
戸田修一(71)は、15歳で海に出て、漁師一筋に生きてきた。兵庫・明石浦漁業協同組合によれば、鯛(たい)の水揚げ10年連続1位を記録する浜きっての腕利き。
その人柄は、実に明るい。網を仕掛け、鯛が1匹もかかっていなくても、「はい、0点」と笑う。そもそも戸田が手がける伝統の吾智網漁(ごちあみりょう)は、名人といえども10中7回は空振りという難物。40メートルを超す長大な網を鯛が生息する磯などのギリギリに網を落とすことができれば「一網打尽」で大漁となるが、潮の流れを少しでも見誤ったり、網を落とすタイミングを間違えれば、1匹もかからないばかりか、磯に網が引っかかり破れてしまうバクチのような漁だ。
しかも、ロケで同行した日は風が強く、まれに見る不漁。5時前に出港し、2時間、網をかけ続けたものの鯛はかからない。それでも戸田に焦る素振りは見られない。「果報は寝て待てで、お茶でも飲んで、パンでも食ってからにしよう」と、妻が焼いたトーストを悠然と食べ始めた。
なぜ動じないのか。その理由を問うたところ返ってきたのが、この流儀だった。
「じわっと待っとくか、待たれへんかいうとこや。船の中に魚が入ってなかったら焦って、はよ網やって、はよ獲らんならんと焦るやろ?それが失敗。焦ったら焦るほど、だんだん悪なってくるもんな」。
戸田は若い頃はとても短気で、焦って網を投げては磯にひっかけ破ってばかり。鯛を1匹も持ち帰れない日もざらだったという。鯛をセリにかける漁師仲間を遠目に見ては、「なんでやろな・・・」とみずからを責め、枕を涙でぬらしたこともあった。
そんな戸田を支えたのが妻・悦子さんだった。サラリーマン家庭に育ち、親の大反対を押し切って嫁いだ漁師の家で、愚痴ひとつ言わずに夫を支え続けた。子育てをしながら、毎日、夫の帰りを港で待ち続け、「今日もあかんかった・・・」と肩を落とす夫にひとつの言葉をかけ続けた。
「夜明け前が、一番暗いんよ」
それは戸田にとって、かけがえのない言葉となった。洋上でその言葉を思い出すたびに、戸田はみずからに「じわっと待つ」ことを課し、焦って網を投げることを自重した。ひたすら潮の流れを観察し、漁が失敗したポイントを頭にたたき込んでは、鯛が好みそうな場所をひとつひとつ明らかにしていった。30年の辛抱の末、戸田は100か所以上のポイントを突き止め、潮見表に頼らずとも潮の流れを見極める“眼”を持つに至った。
20歳から30年間、「名人」と呼ばれるまで、辛抱に辛抱を重ねてきた半生を振り返り、戸田はこう語る。
「石の上にも3年やけどな、わいには30年かかったわ。長いけんど、それから20年ほどはだいたい充実してきたな思うとるからやな。人生、25年ずつ3つに区切ったらええのや。初めの若い25年はがむしゃら、次の25年は勉強して、あとの25年はゆとりになってったって考えれば、人生満足や思うわ。どんな職人だってそうやがな。そんな端から端まで充実した人間なんかおれへんもんな」。
15歳で漁師になって半世紀 ハチマキがトレードマークだ
もの言わぬ海の“表情”を、戸田は読み解く
桜色に輝く明石の鯛 その美しい容姿にひかれ、
戸田はこの道に入った

松本秀樹(43)は、「いま築地市場で最もいい魚を仕入れる鮮魚商」と言われる。
東京の下町・根津に構える店は小さく、目立った看板もない。それでも、東京のみならず、関東一円から客が訪れ、全国から贈答品の注文が舞い込む。口をそろえて客が語るのは、「少々値段が高くても、本当においしい魚を食べたい」という言葉。街の鮮魚店が姿を消すなか、その期待に応える店として客を集めているのだ。
売っているのは「根室産・最高級の紅鮭1切れ1000円」など、確かに値は張る。だが、いずれも松本が築地市場で選び抜いた極上の魚ばかり。そのこだわりは、いい魚がなければ仕入れをしないほど。店頭に干物しか並ばない日もあるという。例えば、売れ筋の鮪(まぐろ)といえども、納得いくものがなければ妥協して買うことはしない。鮪好きの客から「今日もないの?!」と詰め寄られようとも、「いい鮪がなかったんで」と潔く頭を下げる。この正直な姿勢こそが、客から信頼される秘けつなのだ。
その松本が胸に刻むのが、「一の線だけ」という流儀。
「昔、言われたことあるんです。こんなにいいものばかりそろえて、ただの自己満足じゃないか。お客さんのことを考えているのか?って。僕はお客さんのことを考えているから、“二の線”を買って来ないだけなんですけど。“一の線”しか必要ないです」。
頑ななまでに、最高の魚にこだわる姿勢は、父・二朗さんから受け継がれた。松本は北海道・旭川にある鮮魚店の長男として生まれたが、「魚屋は格好悪い」と18歳で家を飛び出した。だが、1年で夢破れて帰国。進むべき道を見失い、悶々(もんもん)と過ごしてある日、見慣れていたはずの父の店に衝撃を受ける。父は最高の魚だけを選び抜き、愛情たっぷりに魚を売っていた。そして、松本にこう語った。
「魚屋は、芸術だ」。
「父のようになる」と決めた松本は早かった。質にこだわる東京の高級鮮魚店に就職し、目利きを一から学んだ。寝る間を惜しんで仕込みを突き詰め、どうしたら魚のおいしさが引き出せるのか、試行錯誤を繰り返した。1年で店長に抜てきされ、5年が過ぎたとき、突然の訃報が舞い込む。父ががんで亡くなったのだ。
父の志を継ぐために、松本は店を辞めて独立。東京・根津に出店した。そして、父のように最高の魚を仕入れ、愛情たっぷりに売った。だが、「高すぎる」と客からは敬遠され、魚は売れ残るばかり。手持ちの資金は減り続け、買いつけられる魚は限られていく・・・。2,000万円の借金を抱え、廃業寸前。「あの店は1年もたない」と、ささやかれた。
だが、ここで“二の線”に手を出せば、父のようにはなれない・・・。松本は意地でも“一の線”だけを仕入れ続けた。
その姿勢が徐々に客の信頼を集め、今では「日本一の魚屋」との呼び声も高い。だが、松本の視線は常に、尊敬してやまない“あの人”に向いている。
「お父ちゃん見てみろよ、すげえだろ?って思うときもあるんですけども、だいたい鼻で笑われているような気がします。まだまだ、まだまだです。本当、まだまだです」。
宝石のように魚が並べられたショーケース
魚臭さがないのが最大の特徴だ
築地市場で目を光らせる松本 “一の線”だけを狙う
シマアジのウロコをそぎ落とす 仕込みは最も大事な仕事だ

「日本一の焼き魚」。そう称される魚を焼く凄腕の料理人が宮城・気仙沼にいる。村上健一(65)。
昔ながらの囲炉裏にこだわり、炭火をふんだんに使って焼き上げる魚は、皮はパリパリ、身はしっとりふっくら。一口入れたとたん、食べた人は表情がほころばせる。店のシンボルともなっているキチジにいたっては、1時間近く火を通して、うまみをじっくりと引き出していく。
だが、村上は3年前、東日本大震災で津波で店を失った。誰もが「廃業」を覚悟したというが、村上は違った。損壊した店の入口に、看板を立て、戦闘宣言に替えた。
「当店、このたび津波様のご来店により、このありさまとなってしまいました。幸い、一同、みな元気です」。
村上は営業再開に向けてすぐさま動き出した。「流されっぱなしで終わるのは、何か違う」と、まだ使えるものは川に運んで塩を洗い流し、道すがら損壊した家屋を見つけると梁(はり)を再利用させてもらえないかと頼み込んだ。街全体の復興が遅遅として進まないなか、1年半で店を再建し、営業再開にこぎ着けた。店の場所は震災前より道1本分、海へと近づいた。
夜、気仙沼湾の海辺には、村上の店の灯りがぽっかりと浮かぶ。海に向けて屹立する村上の店は、「何事にも屈しない」という村上の強い意思を示しているかのようだ。
その村上が震災を経て強く意識するようになったことが、「命あるものを頂く」ということ。
「この魚だって朝まで兄弟と一緒に泳いでたんだよな。それが突然網か何かわかんないものが『ゴー』ってやってきて、知らないうちに、あれよあれよっていううちにすくいあげられて、あっという間に死んじゃって。人間だって、死は突然訪れるんだろうって自分では思ってんだよね。だから無駄にしないで食べる。食べる方の気持ちもそういう受け止める気持ちがないとダメなんじゃないかなと思う」。
囲炉裏の前に立つ村上 その眼光は常に厳しい
炭をふんだんに使って特製の囲炉裏でキチジとカレイを焼く
焼き上がったキチジ 皮は香ばしく、身はふっくらもっちり