77歳のシンガーソングライターの岡林信康さんと、74歳の作詞家の松本隆さんが、日本語ロック誕生秘話、音楽のルーツ、これからの夢について語りました。
【出演者】
岡林信康さん
1946年、滋賀県出身。1968年に「山谷ブルース」でレコードデビュー。フォークシーンをリードする存在に。1970年、はっぴいえんどをバックバンドに。その後、演歌、ポップス、民謡などの表現を模索し続けている。
松本隆さん
1949年、東京都出身。大学在学中にバンド、はっぴいえんどを結成。解散後は作詞家として数多くのポピュラーソングを手掛ける。著書多数。
- ※ お二人で「自由への長い旅」を聴いたあと、対談が始まりました。
岡林:
いや~懐かしい。
松本:
懐かしいね。この歌はずっと歌ってたよね?
岡林:
この前の55周年でも歌ったし、俺のテーマソング、讃美歌ですよ。どうですかドラマー松本隆としては?
松本:
恥ずかしい(笑)。
岡林:
あのころ、一生懸命に日本語でロックをやろうとしていたのが懐かしいね。
松本:
懐かしいね。1970年だね。
岡林:
あのころ“日本語のロック”って言われたけど、日本語で歌うのは当たり前やと思っていたし、英語しゃべれんし、日本語のロックをやってるって言われるのが心外やったね。
松本:
岡林さんはフォークから来たからさ。で、ロックを始めて、ボブ・ディランと同じで、“裏切者!”とか言われたね。僕は、エイプリル・フールってバンドを細野(晴臣)さんたちとやってて、それは英語でやっていたんだけど、居心地が悪いから、次は日本語でやりたいなと思って、はっぴいえんどをやって...巻き込んですみません(笑)。
岡林:
ロックは英語だと思っていた人は、日本語に変わる方が難しかったやろな。
松本:
そんなに期間も長くなかったんだよ。グループサウンズが崩壊して、売れなくなっちゃって、その残党の人たちが、残党とかいってもジュリーとかもいたんで、大スターなんだけどさ。
岡林:
俺はボブ・ディランの影響もあるんだけど、弾き語りからロックをやりたくなって、バンドを探してたのよ。そのころ俺は生まれ故郷の滋賀県に住んでいて、ロックのバンドを探したんだけど、みんなグループサウンズの生き残りみたいな人ばっかりで、俺の思うボブ・ディラン風のロックができるバンドがいなかったんだ。
松本:
ボブ・ディランには、ザ・バンドがついてたしね
岡林:
あるとき、音楽評論家の小倉エージが「東京にはっぴいえんどっていうすばらしいバンドがいるから、それとやれば、お前がやりたいようなロックができる」って言われたの。
松本:
フィクサーだね。細野さんに「URCレコードで録音してみないか」言ったのも小倉エージなんだよ。
岡林:
それで、新宿御苑のスタジオではっぴいえんどが練習しているからということで、上京して見に行ったの。こういう音を出せるバンドは関西にはいないし、やろう!ということで、わざわざ東京に引っ越して、あなたたちと一緒にやったんです。はっぴいえんどとやることにすべてを賭けたんです。
松本:
でも、すぐに解散しちゃって申し訳ないよね(笑)。新宿御苑スタジオって小さな練習スタジオなんだけど、まだあるらしいんですよ。今度見に行ってみようかな?
岡林:
まだあるの? 懐かしいな。
松本:
そこでいつもはっぴいえんどは練習してたのね。そこにフラッと現れたんだよね。
岡林:
おぼえてる?
松本:
おぼえてるよ。スタジオに入ってきて見回してさ、で、気に入ったんじゃない?
岡林:
こういう音を出せるバンドって関西にはいないし、東京に移って、この人たちとやろうと思ったの。よくジャンルの違う俺とやろうと思ってくれたな。
松本:
だってあのとき、あなたは神だったよ。“フォークの神様”って言われてたよ。
岡林:
逆にフォークの神様だから、ロックは難しいと思わなかった?
松本:
それはなかったね。いま聴き直しても、リズムをちゃんとわかって歌ってるのね。フォークの人たちってリズム、ビートに乗るのがあんまり上手じゃないんだよ。でも、岡林さんは上手だったの。
岡林:
そういうふうに歌わないと表現できないことが自分の中にたまってきたんだね。はやりとか奇をてらってロックをやったわけじゃなくてね。
松本:
それは生まれつきだよ。グルーヴがない人は一生努力してもグルーヴがないわけだし、でも岡林さんはグルーヴを持っていたからちゃんと歌いこなしてたよ。
岡林:
ほんと、ありがとうございます。そういう自覚はなかったけど、はっぴいえんどとやっていたときは、まだロックの時代じゃなかったから、機材がひどかったな。
松本:
ひどかったね。でもビートルズも同じだから。あの人たちもひどい機材だったよ。
岡林:
はっぴいえんどに気の毒やなと思ったのは、俺のコンサートのたびにつきあわせて、そのときにアンプが1個しかなかったね。
松本:
トランジスタラジオくらいのアンプでさ(笑)。
岡林:
そこに細野(晴臣)くんも大滝(詠一)も(鈴木)茂もジャックを突っ込んで、「僕たちは、はっぴいえんどの演奏はしません。岡林さんのバックだけやります!」って言ったんだよ。
松本:
そんなこと言ったの?
岡林:
後悔あるとしたら、ちゃんとした機材でやりたかったな。だから音がどうとか、歌がどうとか以前に、ちゃんとした演奏ができなかったよな。
松本:
でもよかったよ。
岡林:
東京なんかではある程度ウケてきて、大阪でも少しウケたかな?
松本:
京都でもウケてたよ。
岡林:
でも、他の地方に行ったらひどかったやろ?
松本:
そんなことないよ。ひどかったのは、はっぴいえんど(笑)。
岡林:
俺は、はっぴいえんどとやったロックはあんまりウケた記憶がない。で、俺がサービスで、ギターで弾き語りをすると、ワーッ!ってくるんだけど。
松本:
それは「山谷ブルース」とか「チューリップのアップリケ」とか大ヒットがあるからでしょ。
岡林:
でも俺としちゃ、うれしくないやん。俺はいまロックなんだもん。「山谷ブルース」や「チューリップのアップリケ」ばかり拍手がきて、あれはつらかったな。あの時代はつらかった、ウケなかった記憶のほうが強いね。
松本:
でもフロンティアだから。アメリカの最初の汽車が走る前の馬に乗っているカウボーイみたいなもんだから(笑)。
岡林:
本当やね。したくないけど、そんな役割をさせられたんやろうな。
松本:
70年代は楽しかったよ。
岡林:
いま思えばね。
松本:
だって、僕らのファーストアルバムと、岡林さんのアルバムとほぼ同時に録音してたもん。だから、才能が爆発してノリに乗ってたんだよ。
岡林:
俺はつらかった記憶なんだよ。
松本:
岡林さんはすぐつらくなっちゃうから(笑)。
岡林:
楽しいよりきつかったな。よく切り抜けたなと思うね。でも、そのあと田舎に入ってしまうけどな。だけど、はっぴいえんどのときは、あまりしゃべらなかったな。
松本:
僕が一番しゃべってたんじゃない?
岡林:
細野とか大滝とか茂なんてほとんどしゃべらないんだな。俺はあなたに親しみを感じて、「こいつすごい才能あるな」と思ったのは、俺が田舎の山奥に引っ込んでたころ、来てくれたじゃん?
松本:
行った行った。
岡林:
あのときに、「こういう歌ができたけど、タイトルができなくて困っているんだ」って歌ったら、一発で「26ばんめの秋」って言ったんだよ。あのときは腹が立って悔しくて、俺が何日考えてもわからないのを、1回聴いただけでタイトルを言って、それに勝るタイトルってありえないんだよ。
松本:
ありがとう。
岡林:
もう一つは、東京に行ったときにあなたの家に泊めてもらったの。そのとき、俺は演歌を作ってたのよ。ロックをやってくそみそ言われてんのに、演歌なんかできちゃって、どうなるんだろうと思って、おずおずとあなたの前で「俺、演歌ができてしもうて」って歌ったのよ。「月の夜汽車」っていう歌で、まあ、それは美空ひばりさんが気に入って歌ってくれた歌だけど、それを初めて人前で歌ったんだよ。演歌だからどうせ嫌な顔すると思ったのよ。でも「すばらしい!」って言ったのよ。タイトルをつけてくれたのと、演歌を聴いてすばらしいと言ったことで、“松本隆はとんでもないヤツだ”と思ったの。その後、あなたはたくさんのヒット曲を書いたけれど、全然驚かなかったね。この人なら当然だろうと思ったね。けど、創作の世界に行くとは思わなかったけどね。はっぴいえんどの作品も全部ほとんど私小説じゃない。あっちの方に行ったのは何かあるわけ?
松本:
ヒットメーカーになりたいと思ったんだよね。ヒットを出すのが自分には快感だったね。はっぴいえんどのときと何かは変わったんだけど、そこにあるのは同じなのね。いろいろな出し方があるだろうなと思って。だから岡林さんが、演歌になったり、ロックになったり、フォークだったり、ジャンルが変わるわけじゃない。だから歌謡曲っておもしろいなと思ったの。それで10歳上の筒美京平という人と知り合って、「このひと天才だな」と思って、なんかキャッチボールしてたら、ああいうふうになっちゃって。そのあと、大滝さんとか細野さんとかをこっち側に誘い入れたんだよ
岡林:
悪の道に引っ張りこんだんだ(笑)。
松本:
でもおもしろいんだよ(笑)。