【大竹しのぶ サイコロ回顧録】1979年 女工哀史ならぬ女優哀史?

24/02/07まで

大竹しのぶの“スピーカーズコーナー”

放送日:2024/01/31

#ライフスタイル#映画・ドラマ#舞台

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12歳のリスナーさんからの「毎週水曜日はお母さんと一緒に聴いています」というかわいらしいメッセージから始まり、テストや受験、留学など、未来に向かって頑張っているリスナーさんや、お子さんのサポートを日々頑張るリスナーさんからのメッセージがたくさん届きました。「パチパチパチパチ(拍手)! フレー、フレー、フレー! ついでに私もフレー、フレー、フレー!」としのぶさん。
今回のサイコロ回顧録は「1979年」、映画『あゝ野麦峠』撮影時の思い出いろいろ。


大竹しのぶの“スピーカーズコーナー”
R1・ラジオ第1 毎週水曜日 午後9時05分~9時55分

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「監督さん、ありがとう。歌を歌います」

私、大竹しのぶは去年(2023年)の秋、なんとデビュー作のドラマ『ボクは女学生』の放送開始から50年を迎え、……自分で言いたくはないんですけど、全然うれしくもないんですけど、芸能生活50周年イヤーに入っています。そんな節目の年を迎えたこれを機に、これまでの活動を振り返ってみよう、そしてお世話になったみなさんに感謝を伝えていこう、というのがこのコーナーでございまして。
今、スタジオには、年代別に私の出演作などをまとめたリストと、サイコロが2つ用意されています。サイコロは、1つが、私がデビューした1970年代の“197”から2020年代の“202”までの数字が書かれた六面体、もう1つが、0から9までの数字が書かれた十面体。この2つのサイコロを振って、出た目の年代について振り返ってみたいと思います。

前回は2004年、平成16年、舞台『太鼓たたいて笛ふいて』のお話です。

【大竹しのぶサイコロ回顧録】井上ひさしさんの言葉(2024/01/17放送)

(舞台『太鼓たたいて笛ふいて』を)ことしもね、秋にやりますけれどもね、それに続く今回は何年が出るでしょうか~。さっそくサイコロを振って、その年について振り返っていきたいと思いましゅ~。
せーの、パリラリラリラリラ~ン♫(サイコロを振る)

……いちきゅうななきゅう……、1979年!

これは22歳。えー、そうか。ドラマ『東芝日曜劇場 姉妹 -その二-』『東芝日曜劇場 遠い絵本』『東芝日曜劇場 女の部屋』、映画『あゝ野麦峠』『衝動殺人 息子よ』これは木下惠介さんが監督。吹き替え『ウエスト・サイド物語』マリア役、舞台『にんじん』、第3回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞……違う、ウソついた。優秀主演女優賞だ。あっはっはっは(笑)、最優秀じゃなかった、あっはっは(笑)、優秀主演女優賞だった。
そうですね、『にんじん』は男の子をやってほんとうに楽しかったですね。それで60歳を記念にまたそれをやりましたけど、えー、何について話そうかな。

『あゝ野麦峠』かなあ。山本薩夫(やまもと・さつお)監督ですね。『戦争と人間』とかすばらしい映画をたくさん残した山本薩夫監督の『あゝ野麦峠』という作品です。
明治時代で、文明開化で、日本が経済で成長しようとしていたときで、その頃は絹、絹、絹を作れということで女工をたくさん雇って、製糸工場で絹を作るという。そこへ貧しい農村とかから少女が売られていくわけですね。で、繭から絹糸を作るんですけども、女工の少女の生涯を……生涯と言っても私の役の「みね」っていうのはすごい働かされて働かされて病気になって、食事もろくに与えられずに、信州から故郷(くに)へ送り帰されてしまうんですね。そしてお兄さんが迎えに来てくれて、で、もう少しで自分のふるさとに帰れるっていうところで「ああ、飛騨が見える、飛騨が見える」と言って亡くなっていくという、ほんとうに薄幸な少女をやりました。

撮影に半年以上かかったかな。その年は全く雪がなくて、雪を求めて東北に行ったり北海道に行ったり、もう大変な思いをしました。雪の野麦峠を越えてその製糸工場に行くっていう設定だったんで、行軍っていうんですかね、何百人の少女たちが雪の山を歩いていくっていうのが一つの大きな、物語のすごいシーンだったので、雪の中を歩くっていうシーンを撮るのにあっちで歩いてこっちで歩いてみたいな。北海道に行ったり秋田に行ったり、もう、すごい大変な撮影だったんですね。
それで、絹糸を繭から作る工場でのシーンも、ずーっと1週間以上、2週間ぐらいかな、実際に工場のセットを作って、岡谷(おかや)の工場を再現して同じように動かして、毎日朝から夕方まで繭玉を相手に練習してたんです。繭ってすごいにおいがして、電車に乗るとうわ、くさい、って人から見られるぐらい体ににおいがついて。ずーっと朝から晩まで両手を動かしながら、で、顔を洗うときも工場の機械に見えて、顔を洗いながら自分は絹糸を動かしてるような錯覚にとらわれるように、もうほんとうに毎日毎日大変な撮影だったんですけれども。

地元のその土地土地で、エキストラの方をお願いするんですね。だけどそんなに少女はいないわけですよ。で、ロング(ショット)だから少女じゃなくてもいいからってことで、おじいちゃんとかおばあちゃんが少女の着物着て、一緒に私たちと歩いてくれましたあ(笑)。
おじいちゃんが赤い腰巻き出してくれて。寒いのに。で、私がありがとうございます、ありがとうございます、って土地土地のおじいちゃんおばあちゃんに言ったら「いや~、なんもないさ~、なんもないさ~。楽しいねえ~。寒くないかい?」って言って下さって、もうほんとに、それぞれの場所でお世話になったことが今も忘れられません。

でもすっごく大変な撮影で、しかも制作がケチだったんですよ(笑)。お弁当がほんとにおにぎりとたくあん、それだけだったんですよ。これマジで。それでも私とかはまだ女の子だから足りるけども、スタッフさんとかは足りないじゃないですか。それで、ストを起こしたらいいかなあ、とか。もうそのぐらい大変な状況で。
で、大体山の中で泊まってたので、ドライバーさんが時々町に下りて買ってきてくれるサバの水煮とかイワシのナントカ煮とかの缶詰を「これしのぶちゃん食べるかい?」って言ってくれて「ありがとうございますぅ~」って。ほんとに“女工”哀史と“女優”哀史と変わらないんだなぁ、みたいな感じの撮影でした。
時々、村の人たちが豚汁とかを作って下さって、で、「豚汁ができましたあ~」って。でも私トロいから、行くと「もうないよ」って言われて、ほんっとに悲しかったあ。

えっ? 悲しい記憶しかないじゃん、それじゃあ。
でもほんとにすばらしい映画で、山本薩夫監督はほんとにすばらしい監督でした。くたびれたとかそういうことは一切言わない。スタッフさんみんなで機材を山に、一人一人、重いカメラや照明器具を持って運ぶわけじゃないですか。監督ご自身も、手ぶらで上ったことも手ぶらで下りたこともないですね。
で、私は今でも覚えてるんですけども、泊まったとき、「もうあんなすてきな監督さんはいない」って言って、夜、監督さんの部屋にドン、ドン、って行って「監督さん、ありがとう。歌を歌います」って歌ったことがあります(笑)。
びっくりしたと思いますね、監督さん。でも、ありがとうの気持ちを歌で表そうと思って。はっはっは(笑)。かわいかったねえ。ほんとに素直だったねえ。22歳のわりには15歳ぐらいの心でしたねえ。
『あゝ野麦峠』、とにかく監督とスタッフさんに、そしてお世話になった土地土地の方にただただ感謝する作品でした。
ああもう全然話し足りない、この感謝の気持ちは。ほんとにありがとうございました。

ということで、1979年に公開されました映画『あゝ野麦峠』のお話を振り返りました。

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