知られざるお城物語の巻

23/01/03まで

誰かに話したくなる日本史

放送日:2022/12/27

#歴史#学び#勉強#城#江戸

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「歴史」…人や社会が築いてきた物事の移り変わり、発展の経過、その記録。
時の権力者によって曲げられたもの。読み物として作り上げられたもの。先祖の功績のために盛られたものなど、さまざまな歴史が存在します。しかし、多くの人が知る歴史は時代のメインストリームのお話。歴史はさまざまな場所、さまざまな人によって紡がれてきました。誰かに話したくなる日本史。そんな知られざる歴史のお話です。


【出演者】
れきしクン(歴史ナビゲーター)


<プロフィール>
1986年、埼玉県出身。大学卒業後、漫才師としてデビュー。芸人を引退後、歴史ナビゲーターとして、歴史バラエティー番組の放送作家や監修、歴史作家などとして活躍。著書多数。

お城の基礎知識

土偏に「成」と書いて城。まさに字のごとく、土を掘って、堀を巡らせた防御施設。城と聞くと戦国時代のイメージがありますが、始まりは弥生時代の環濠集落。日本100名城にも佐賀県の吉野ケ里遺跡が選ばれています。館(やかた)や御所も防御施設なので城に含まれ、函館の五稜郭や品川台場なども防御施設であることから城とされています。

全国にどのくらいお城があるのかは数えきれていません。なぜかといいますと、新たに発見されている城跡(しろあと)があるように、未発見のものがまだ数多くあるんですね。大体どれくらい城跡があるかといいますと、4万から6万といわれています。現在、コンビニが5万7千といわれていますので、いかに多いかということが分かりますね。私も全国の城巡りを趣味にしていますが、まさに一生つきあえる最高の趣味なんです。

では、お城というのはどのくらいの期間で造られていたかといいますと、天下人クラスの大きなお城で、1年から3年かかっているようです。実際、織田信長の安土城は1576年から築城が始まり、天守ができて引っ越すまでおよそ3年かかっています。豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくてい)は1586年から築城が始まり翌年には完成。さらに徳川家康が隠居用に改築した駿府城は、1606年から工事が始まり翌年には本丸が完成。すぐ火災にあったものの、その翌年には復興され、1610年に天守が完成したとされています。ショベルカーなど重機のない時代の城造り、思っているより早いと感じるのは私だけでしょうか?

さらに秀吉が小田原の北条家を討つために、一夜にして総石垣の城を築いたとされる、別名“一夜城”と呼ばれる石垣山城は、実際には80日ほどで完成したといわれています。さすが天下人!

お城界の異端児

現在も復興復旧が進む熊本県の熊本城。実は“食べられるお城”だったと伝えられているのをご存じでしょうか。築城した加藤清正は、籠城戦で食料に困った経験があったため、熊本城に工夫を施します。場内にはイチョウの木をたくさん植え、井戸をたくさん作り、壁にはかんぴょう、畳には芋茎(ずいき)を使い、戦いの際には兵糧として想定していたと伝わっています。かんぴょうを使った壁や芋茎を使った畳は、今は残っていないので、あくまで熊本城の強さを物語る伝承の一つです。

食べられる工夫は熊本城だけではなく、同じ九州、福岡城にもございます。長屋のような形状をした多聞櫓(たもんやぐら)の壁には、なんと干したわらびが使われています。また、お城には松が植えられていることが多いです。これは松が常緑樹として縁起が良いことに加えて、食料や燃料としても使用されたと考えられています。松の皮を臼(うす)で粉末にして、穀物などを混ぜて、もち状にして食べたそうなんですね。

もうひとつ異端児的なお城といえば、愛媛県にある今治城。なんと水堀にサメが泳いでいるんですね。海に面した場所に築かれた今治城はいわゆる海城です。築いたのは築城名人で知られる藤堂高虎。水堀が海と通じていて海水のため、水堀にはサメなど、海の魚たちが泳いでいます。サメのほかには、スズキ、クロダイ、ボラ、サヨリ、コノシロ、コモンフグ、ヒラメ、ウマヅラハギなどなど。現在は大分県の中津城と香川県の高松城とともに、日本3大水城(みずじろ)に数えられています。

コスパが悪かった江戸城

お城の天守は権力の象徴でもありました。「大きいに越したことはない!」が基本。江戸幕府を開いた徳川家康。260年余り続く江戸時代の権力のトップが徳川家です。その徳川家の城、江戸城。この江戸城、実にコストパフォーマンスが悪かった。その理由は、実は家康、秀忠、家光と、代替わりごとに天守を新築していたからなんですね。自分の家に例えても分かりますね。おじいちゃんからお父さん、お父さんから自分へと代替わりする度に、家を建て替えたようなものです。天守も、家康時代、秀忠時代、家光時代と、全部場所も違うし、デザインも違ったそうなんですね。これは大変な工事だったと思いますよ。そして三代目家光の天守は、1657年の明暦の大火で焼失してしまいます。

現在、江戸城の跡地には天守台だけが残っています。あそこには、実は四代目の天守が建つ予定だったんですけども、江戸の町の復興を優先したため建てられることはありませんでした。その後、三代将軍家光以降の江戸城も、何度も火災に会い、本丸や二の丸の御殿を消失しています。

また、戊辰戦争の際には、江戸城を巡る戦争が起こりそうになりましたが、直前に西郷隆盛と勝海舟との間で「江戸無血開城」が決定され、江戸城が戦火に巻き込まれることはありませんでした。現在は桜田門や田安門、清水門などが残っています。また、富士見櫓(やぐら)や伏見櫓などは、関東大震災で倒壊したものの、解体した資材を利用して復元再建されて残っております。

お城の雑学

【五稜郭】
江戸時代後期の1857年から築城が始まった北海道函館の五稜郭。五稜郭は変わったデザイン、星形をしています。これは日本式の城郭ではなくて、ヨーロッパ式の城郭なんですね。何で星形をしているかといいますと、星形の先端に大砲などを設置することで、攻め込んできた敵に対して、死角を作らずにさまざまな角度から砲撃できるんですね。なので、早くから大砲が使われていたヨーロッパで普及したデザインなんですね。ちなみに天守や櫓のような高さのある建物は敵の砲撃の的になるため、作らない方がいいんですね。ただ、この五稜郭が戦いに巻き込まれた「戊辰戦争」の時、本来は砲撃に強い五稜郭でした。しかし、何をどう間違えてしまったのか、城内の中心に建てられた奉行所に高さ16.5メートルの太鼓櫓(たいこやぐら)を造ってしまったんですね。なので、新政府軍の砲撃の的になってしまい、あえなく開城へとつながってしまいました。

【龍岡城】
長野県にも「五稜郭」があります。そのサイズは函館の五稜郭のおよそ1/7。龍岡城(たつおかじょう)や、龍岡城五稜郭と呼ばれているこの城、海から10キロ以上も内陸にあるんです。もう海から砲撃される心配はありません。それなのになぜこんな場所に? これは造ったお殿様、松平乗謨(のりかた)という方が、西洋兵学のオタクだったからなんですね。ちなみにこの松平乗謨という方は、勝海舟の前任の江戸幕府の陸軍総裁。つまりは陸軍のトップだったお方なんですね。さらに明治時代以降は大給恒(おぎゅうゆずる)と名前を変え、日本赤十字社の前身となった「博愛社」の創設者の1人でもあります。

【足利市館】
足利といえば室町幕府の将軍の名字ですが、その由来は、下野(しもつけ)、現在の栃木県の足利です。その子孫にあたるのが室町幕府の初代将軍「足利尊氏」です。お城のスタイルとしては、鎌倉武士の“方形館”のような形をしています。方形、つまり上から見ると四角形で、その周囲を水堀と土塁で囲んだシンプルなものです。現在、日本100名城に選ばれていますが、見た目は完全にお寺。足利家は、鎌倉時代は鎌倉に、室町時代は京都に拠点を移したため、足利市館は館として使われなくなっていきまして、現在は鑁阿寺(ばんなじ)というお寺として残っております。


今回は「知られざるお城物語の巻」でした。この辺りでお別れです。歴史ナビゲーターのれきしクンでした。また、あなたの紡ぐ歴史の中でお会いしましょう。


【放送】
2022/12/27 「誰かに話したくなる日本史」

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