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これまでの放送

第214回スペシャル 2013年10月21日放送

プロフェッショナル ザ・レジェンド 僕は、のび太そのものだった 漫画家・藤子・F・不二雄



たくさんの“おもしろい断片”を持つ

17年前にこの世を去った、漫画家 藤子・F・不二雄こと藤本弘。その書斎には、1万点以上の「遺品」が残されていた。藤本が46年に及ぶ漫画家人生で参考にしたアイデアの元だ。藤本はこれをお話の「断片」とか「タネ」と呼び、それをどれほど多彩に持ち合わせているかが漫画家の生命線だと考えていた。
その中身を見ると、子どもの頃から大好きだったという落語のテープ、古今東西の映画のレーザーディスクやビデオテープ、科学や歴史の専門的な本まで驚くほど多彩だ。こうした断片を、子どもの頃から保ち続けたみずみずしい感性と藤本ならではの独創力で窯変させ、子どもから大人までを夢中にさせる、藤子・F・不二雄ワールドを紡ぎ出していた。

写真遺品を管理するミュージアムの棚はさながら藤本の脳内のよう


漫画家は、普通の人であれ

不規則で過酷な生活を送るイメージがある、漫画家。だが藤本は最盛期、月に10本以上の締め切りに追われながらも、出来るかぎり家に帰ることを心がけ、家族とともに過ごす時間を大切にしていた。その生活は驚くほど規則正しいもので、事務所に到着する時間が10分ずれるだけでスタッフたちが「先生に何かあったのではないか」と心配するほど正確なものだったという。日曜日は出来るかぎり自宅で過ごし、三人の娘たちとの時間を大切にする生活を送った。
藤本はこう語っている。「人気漫画を、どうやって描いたらいいのか。そんなことが一言で言えたら苦労しないのですが、ただ1つ言えるのは、普通の人であるべきだということです。体全体からにじみ出た結果としての作品が、読者の求めるものに合致したときに、それが人気漫画となるわけでありまして、つまり、大勢の人が喜ぶと言うことは、共感を持つ部分がその漫画家と読者の間にたくさんあった、ということです。だからまず最初に普通の人であれ、というのはそういう意味なんです」

写真朝食では三人の娘たちのパンをチェック柄やしましま模様に塗りわけて楽しませた


自分が楽しみ、読者が楽しむ

国民的漫画「ドラえもん」が誕生する前年の昭和44年。藤本は深い悩みの中にいた。
藤子不二雄こと安孫子素雄との共著「オバケのQ太郎」は社会現象にもなるほどの大ヒット。だが、その「オバQ」の成功をひきづり、なかなか枠を脱せない。
藤本は当時をこう振り返る。
「やはり殻をやぶる努力が必要になってくるんですけど、オバQとかああいうものばかりやってて、それの枠から出るのは怖くてしょうがないんです。今までこういう描き方でやってて受けてたんだから、それを踏み外すと言うことは受けなくなると言うことで大変恐ろしいことなんです」
だが、編集者に促され、大好きだったSFをテーマに、大人向けの漫画を描いたとき、藤本の中で1つの気づきが生まれる。それは、「自分が描きたいものを描くのが漫画」だということ。
周りからの目よりも何よりも、自分の心の赴くままに描くことが面白い漫画につながる。その2か月後、苦心の末、藤本は「ドラえもん」を生み出す。
藤本はドラえもん第1巻の巻頭にこんな言葉を残している。
「僕はとても楽しくドラえもんを書きました。みなさんにも楽しく読んでいただけたらうれしいと思います」

写真『オバケのQ太郎』の大ヒットの後、藤本は人気漫画家故の葛藤を抱えた


プロフェッショナルとは…画像をクリックすると動画を見ることができます。

漫画家がベテランになると、コツがわかってきます。このときが一番の危機なのです。自戒の意味も込めていうのですが、漫画は1作1作初心に帰って苦しんだり悩んだりしながら描くものです。お互い頑張りましょう。(スタッフに宛てたメモより)

漫画家 藤子・F・不二雄