CODA(コーダ)として生まれて嫌いだった手話が、う余曲折の末に自身の人生の柱に

23/08/21まで

眠れない貴女へ

放送日:2023/08/13

#インタビュー#コミュニケーション

手話通訳のほか、CODAとして手話にまつわるさまざまな活動をしている武井誠さんに、手話が第一言語として育った環境や音声でのコミュニケーションを身につけることができた経緯、3歳のころから親の手話通訳を務めて家を支えながらも手話に対して良い感情を持てなかった子ども時代、そしてだからこそ、ろう者と聴者の懸け橋になるような活動をするに至ったことなど、興味深いお話を伺いました。

【出演者】
武井:武井 誠さん(ゲスト)
和田:和田明日香さん(ご案内)

武井 誠さん

【武井 誠さんのプロフィール】
1976年、東京生まれ。手話通訳士。文教大学非常勤講師。両親ともに耳が聞こえないろう者の家庭に生まれ、手話のネイティブサイナー「CODA(コーダ)」として育つ。手話と音楽の融合を志し、大学在学中に手話バンド『こころおと』を結成。さまざまなミュージシャンと手話とのコラボレーションを行う。音楽活動のほかに、テレビドラマの手話指導や、劇団の手話監修・通訳、企業での手話コーディネート、各地における手話教室の講師等も行っている。また、TOKYO2020オリンピック・パラリンピックに手話通訳統括として参加した。

CODAとして育つということ

和田明日香さん

和田:
「CODA(コーダ)」という言葉は、皆さんご存じでしょうか。耳が聞こえない、または聞こえにくい親のもとに生まれた聞こえる子どものことを「CODA(Children of Deaf Adults)」と呼ぶのですが、昨年アカデミー賞で作品賞を含む3冠を受賞した映画『コーダ あいのうた』は、耳が聞こえない家族の中で唯一聞こえる娘・ルビーが主人公でした。そこでCODAを知った方もいらっしゃるのではないでしょうか。私もこの映画大好きです。
まさに武井さんもそのCODAなのですが、お父様は日本人、お母様はアメリカ人、そしてご両親ともに耳が聞こえないという環境で育った武井さんの子ども時代を伺いました。

武井:
親の話によるとですけど、僕のいわゆる第一言語は手話だったらしくて、声でコミュニケーションをとるっていうふうに自分で認識してなかったので、いわゆる音は耳が聞こえるので反応するんですけど、コミュニケーションはもう主に、特に2歳ぐらいまでは手話でしかとってなかったらしいです。

親の聞こえる友達が家に遊びに来たときに、僕は武井誠なので「誠くん」とか「誠ちゃん」って声をかけてくれる。で、耳が聞こえるので目は反応するんですけど、コミュニケーションとは思ってない。その代わり、親に手話で話しかけられたりすると、わーって手話で話すみたいな形で、本当にこう、手話が一番目の言葉として育ってました。ただ、その時に来た親の友達が、「あ、これはまずい」ってなったらしくて。で、入れ代わり立ち代わりうちに来るようになって、音声でもコミュニケーションをとるんだよってことで、パパとかママみたいな形で言葉を教えてくれて。音声でもコミュニケーションを取るんだってことを理解して。

だから例えば、保育園とか幼稚園とかに行くっていうような手段もありますし、そういうのであればそこで音声でのコミュニケーションを学べると思いますし。少なくとも家にはテレビがあったりとかして、テレビでその音声のデータを蓄積して、しゃべれることに近づいていくっていうことになるんでしょうけど。

一例として僕の家の場合ですけど、小学校に上がるまで自分の家のテレビ、音が出るって知らなかったんですよ。テレビ自体は自分の家以外にもいくつもあって、音が出るっていうのは何となくは知識で知ってましたけど。でも、うちのテレビは音を出さずに、ただひたすら映像だけが流れている。でも、たまたま小学校に上がって友達ができて、友達の家に遊びに行ったらうちと全く同じ型のテレビがあって。で、そこにアニメが流れてて音も出てるわけですよ。「なんだこれは」ってなって友達に聞いて、いや別にまぁスイッチをこう回せば音が出るみたいに言われて、すぐに家に帰ってスイッチつけて、こうガッとひねったら音が出てアニメが流れて。「言ってよ!」みたいな感じで。

だから本当に音のない環境に育つっていうのは、例えばもう僕がテレビの音を出すまでは生活音ぐらいしかないわけですよ。静かっていうのもまたちょっと違うんですけど、生活音はしているわけで。だけどもコミュニケーションは手話でするっていうことなので、音声言語の獲得にちょっと苦労しつつ育ったみたいな感じの環境でした。

和田:
うーん、テレビがあっても音が出ていないとか、第一言語が手話だというのも、もういかに我々聞こえる人間の常識がね、その中だけの常識なのかっていうことを思い知りますね。

3歳にして手話通訳に

和田:
CODAとして育った武井さんは、子どもの頃から耳が聞こえないご両親の手話通訳もされていました。

武井:
もう3歳ぐらいの時には、わりと親の通訳に行くという、3歳にしてもう親の通訳をするみたいな。まああの、たまたまなんですけど、いわゆる手話通訳の派遣制度って結構全国にちゃんとあるんですけど、たぶん東京で一番最後の方にできた場所に住んでたので。僕が17~18歳ぐらいのころにできるまで手話通訳がなかった、となると、もう手話通訳やる人がいないので、僕が親の通訳をしてたみたいな。ですから、5歳ぐらいで自分の家の学資保険の契約を僕が通訳するっていう感じで、家の年収とか、月々どれぐらい払えるかとか、そういうのも小学校上がるぐらいにはもうバッチリわかってるみたいな。あと、僕が3歳ぐらいになるまで家に電話がなかったんですよ。必要なかったので、コミュニケーション手段として。だけどもまあ、僕がしゃべれるっていうことがわかったら、じゃあ電話ひこうってなって電話をひく。そうすると、家の電話の応答とかもすべて僕がするっていう感じで。本当にもう小さいころから手話通訳をずっとしてて。

通訳をするということ自体は、まあ日常のもうルーティーンに入っているので、当たり前といえば当たり前なんですけど。やらないと自分の家の、武井家としての生活がまわらないっていうのも、年を取れば取るほど見えてくる。だからその葛藤にさいなまれるというか。まあ本当にだから、嫌なことを強制的にしなきゃいけなくなるっていう環境。もちろん今ほどヤングケアラーみたいな言葉っていうのは、その当時にはなかったので、自分をこう卑下するまでいかなかったですけど、でも、こう手話を使うっていうことはイコールもう労働じゃないですけど、親の手伝い、イコール手伝いっていうことで。だから本当にもう、手話に対していいイメージがないっていうか、もう大っ嫌いみたいな。で、親が聞こえてればこんな苦労しなくてもよかったのにってことで、まあ子どものころっていうか、大学入るぐらいまでは、もう手話とかろう者とか本当に大嫌い。通訳もすごく面倒くさいし、嫌だし。うん、そういうイメージでしたね。

番組からのメッセージ

  •  ♪ 幼いころから手話通訳をしていたことで手話が嫌いだった武井さんですが、大学に入って初めて同世代の友達に自分の手話を褒められたことで気持ちが変化します。学園祭では「聴こえなくても何とか音楽を楽しんでほしい!」という情熱で、オーケストラやバンド、ダンスなどさまざまな人を巻き込み、さらには照明や衣装も工夫して、1年がかりで楽しんでもらえるステージを作り上げた武井さん。そこから発展したバンド『こころおと』では、ステージ上も客席も障がいの有る無しはもちろん、ろう者だけではなくさまざまな障がいがある人もみんな参加して、一緒に楽しめる空間が作れているということで、これからも武井さんならではの活動を続けていきたいとおっしゃっていました。
  •  ♪ この番組は、らじる★らじるの聴き逃しでお楽しみいただけます!
    放送後1週間お聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

放送を聴く
23/08/21まで

放送を聴く
23/08/21まで

  •  ♪ 番組では皆さんのおたよりをお待ちしています。
    8月のテーマは「ちょっとしたぜいたく」です。頑張っている自分へのごほうびに、こんなちょっとしたぜいたくをしてみました、またはしてみたい! というエピソードをリクエスト曲とともにお寄せください。

眠れない貴女へ

NHK-FM 毎週日曜 午後11時30分

おたよりはこちらから


【放送】
2023/08/13 「眠れない貴女へ」

この記事をシェアする

※別ウィンドウで開きます