【飛ぶ教室】「きょうのセンセイ」中島岳志さん(政治学者)

24/04/19まで

高橋源一郎の飛ぶ教室

放送日:2024/04/12

#文学#読書

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作家・高橋源一郎さんをセンセイに、あなたの好奇心を呼び覚ます夜の学校「高橋源一郎の飛ぶ教室」。後半(2コマ目)は、さまざまな分野のスペシャリストを「きょうのセンセイ」としてお迎えし、源一郎さんが心の赴くままに語り合います。今回は、政治学者で東京工業大学教授の中島岳志さんをお迎えし、前半(1コマ目)の「ヒミツの本棚」でも取り上げた不干斎(ふかんさい)ハビアンなどを題材に、宗教・信仰についてトークを展開しました。

【出演者】
中島:中島岳志さん(政治学者、東京工業大学教授)
高橋:高橋源一郎さん(作家)
礒野:礒野佑子アナウンサー

「来たバスに乗る」~多彩な政治学者・中島岳志さん~

礒野:
源一郎さん、2コマ目です。

高橋:
はい。今日のセンセイは、ホントの先生だ! 政治学者の、この方です!

中島:
中島岳志です。よろしくお願いいたします。

高橋:
わ~い(拍手)。中島さんだ~!

礒野:
よろしくお願いいたします。

中島:
ありがとうございます。

高橋:
いい声してるでしょ、中島さん。

礒野:
すごくいいお声!

高橋:
まぁ、声だけじゃないですけどね(笑)。

中島:
いえ、いえ、いえ(笑)。

礒野:
お久しぶりですか? お2人。

高橋:
え~とね、久しぶりっていうか、去年の11月に京都の東本願寺でやったトークセッションで…。

中島:
そうですね。

高橋:
詩人の伊藤比呂美さんと3人で。

礒野:
あ~! 京都に行くって、おっしゃってましたね。

高橋:
そう、そう、そう。

礒野:
あれ以来、ですね。
では、プロフィールをご紹介します。中島岳志さん。1975年、大阪府生まれ。大阪外国語大学でヒンディー語を専攻。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科でインド政治を研究されました。2005年に著書『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』で大佛次郎(おさらぎ・じろう)論壇賞とアジア・太平洋賞大賞を受賞されています。現在は、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授を務めていらっしゃいます。

高橋:
はい。副学部長ですよ。

中島:
はい(笑)。

礒野:
お偉い…。

高橋:
お偉い(笑)。

中島:
偉くないです、ぜんぜん(笑)。

高橋:
本当はね、中島さんの著書リストを読み上げるといいんですけど、まぁ、幅広いっていうか、何でもやるなっていう。

中島:
そうですね。見境ないというか、「専門を見失って久しい」と、よくみんなに言われます…。

高橋:
「専門はなんですか?」って言われたら、なんて答えるんですか?

中島:
まぁ一応、政治学っていうことに…。

礒野:
一応(笑)。

中島:
は~い。恥ずかしながら(笑)。

高橋:
政治、思想…でも宗教も多いしね。

中島:
そうですね。

高橋:
どこに行こうとしてるんですかね、中島さん(笑)。

中島:
ね~、それが分からないですね。僕は「来たバスに乗ることにしている」という感じで…。

高橋:
あ~、いい表現!

礒野:
すてきな表現ですね!

高橋:
変なところに連れて行かれる可能性もある(笑)。

中島:
そうなんです~、ホントに。

礒野:
あははははは(笑)。

不干斎ハビアン※が垣間見た宗教の本質とは

  • 不干斎(ふかんさい)ハビアン
    戦国後期~江戸初期の人物。初め禅僧だったが、キリスト教に改宗して布教に尽力。その後、棄教して幕府のキリシタン取締りに協力するなど、波乱の人生を送った。

高橋:
『不干斎ハビアン』(釈徹宗著)という本を1コマ目で読んでいまして。ハビアンってそんなにポピュラーな名前じゃなかったんですが、先ほど取り上げたように…ま、変な人(笑)。

中島:
はい。

高橋:
中島さんは宗教思想もやられてるんで、ハビアンはどういうふうな印象ですか?

中島:
同時代に生きてたら嫌だったな~って思うんですけども…。

高橋:
あははははっ(笑)。

中島:
けどね、それと別に、僕はハビアンっていうのは、あらゆる宗教に対して刃をむいた、そのあげくに宗教の本質っていうものを、垣間見た人なんじゃないかなと思っているんですね。

高橋:
あ~! うん。

中島:
彼が、(キリスト教布教のために他宗教・思想との比較を行った著書)『妙貞問答(みょうていもんどう)』の中で、いろんな場面で批判しているのは、「結局仏教だって、ブッダは人間じゃないか。人間じゃないか、人間じゃないか」って言っているんですよね。
で、ハビアンはどういうことを考えたんだろうかって思った時に、人間だったらなんでダメなのかっていうと、たぶん死ぬからだと思うんですね。

高橋:
あ~!

礒野:
あ~っ!

高橋:
確かにね。

礒野:
終わりがあるから!?

中島:
つまり「有限」っていう概念を、彼は非常に意識しているんだと思うんです。僕は宗教ってものの根源はここにあると思っていて、人間は「あらゆる万物が有限な存在であるということに気づいちゃった存在」なんだと思うんですね。

高橋:
うん、うん。

中島:
ここにある机もですね、僕たちの命も、ある程度たったら、なくなるわけです。で、この有限という概念を手に入れた瞬間に、「無限」っていう対の概念が成立せざるをえない。

高橋:
あっ! 逆に!!

中島:
そうなんですよね。これが「神」と名付けられたり、なんとかと名づけられたりっていう、宗教の構造であると…。それに至った人っていうのが、ハビアンって人なんじゃないかなと思うんですよね。

高橋:
さっき言ったように、『妙貞問答』では「みんな人間じゃないか」と。

中島:
はい。

高橋:
(ハビアンが最晩年に書いたキリスト教を否定的に論じた著書)『破提宇子(はでうす)』のほうでは、「キリスト教も人間じゃん」っていう…。

中島:
そうなんですよね。

高橋:
「限界はあるじゃん」っていうふうに、結局、全部人間のやる事だっていうとこまで、行っちゃったんですよね。

中島:
そうなんですよね。そしたら「その先に見えるものっていうのは何なのか?」っていう時に彼は、あらゆる宗教を超えた、ある種の普遍的な、まぁ「神」としか、あるいは「絶対」としか名づけ得ないものって、何なのか…っていう発想だったと思うんです。これは新しかったですね。

高橋:
その先が、書いてないんですよね。

中島:
そうなんですよね。「書けない」っていうのが、彼にはあったんだと思うんですよ。

高橋:
僕もある程度読んでみたんですけど、「言葉の人」ですよね!?

中島:
そうですね。

高橋:
「論破する」っていうのは、そもそも「言葉で何か説明できる」と思ってずっとやってて、あれは僕、わからないんですけど、最後は「言葉で説明できないな」っていうところに行っちゃったのかなと思うんですけど…。

中島:
僕も、まさにおっしゃる通りだと思いますね。言葉で説明できないことは書かないっていう人なんだと思います。その「書けないものとは何か?」といった時に、それが「絶対者」というようなものだったんじゃないか、と思いますね。

高橋:
『破提宇子』で終わってるんですけど、彼は何か見たかもしれないですよね!?

中島:
そうですね。

高橋:
仏教でもキリスト教でもないし、もしかしたら仏教やキリスト教の中に、もっと人を、有限を越えた何かを見たのかもしれない。そこまで書いてほしかったですよね(笑)。

中島:
そうですね~。示唆してほしかったところなんですが…。

「となりの親鸞」が教えてくれるもの

高橋:
それでやっぱり、親鸞(しんらん)はその逆ですね、ハビアンの!

中島:
そうですね。う~ん、うん。

高橋:
あれはでも、逆に言うと、宗教的な極点みたいなもんだと思うんですけど…。

中島:
はい。

高橋:
え~っと、中島さんは親鸞についても書かれているんですが…。

中島:
はい。

高橋:
親鸞については、まぁもちろん、ひと言では言えないんですが、どういうふうな存在だと思って、なんて言うか、対面されてきたんでしょうか?

中島:
僕が20代の前半ぐらいに、吉本隆明さんがきっかけだったんですけども、親鸞を読んで「なるほど!」と思ったのは、やっぱり若い時って、自分の能力に対する過信というか、なんか自分の手で世界を変えられたりとか…。

高橋:
はい、はい。

中島:
いろんなことができるんじゃないか…!?  親鸞の言葉で言うと「自力」っていう事になりますけども、そういうものに対するおごりみたいなものが、どっかであるんだと思うんですね。それに対して親鸞は、静かにいさめるっていうんですかね。「となりの親鸞」って僕、よく言ってるんですけれども…トトロみたいな感じですかね(笑)。

礒野:
あははははっ(笑)。

中島:
ちょっとかわいくなっちゃいましたけども(笑)。

高橋:
かわいいね(笑)。

礒野:
その真意は?

中島:
親鸞という人もね、僕はなんか「となりにいる感じの人」で。僕がね、分かった気になって言ってる時に、「本当かよ!?」って言ってくるんですよ。

高橋:
あ~~!

中島:
けどね、「分かんないな~」というふうに悩み込んでる時に、「僕も分かんないんだよ」っていうふうに言ってる感じなんですね。

礒野:
へぇ~!

中島:
この親鸞の姿っていうのは、僕はずっとこう、なんですかね、大切にしてきたっていう、そんな感じがあります。

礒野:
寄り添って、傍らにいてくれる存在なんですね。

中島:
そうなんですね。特に『歎異抄(たんにしょう)』って、弟子の唯円(ゆいえん)が書いたものですけど、まぁ弟子が書いているので、親鸞の人物像みたいなものがよく分かるんですね。「となりにいる親鸞」ってどんな人だったのかっていうのがよく分かるんですけれども、『歎異抄』を読んでると、そんな人だったんじゃないかなっていうふうに思いますね。

高橋:
これね、いろんな人の現代語訳を読んで、みんなうまいなと思ったんですけども。僕、小説家の観点だと思うんですけども、絶対、主人公は唯円なんですよね! 親鸞を書いている作家が唯円。

中島:
はい、そうです。

高橋:
だから宗教書っていうのではなくて、小説?
小説と宗教書はどこが違うかって言ったら、何か信仰してるわけじゃないんですよね。あそこで出てくるのは、ただ人間関係が書いてあるだけで。あれ、「唯円は親鸞が好きだ」としか言ってないんですよね(笑)。だからなんて言うか、ラブレターっていうかさ、告白みたいなもので。

中島:
うん。

高橋:
それを言うと、いわゆる『福音書(ふくいんしょ)』だって、マルコとかルカが「キリストが好きだ!」って言ってる…。

中島:
そうですね。

高橋:
中島さんは自分の中の信仰心とか、どう思います?

中島:
さっきのハビアンの話なんですけども、自分に「信じる」とか、「信仰というのがあるのか?」って言われると、すごい難しいんですね。

高橋:
うん、うん。

中島:
「信じた」って記憶はないんです。けれども、やっぱりある種の…どっか外国に行ったりなんかすると、「お前は何教徒なんだ?」って聞かれますけども、そうすると僕は「仏教徒」としか言いようがないなと思ってるんですね。

高橋:
あっ、そうなんですか!?

中島:
う~ん。それはやっぱり、さっきのハビアンのところで申し上げたように、やっぱり人間が「有限」っていう概念に気づいた以上、その構造として「無限」というものが存在する、と。「それって一体なんなのか?」の探究っていうのが宗教というものだとすれば、その同じ道を歩いてるっていうのが自分なんじゃないかなと思うんですね。だから、絶対的な教義があって、これを信仰しているっていう感覚は僕にはないんですけども、「となりの親鸞」は信用できるっていう感じなんです。

高橋:
「となりの親鸞」ね(笑)。

礒野:
なるほど~。

中島:
僕、親鸞のすごいなと思うことは、一般的には「自力」と「他力」が分けられていて、自力というのはダメですよと。他力っていうのは、仏の力のようなものなんですけど、それに委ねなさいっていう話だと。

高橋:
全てをね。

中島:
そういうふうに読まれるんですけど、じゃあ自力をね、否定してる人かっていうと、そうは思えないんですよ、どう読んでも…。

高橋:
あぁ~。

中島:
どういうことを言ってるのかっていうと、「徹底的に自力の限りを尽くさないと、他力に至らない」って言ってる人なんだと思うんですね。

高橋:
放棄しちゃダメだってことですね、最初っから!

中島:
でね、どういうことかというと、「一生懸命、まず頑張ってみる」と。

高橋:
うん。

中島:
頑張ってみても、どうしても自分たちの力の及ばない「限界」というものが存在する、と。つまり自力を尽くしたところで、僕たちは、「無力(むりき)」っていうふうに言ってもいいかもしれないですけど、そこに立つと。この、絶対的な自分の無力っていうのに立ち尽くした人間のところに、仏の力っていうのがやって来るっていうのが、彼の「他力」っていう発想だと思うんですね。

高橋:
それはね、つまり何によって得られるのか…。
さっき言ったハビアンだと、宗教的知識があってもダメで、結局、考えて考えて「全部否定したあげくに残る自分みたいなもの」っていうものが残って、ハビアンができると思うんですけども。

中島:
吉本隆明さんの『最後の親鸞』っていう本がありますけれども、その結論がまさにそういう感じですよね。

高橋:
うん、うん。

中島:
つまりあの、「親鸞の最後とは、一体どこに行き着いたのか」っていう問題ですね。結局のところ吉本さんが書いてるのは、そういうある種のですね、自分の自力っていうものに対する、いろんなものを捨ててしまって、最後はある種、呆(ほう)けているような姿。それを全てにさらすという、そういうところまで至った親鸞こそが、「絶対他力の道」っていうものを歩んだ最後の姿であると。それは「宗教というもの自体を解体しているのではないか?」っていうのが、『最後の親鸞』の結論なんですよね。

礒野:
へぇ~!

高橋:
だからね、宗教っていうとキリスト教とか仏教とか、教義があって、お寺とか教会に行って祈る、と。(そうした信仰や行いとは)なんか全然違うものとして、宗教体験みたいなのがあって、これは結構みんな、1人で行けるところなのかもしれないですよね。

次回の課題図書とセンセイは…

次回、4月19日(金)放送の「飛ぶ教室」の内容です。
1コマ目「ヒミツの本棚」は、小林信彦著『新編われわれはなぜ映画館にいるのか』を取り上げます。
2コマ目「きょうのセンセイ」は、動物言語学者で東京大学先端科学技術研究センター准教授の鈴木俊貴さんをお迎えします。

番組では、リスナーの皆さまからのメッセージを募集しています。番組のご感想、源一郎さんやゲストへのメッセージ、月イチ恒例の「比呂美庵」で相談したいことなど、ぜひお送りください。

高橋源一郎の飛ぶ教室

ラジオ第1
毎週金曜 午後9時05分

メッセージはこちら


【放送】
2024/04/12 「高橋源一郎の飛ぶ教室」

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