自分自身がそこで生きていられたっていう感じでしたね。

で、今でも忘れられないのは、奇跡の人を日生劇場でやっていたんですけども、8月の末に千秋楽を迎えたときに、劇場のチケットを売る方たちとか、あと劇場の案内をする女性の方たちが全員、1階席の後ろに並んで、私に向かって拍手をしてくれてたんです。
もうその光景は忘れられません。ああ、この方たちもずっと応援してくださってたんだなって思うと、ほんとにうれしかったですね。だから、芝居をやることはとても肉体的にも精神的にもつらかったけれども、奇跡の人という芝居があったから私はあの夏を乗り越えられたんだなあ、っていう気がします。

30歳。今から36年前のことなんですけれども、まるできのうのことのようによみがえります。だから、今では日生劇場に行くとそのときのことを思い出して、私はすごい元気になります。いろんな思い出がある劇場です。
今回お送りしたのは、1987年。私が30歳の年でした。

大竹しのぶの“スピーカーズコーナー”

ラジオ第1
毎週水曜日 午後9時05分~9時55分

詳しくはこちら


【放送】
2024/03/27 「大竹しのぶの“スピーカーズコーナー”」

放送を聴く
24/04/03まで

放送を聴く
24/04/03まで

この記事をシェアする

※別ウィンドウで開きます