サッチモに導かれて

23/07/28まで

ごごカフェ

放送日:2023/07/21

#インタビュー#ライフスタイル#音楽#ジャズ

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ニューオーリンズの子ども達に楽器を送る「銃に代えて楽器を」運動に取り組むなど、ジャズを通してさまざまな活動をしている外山喜雄・恵子夫妻のジャズ人生を振り返りました。(聞き手:吾妻謙パーソナリティー)

【出演者】
外山喜雄さん(ジャズトランペット奏者)
外山恵子さん(ジャズピアノ、バンジョー奏者)


<プロフィール>
早稲田大学「ニューオーリンズ・ジャズ・クラブ」で出会い、卒業後に結婚。1967年、アメリカ・ニューオーリンズへジャズの武者修行へ。帰国後、「外山喜雄とデキシーセインツ」を結成。国内外でのコンサートやジャズ祭で活躍。ニューオーリンズの名誉市民でもある。


――今年で結婚57年なんですね。おめでとうございます。結婚して1年半あまりでニューオーリンズに行かれたんですね。しかも船で!

喜雄:
僕は、大学卒業後に保険会社に就職し、2か月後に結婚しました。ニューオーリンズへ行くために夫婦で必死にお金をためて、1年半後には会社を辞めました。

恵子:
1ドル360円の時代ですよ。一番安い方法が、ブラジル行きの船でした。

――ニューオーリンズに行こうと思ったのは、やはりジャズのふるさとだから?

喜雄:
ジャズ映画が大ブームで、有名ジャズメンも多く来日していました。伝説のジャズメン、ジョージ・ルイスが、僕たちがあまり熱心なのを見て、「君たちはニューオーリンズに来るべきだ」と言ってくれたんです。不安も大きかったですが、妻から強く勧められ決断しました。

恵子:
私は不安じゃありませんでしたよ(笑)。ジャズのルーツを感じたかったんです。

――ジャズ誕生の地はどうでしたか? 衝撃を受けたことはありましたか?

喜雄:
お葬式に驚きました。棺(ひつぎ)が霊きゅう車に移されると、それを囲むバンドと人々が住宅街を練り歩くんです。街の人々も家から飛び出して、お墓に着く頃には200~300人になっているんです。

――1973年に日本に帰国され、75年に「外山喜雄とデキシーセインツ」を結成されます。

喜雄:
帰国した時は、ニューオーリンズから帰ってきた!ということで話題にもなり、新聞や雑誌で取り上げていただきました。プロとしてジャズフェスティバルに出演したりしていましたが、ジャズフェスティバルも毎日あるわけではありません。メンバーに給料も払わなくてはいけないので、別の仕事も考えました。

――東京ディズニーランドで、1983年から23年間にわたって、演奏されたんですね。

喜雄:
僕の先輩が、そこを経営する会社にいて誘われたんです。でも、1日7回のステージは思っていたよりも大変でした。僕らの演奏を目当てにお客さんが来ているわけではないので、どうひきつけるか、いろいろと工夫しました。

――どんなことをされたのですか?

喜雄:
遊びに来ているお子さんに、指揮をさせたりしましたね。1日7回のショーを年間250日、23年間やりました。1回のステージで2~300人の方に見ていただいたので、4万回のステージ、1000万人近い皆さんに楽しんでいただいたことになります。

――外山さんたちと写真を撮ったリスナーの方もいるかもしれませんね。

サッチモとの出会い

――喜雄さんは、ルイ・アームストロング(サッチモ)が1964年に来日した時に、本人の目の前でトランペットを吹いたそうですね?

喜雄:
1964年の京都公演で、警備の目をかいくぐってサッチモの楽屋に入りました。そして、楽屋で彼のトランペットを持たせてもらって、吹いてしまったんです。彼のマウスピースは僕のより大きく、うまく吹けずにいたところ、例のしわがれた声とともに、ラッパは取り上げられてしまいました。

恵子:
私は入る勇気がありませんでした。今でも後悔しています。サッチモは、どん底の家庭環境で、犯罪からの復活もありました。そんな彼が世界で認められた。まさに、アメリカンドリームの象徴なんです。ニューオーリンズはジャズ発祥の地ですが、ローカルの音楽でしかなかったジャズを世界中に広めたのはサッチモなんです。

――お二人が1994年に設立した「ルイ・アームストロング・ファウンデーション日本支部」では、どんな活動をされてきたのですか? ※現在は「日本ルイ・アームストロング協会」

喜雄:
ジャズの故郷ニューオーリンズの学校には、満足に楽器がありませんでした。そこで「銃に代えて楽器を」と掲げ、全国の賛同してくれる方々の協力を得て、この20年間で中古楽器を850本送ることができました。

恵子:
最初の10年くらいは、知られていなかったんです。現地の新聞に取り上げられてから、いくつか同じような団体ができたんですよ。私たちのまいた種が芽を出したんです。

喜雄:
きっと、天国のサッチモが見ていてくれたんだね。

――このような活動で、ニューオーリンズ名誉市民にもなられました。2005年のハリケーン・カトリーナで大きな被害を受けたニューオーリンズも支援されたそうですね。

喜雄:
ハリケーンで楽器を失ったミュージシャンや子どもたちに楽器を贈りました。被災した子どもたちを支援する活動に、約1300万円の寄付金を集めて支援しました。

恵子:
これまでの私たちの活動を信用してくれたんですね。

――2011年の東日本大震災のときには、ニューオーリンズから、外山さんのところに連絡があったそうですね。

喜雄:
ニューオーリンズの人々から、「日本を助けたいがどうすればいいのか?」と多くの問い合わせやメールがありました。その後、被災して楽器を失った気仙沼の子どもジャズバンド「スウィング・ドルフィンズ」のところに、ニューオーリンズからの支援が寄せられ、楽器をそろえることができたんです。そして、気仙沼とニューオーリンズの子ども達の交流が始まったんです。さまざまな方々に協力していただき、ニューオーリンズの子どもたちを気仙沼に呼んだり、気仙沼の子どもたちがニューオーリンズに行って、ジャズフェスに参加したりしたんです。これもサッチモのお導きなんですね。

生演奏と写真展

――きょうは、お二人で1曲披露していただきます。喜雄さんのトランペットとボーカル、恵子さんバンジョー演奏です。よろしくお願いします。

喜雄:
Nobody Knows the Trouble I've Seen(誰も知らない私の悩み)という曲です。

  • この演奏が聴けるのは「聴き逃し」で1週間です。

――若いころの演奏と比べていかがですか?

恵子:
歳をとったら、それなりに枯れたいい感じの音になってきましたね。

喜雄:
エモい音ですね(笑)。

――現在、外山さんが、当時のニューオーリンズの街などを撮影された写真の展覧会が都内で開催されています。

喜雄:
当時は、お金がなかったので、安く上げるために自分で現像をしていました。暗室もないので暗くなってから現像したんですよ。

――お時間になりました。これからはどんなことをされていきますか?

喜雄:
サッチモの魅力をもっと知ってもらうために演奏を続けます。

恵子:
私たちの演奏で、みなさんが笑顔になるのがうれしいですし、私たちも元気になるんです。

喜雄:
細胞が喜んでいる感じがするんですよ。すべてがサッチモのいたずらですね(笑)。

――いつまでも仲良く、ご活躍ください。ありがとうございました。


【放送】
2023/07/21 「ごごカフェ」

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