坂本龍一著『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』

23/08/15まで

著者からの手紙

放送日:2023/07/16

#著者インタビュー#読書

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ことし3月に亡くなった音楽家の坂本龍一さんは、余命宣告を受けたあとに自身の人生を語り、『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』という本に残しました。聞き手となった鈴木正文(すずき・まさふみ)さんにお話をうかがいます。 (聞き手・畠山智之キャスター)

【出演者】
鈴木:鈴木正文さん

表現をやめないでいるために

――鈴木さんは、坂本龍一さんの盟友とも呼ばれていますけれども……

鈴木:
なんて言うんでしょう、話し相手、ですね。

――鈴木さんの知るふだんの坂本さんは、どんな方だったんでしょうか。

鈴木:
坂本さんは気さくな人ですよ。「なんでもいらっしゃい」という、ある種の警戒心のなさ、ですよね。

――まさかこういう趣味を持っていたとは思わなかったということが、この本にはいくつも出てきます。韓国のドラマが大好きだったとか。

鈴木:
そうなんですよね。でも僕はまったく不思議に思わなかったですけれども、それは結局、氷が割れる音をとったり庭で雨の音をとったり、風の音を音楽であると聴いたりとか、いわゆる近代音楽というようなフレームワークがあるとして、そういうものからはみ出たものに音楽を見いだしていくということは、ずっとおやりになっていたんです。つまり、すべての人間に対して興味があるのと同じように、すべての音に興味があった。それで韓国ドラマも熱心に見るようになったんだと思うんです。BTSのメンバーの人にも尊敬されていて、入院中にもお会いになっていたことがわかりましたけど、そういう意味では、音楽形式についてもまったく偏見がないですよね。

――この本は、余命宣告を受けた坂本龍一さんが自分の人生を語った本ですが、闘病中だった坂本さんは、どんな決意を持って鈴木さんに人生を語ったと思われますか。

鈴木:
死に方の問題ですよね。生きている時間がそう長くないとわかったときに、どのように死んでいくかという。坂本龍一さんご本人は、芸術家であり、思想家であり、社会活動家であり、非常に多面的な人です。言語能力にも優れていて、音楽能力は言うに及ばず、ポップカルチャーからとびきりのハイカルチャーまで、すべてに通じていた人です。そしてそれぞれの分野において表現する能力がある。表現するということは、自分で勝手にするんじゃなくて、それを受け取った人が理解できるかたちに表現として成り立たせることで、それができる人ですね。その死の本当に最期の瞬間まで、表現をやめていないですよね。

表現をやめないでいるためには、よく生きないといけないわけで、よく生きるということは、よく死ぬということに当然なるわけです。例えば富士山の頂上を目指して登山していたとして、もうこれ以上歩けないから、7合目ぐらいで「もう私は駄目」って、ちょっと休む。そこで休んでいるうちに息が絶えましたというふうに、したくなかったんじゃないでしょうか。別に富士山に登っているわけではなくて、そういう意味ではゴールがあるわけではないわけです。終点は見えない。常に自分にとって新しいことをやってきているわけですけれども、自分がどういうふうにやってきたかということを、語って伝えることができるものは伝えておく、と。

その選択の軌跡を、ちゃんとわかるようにしておくということじゃないでしょうか。僕たちが何かを選ぶときには、坂本さんじゃなくても、たぶん自分ひとりのことだけを考えて選んでいないですよね。人類の未来までは意識していないかもしれないけれども、人間にとって、これは正しい選択なのかどうかということは、常に僕たちの日々のささいな選択の中にも、必ずどこかにそういうものがあると思うんです。坂本さんは、そのことに対して非常に意識的であったと思います。

「やっていることは新しくない」

――本の序盤で、坂本さんのこんな言葉が紹介されています。「ぼくはよく、既成の価値観を壊すような音楽を作っていると評されます。(略)でも、既成の価値観を壊すだなんていうと、まるで60年代の前衛芸術のようで、それはそれで抵抗がある。(略)広い意味で音楽の文法を捉えると、実はぼくのやっていることは決して新しくないんですね」。音楽に対するこの思いを、鈴木さんはどうお感じになりますか。

鈴木:
例えば、建築家がいない時代にも建物はあったわけです。誰が設計したかわからないものもあるわけですよね。竪穴住居であったり、日本の古民家もあるでしょう。建築家がいない建物が優れていないということは全然ないですね。作曲家がいない音楽というのもたくさんあるわけです。作曲家もいなければ建築家もいないにもかかわらず、いなかった時代のほうがむしろよかったかもしれない。自然が創った、まるで彫刻のような造形ですよね。

前衛的な、例えば60年代的なカウンターカルチャーというのかどうか、ちょっと言い方は難しいと思いますけれども、運動の担い手たちの主観的な意識の中で、いわゆるモダニズムが構築したものを意識的に破壊していくという、そこまで狭くはないんだという、そういう意味になると思うんです。それは音楽ならざる音楽へのアプローチとか実践であったり、人間以前の自然そのままのかたちのもの、ですね。いかに人間の知恵とか、いわゆる美意識であったり、論理構造、概念というものを通らないかたちで美的な表現をするかというのを、坂本さんはずっとやってきたと思うんです。その延長というか自然な発展過程にあって、例えば世間の人が言う、「既成の価値観をぶっこわす」とかなんとか、そういうことをやってきた人だという中に入れられちゃうと、ちょっと違うんだよなという、そういう気持ちがあったんじゃないかなと思いますね。

“豊かさの装置”という貧しさ

――一方で、坂本さんは2017年にドナルド・トランプが大統領に就任したとき、「こんな時代だからこそ、今まで以上に音楽やアートが必要だと強く感じた」と語っています。坂本さんはこのとき、音楽にどういう力があると思っていらっしゃったんでしょうか。

鈴木:
坂本さん、「音楽の力」なんていう言い方は僕は嫌いだと、言っていますね。音楽に力なんかないんだと。音楽に力があるというふうになると、権力はその力をいかようにも利用するわけです。芸術はいつでも権力化する。そういうことがありうるわけです。だからむしろ音楽は、パワーへと構造化されていくものから外れていく、そっちのほうのものだと考えたほうがいいんじゃないか。そういうことかなというふうに、僕は受け取ったんですけれども。

――坂本さんは、反原発やウクライナ支援、東京の神宮外苑再開発の計画見直しについても発言されています。この本にも多くのページが割かれていますが、こうした活動の原動力はなんだったと思われますか。

鈴木:
彼は、短期的な利益のために、商業的な利益のために、神宮を変えようとしたんですねと言っていましたね。それは原子力発電についても同じことで、およそ考えられる発電方式の中で最も危険で、その解決策が依然としてないものですよね。そこにわざわざ依存するということは、どういうふうにして僕たちの暮らしを豊かにしていくというのか。

電気のない時代も、人間は豊かな芸術を生み出していたわけです。優れたオペラも優れた音楽も、優れた文学も優れた詩もあったわけです。詩や音楽や芸術は全然年をとっていないですよね。シェークスピアもホメロスも全然古くなっていない。源氏物語も全然まだOKなわけです。万葉集も、すばらしいものがありますよね。

音楽というのは、僕たちの暮らしを豊かにするわけです。そういうふうに僕たちの暮らし、生きていることそのものを豊かに彩るものではなくて、それをむしろ貧しくする“豊かさの装置”というものが、がんがん増えている。それに反対しているんだというふうに僕は思います。ですから、彼が音楽活動をすることとなんら違いはない。同じ気持ちが、音楽活動じゃない表現をとっているだけだと思います。

――坂本龍一著『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』の聞き手をつとめた、鈴木正文さんにお話をうかがいました。鈴木さん、ありがとうございました。

鈴木:
いいえ、とんでもないです。


【放送】
2023/07/16 「マイあさ!」

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