残念な結末の巻

23/01/05まで

誰かに話したくなる日本史

放送日:2022/12/29

#歴史#学び#勉強#戦国

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23/01/05まで

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「歴史」…人や社会が築いてきた物事の移り変わり、発展の経過、その記録。
時の権力者によって曲げられたもの。読み物として作り上げられたもの。先祖の功績のために盛られたものなど、さまざまな歴史が存在します。しかし、多くの人が知る歴史は時代のメインストリームのお話。歴史はさまざまな場所、さまざまな人によって紡がれてきました。誰かに話したくなる日本史。そんな知られざる歴史のお話です。


【出演者】
れきしクン(歴史ナビゲーター)


<プロフィール>
1986年、埼玉県出身。大学卒業後、漫才師としてデビュー。芸人を引退後、歴史ナビゲーターとして、歴史バラエティー番組の放送作家や監修、歴史作家などとして活躍。著書多数。

味方にやられた~

戦国時代の合戦。敵味方が入り乱れて数時間にわたり戦いを繰り広げます。こうなると、誰が味方で誰が敵なのか分からなくなってしまいそう。でも大丈夫! 袖(そで)に家紋などをデザインした印をつけたり、合言葉を事前に準備したりすることによって、敵味方を見分けていました。さらに自分たちの活躍や存在を示すために、幟(のぼり)旗などを掲げたり、ド派手な甲冑(かっちゅう)を身にまとったりしました。しかし、時には味方同士で、どちらが首を取ったのかなど、手柄でもめることもしばしば。中には他人が討ち取った首を盗んでしまう武将もいたそうなんです。まあ戦場ですから、理不尽なことがあってもおかしくありませんけど、どう考えても納得できない! そんな出来事もあります。

越中、現在の富山県の戦国大名で神保相茂(じんぼうすけしげ)という人がいるんですけども、この方、「大坂夏の陣」に出陣したときに災難に遭っております。大坂夏の陣は1615年、江戸幕府と豊臣家の戦いです。この時、神保さんは突如として自分の後ろにいた味方の軍勢である、伊達政宗から一斉射撃を受けて討ち死にをしてしまったと言われているんですね。政宗めちゃくちゃですね。この政宗の行動、やはりほかの大名からも批判が噴出したそうなんです。で、神保家からも訴えられるんですね。これに対して政宗さん、何と言ったかというと「神保軍が崩れてしまうところだったので、こちらの軍勢も一緒に崩れると大変だから、それを防ぐために撃った」と弁解したんです。これが本音なのか、それとも別の狙いがあったのか分かりませんが、伊達政宗が前代未聞なことをしでかしたということには違いありません。神保さんも災難ですね。ただ神保家は一族が旗本として徳川家に仕え続けています。ちなみに東京にある神保町は、江戸時代に神保家の屋敷があったことに由来しております。

このほかにも歴史の中で納得がいかない話、いろいろ起きてます。例えば、今川家の家臣だった孕石元泰(はらみいしもとやす)さんのお話。孕石さんは、徳川家康に20年以上前の因縁を持ち出されて切腹をさせられたと言われているんです。孕石さんと家康は、今川家の家臣時代、屋敷が隣り合わせだったそうなんです。で、家康の趣味といえば鷹(たか)狩りですね。鷹が大好きなんですけども、その鷹がお隣の孕石さんの屋敷にフンを落としたりしてトラブルになってしまったそうなんです。孕石さんは家康にたびたびクレームを言い続けていたそうなんです。時は流れて20年以上後の1579年、家康を攻め落とした敵の城の中に、あの孕石がいるのを知ると、他の武将たちは許したのに、家康は当時のむかつきを忘れず、孕石元泰だけに切腹を命じたそうなんです。まったくもって理不尽な出来事ですね。

かっこわるい最後

時は1581年、秀吉は中国攻めの真っただ中。鳥取城を包囲し、歴史的にも有名な兵糧攻めを行っていた時です。世にいう「鳥取の飢(かつ)え殺し」。その最前線で秀吉軍と戦っていたのが兵主源六(ひょうすげんろく)です。居城としていたのは因幡の国、鳥取県の金剛城(こんこのじょう)。こんごうじょうとも呼ばれています。標高が293mという堅固な山城で難攻不落。しかもこの兵主源六が強い強い。鳥取城を攻める秀吉軍の背後をついて大奮戦。秀吉軍は相当苦しめられていました。何としても金剛城を落としたい秀吉。兵主源六の堅固な山城の落とされ方がかっこ悪すぎたのでした。

兵主源六は秀吉軍を翻弄するんですね。それに困った秀吉は、亀井茲矩(かめいこれのり)という、出雲の国、今の島根県出身の武将に兵主源六退治を命じたんですね。しかし、金剛城は堅城であるうえ、守る兵主源六の武略も見事なんです。なかなか攻めきれません。ところが、奇策中の奇策によって血を一滴も流すことなく落城してしまうんです。亀井茲矩は兵主源六のパーソナルデータを調べました。すると、めちゃめちゃ踊り好き。お祭り好きということが判明したんですね。「これだ!」と思った亀井茲矩は、金剛城の城下町で盆踊り大会を開催。笛や太鼓を加えた新たな踊りを創作して、領民たちとともに踊ったそうなんです。兵主源六は祭りの音につられて金剛城を出て、のこのこと下山。家臣たちも一緒に城下の盆踊り大会に参加してしまいました。「待ってました!」と別働隊が無人の金剛城へ攻め寄せ、火を放ち、兵主源六が会場から金剛城を見上げた時には「祭りのあと」。いや「あとの祭り」。瞬く間に城は燃え上がり、あっけなく落城してしまったそうです。

この踊りマニアの兵主源六さんを惹(ひ)きつけた亀井茲矩一団の踊り、なんと「亀井踊り」として現在まで継承されていて、鳥取県の無形民俗文化財になってるんですね。歴史とは何が起こるか分からない。何が残るかも分からない。何とも不思議なものですね。

こんなヤツにこんなところで!

教科書にも載っていない。ほとんど聞いたことがない。知られていない。全く無名。それなのにそれなのに、日本の歴史を動かした人物というのが、かなりの数いることをご存じでしょうか?
・・・どういうことかよく分からない?
例えば、本能寺の変で織田信長を討ったものの、秀吉に敗れて逃げているところ何もなき落ち武者狩りの農民に殺された明智光秀。その落ち武者狩りの農民も日本の歴史を動かした人物といえます。うん、そういうことです。

【安田作兵衛】
織田信長を槍(やり)で突き、その側近の森蘭丸を討ち取った男、安田作兵衛。時は1582年、天正10年の6月2日。「本能寺の変」が起こります。信長のいる本能寺を取り囲んだ明智光秀の軍勢。その先鋒を務めるのは斎藤利三。その斎藤利三の軍勢の中の一人に、安田作兵衛という人物がいたんです。窮地に追い込まれた信長は「何もない武士に討たれてはなりませぬ!」という、小姓・森蘭丸の進言を受けて、障子を閉めて奥へと向かいます。それを偶然見かけたのが安田作兵衛でした。障子越しに槍を突くと、信長の腕を貫いたんですね。そこに「これ以上はさせるか!」と森蘭丸が現れます。安田作兵衛はその森蘭丸を見事討ち取ることに成功するんです。そして、信長の首を取りに向かいますが、既に信長は燃え盛る屋敷の奥へと姿を消してしまいました。信長の首の行方はわかっていません。その後、安田作兵衛は明智方の人間ですから当然追われることになります。それから逃れるため、名前を天野源右衛門と変えまして、さまざまな大名に仕えますが、何かとトラブルを起こしてしまいまして、出仕と出奔を繰り返して、最後は肥前の国、唐津藩、今の佐賀県唐津市で亡くなったといわれています。

【西尾仁左衛門】
西尾仁左衛門さんは、元は武田家の家臣だったそうです。その後、鉄砲の腕を買われて越前、松平家の結城秀康に仕えます。徳川家康のお子さんです。西尾さんは「大坂夏の陣」で名のある武将を討ち取ろうと大奮戦。真田幸村と知らずに討ち取ったそうなんです。それから、幸村を討ち取ったこともあり、上級武士に出世。この西尾さんのステキなところはですね。自分を出世させてくれた幸村に感謝の意を込めて「真田地蔵」を建立していることなんですね。今は博物館に保管されていますが、当初の安置場所は幸村の首塚と伝えられてきました。ただ、本当の首塚は実は別の場所にあって、それは西尾家だけに伝えられているそうです。西尾家には幸村所用とされる兜(かぶと)や薙刀(なぎなた)が伝わっています。


歴史は有名武将だけで紡がれてきたわけではありません。しかし、有名武将側からすると、そりゃ悔しかったでしょうね。
また、あなたの紡ぐ歴史の中でお会いしましょう。


【放送】
2022/12/29 「誰かに話したくなる日本史」

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