『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』の翻訳者、牧野美加さん

24/01/15まで

著者からの手紙

放送日:2023/12/17

#著者インタビュー#読書#ワールド

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『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』は、ソウル市内の架空の書店に集う人々を描いた、ファン・ボルムさんによる小説です。日本語に訳した牧野美加さんにお話をうかがいます。(聞き手・畠山智之キャスター)

【出演者】
牧野:牧野美加さん

書店に集まる常連客のほどよい連帯

――K-POPや韓国ドラマのように、韓国の小説もすっかり日本での人気コンテンツになりましたが、牧野さんは人気の理由はどんなところにあるとお考えですか。

牧野:
第一には、お隣の国ということで地理的にも文化的にも近いですし、共通点が多い。共通点が小説の背景として自然に溶け込んでいるので、共感する点が多かったり、物語にすっと入っていきやすいというのがあるんじゃないかと思います。

――共通点というのは、例えばどういったところが挙げられますか。

牧野:
文化的に似ていますよね。アメリカとかヨーロッパとかと比べると、食べるものも似ていますし、家族構成とか生活全般が似ているので想像しやすいという点があるんじゃないかと思います。それと同時に、似ているんだけどちょっと違うという部分もあるので、そういうのも興味深く感じられるんじゃないかなと思います。

――物語についてうかがっていきます。作品の舞台は、韓国・ソウルのコーヒーが飲める書店、「ヒュナム洞書店」です。アラフォー女性のヨンジュは、仕事を辞めて「ヒュナム洞書店」をオープンさせましたが、青白い顔で接客して、ときには涙を流しながら店に立っています。そんな書店に、少しずつ「困りごと」を抱えた常連客ができて、それぞれが影響し合っていく様が描かれます。本には10代の高校生から50代の女性まで、さまざまなキャラクターが登場しますが、牧野さんは、ここで作られていく人間関係をどのようにお感じになりますか。

牧野:
困りごとを抱えている常連客どうしが、ほどよい、ちょうどいい距離感を保って連帯している、交流している様子が印象的でした。悩みごとがそれぞれあって、就職がうまくいかないとか、非正規の社員でなかなか正社員にしてもらえないとか、夫婦関係がうまくいっていない、将来に不安があるとかいろいろなんです。

常連客どうしが交流している中で、相手の悩みごとなんかも自然にだんだんわかってくるのですが、それぞれが、「私が解決してあげましょう」みたいな感じで押しつけがましくヅカヅカ入っていくわけではなく、かといって無関心でいるわけでもなく、お互いに関心を寄せ合いながら、ここぞというときに言葉をかけたり手を差し伸べたりするような、つかず離れずの距離感が絶妙で、読んでいて心地よいと感じました。

――なるほど。ズケズケ入ってこられたら、ちょっと困るなというところはあるかもしれません。そうではなくて、なんとなくその雰囲気の中に、空気の中にみんながいて、話をするということですね。

牧野:
そうですね。

「みんな井戸に落ちたことのある人」

――物語に登場するのは、店主のヨンジュを中心に、就活に失敗したアルバイトのアラサー男性バリスタ、ミンジュン、夫の愚痴が止まらないコーヒー業者の年長の女性、ジミ、無気力な高校生男子のミンチョル、ブログが炎上した兼業作家の男性、スンウといった面々です。彼女ら・彼らは印象的なセリフを口にするのですが、例えば、本をなかなか読み進めないミンチョルに、ヨンジュがこう告げます。「本を読んでみたら、わかることがある。著者たちもみんな井戸に落ちたことがある人なんだってこと」。牧野さんはヨンジュのこの言葉、どうお感じになりますか。

牧野:
文字どおりの意味としては、井戸の中に落ちて真っ暗で先が見えない不安とか閉塞感とか、そういうのを一人で味わっている状態だと言っていると思うんですけれども、そういう状態にあるのはミンチョルだけじゃなくて、井戸に落ちては、はい上がり、落ちてははい上がりしている人たちがたくさんいるので、心配しなくてもいいよということをこの一文で言っていると思うんです。

それに加えて、たぶんヨンジュがこの文章で言いたかったのは、ミンチョルに行動を促したかったのではないかと思うんです。そのあとに続いているんですけれども、「井戸から立ち上がってみたら、意外に井戸は浅かったかもしれないし」みたいなことも書いてありますよね。

ミンチョルは、まだ高校生ながら「自分には好きなことがないのに、どうしよう」とか、「この先、何を楽しみに生きていけばいいんだろう」とか悩んでいます。勉強だけじゃなくてそういうことを悩んでいける子ならば、周りが扉を、例えばヨンジュが扉を開けて「はい、出なさい」と言ってあげなくても、自分で出る力があるんじゃないかと。井戸から外へ出るという行動をミンチョル自身に起こしてほしいと、ヨンジュは思っているんじゃないかと思います。

――もう一つ印象的なのが、作家のスンウと店主のヨンジュの会話に出てくる、「幸せはそう遠くにあるわけじゃない」というセリフです。物語が進むごとにヨンジュが青白い顔で接客していた理由が明かされて、ヨンジュは店にやってくる人々に力をもらっていきますが、特にこのセリフは、ヨンジュの気持ちをどう揺さぶったと牧野さんはお考えですか。

牧野:
ヨンジュは、学生時代から勉強を頑張っていい成績をとって、会社に就職したあとはバリバリ仕事をして、毎日のように残業もして昇進も順調にしてずっと頑張ってきたんです。もっと上のもっといい何かを目指して頑張ってきたんですけれども、仕事が終わってヘトヘトの状態のときにビールを飲んで感じた、「ハァ、幸せ!」という気持ちに、「あ、こんなところにあったじゃないか。身近なところに、こんなにたくさんあるじゃないか」ということに気づいた。そのことに気づけるかどうかが大事なんだろうなと、そういうふうに思いました。

――ちょっと飲んだビールのおいしさに、「こんなに幸せだったんだ」と?

牧野:
そうなんです。

――そういったことの大切さ、ですよね。このあたりを読んでいて、私は韓国の社会が見えたように感じました。よく報道もされていますけれども、一生懸命いい大学に入っていい就職先を見つけてという、それがなんとなく社会的なコンセンサスというか求められている感じがするんですね。そこにのってしまった店主のヨンジュが発言しているからこそ、韓国の今が見えたなという気がしました。

牧野:
そこにのってしまったというよりも、のらざるをえない状況になっているようにも思うんです。ですからそういう“ヨンジュ”というのは、たくさん存在するんだろうなと思います。

「休んでも大丈夫」。店名に込めた思い

――本の大詰めでは、書店名の「ヒュナム」に込められた意図が明らかにされます。牧野さんは、著者のファン・ボルムが、この書店名にどんな気持ちを注いだとお考えですか。

牧野:
「ヒュナム」の「ヒュ」というのは、韓国はハングルを使っていますけれども、漢字を当てはめますと「休」という字なんですね。休憩の「休」です。先ほどもちょっとお話に出ましたけれども、韓国はものすごい学歴社会・競争社会で、そういう厳しい社会を生きていると、ちょっとでも休むと周りから取り残されてしまう気持ちになると思うんです。

ファン・ボルムさん自身も作家になる前はIT関連のお仕事をされていて、主人公のヨンジュと同じように激務だったと聞いています。ご自身の経験も踏まえて、ちょっと立ち止まって休んでも大丈夫だよ、休んでこそ見えるものがあるんじゃないですかという思いが、「ヒュナム」の「休」という字に込められているんじゃないかと思います。

――なるほど、そういうことなんですね。日本にも、この本に登場するヨンジュやミンジュン、ミンチョルやジミが大勢いると思います。牧野さんは、この物語、どんなかたちで日本の読者の心に届くとお考えですか。

牧野:
この本を実際に読んでくれた友人が感想を送ってくれた中に、なるほどと思う一文があったのでご紹介します。「あくまで日常的で派手なドラマや環境はないけれど、すべての登場人物たちをずっと見守りたくなる1冊」。いろいろな登場人物が出てきて、読んでいる人は登場人物たちを応援し、また登場人物に応援されるような物語じゃないかなと思いました。翻訳しながらも、いつの間にか自分もヒュナム洞書店の中にいて、彼らのそばにいて様子を見守っているような気分になりました、私も。

――読者もそういう気分になってくれるかもしれませんね。

牧野:
そうですね。彼らにとってヒュナム洞書店があるように、読んでいる方々にとって何かヒュナム洞書店のような存在があるといいなと思います。

――ファン・ボルム著『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』の翻訳者、牧野美加さんにお話をうかがいました。牧野さん、ありがとうございました。

牧野:
ありがとうございました。


【放送】
2023/12/17 「マイあさ!」

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