スマートフォン版へ

メニューを飛ばして本文へ移動する

これまでの放送

第194回 新春スペシャル 2013年1月3日放送

四百年を背負い、“今”を焼く 樂家十五代 樂吉左衛門



伝統と革新の振り子運動

樂には、茶碗(ちゃわん)の制作を行う際の、一つのルールがある。前衛的な茶碗を作るとき、必ず同時に、樂家代々が作ってきた伝統的な樂茶碗も作るという。そこには、伝統を継承するという「場所」から、新たな地平に挑み続けてきた樂ならではの哲学が包含されている。
「伝統だとか、歴史だとかそういうものに逆らわないで、それをきちっと背負って、自分なりの仕事をしようっていう。そういう仕事を一方でしていて、時々『ガンと壁をぶち破ってしまって向こう側に出てしまいたい』っていう、強い反動みたいなものがあって。そのエネルギーがたまっていくと、本当にバンって爆発する。振り子のようにジグザグに歩いて行こう、っていうのが僕のスタイルというのかな。」
前衛的なスタイルのみを繰り返していると、さらに新たなスタイルへと挑み、跳躍しようとするパワーが次第に得にくくなる。樂は、その課題を『一度伝統に立ち返る』という方法で乗り越えるのだ。

写真


火に、託す

焼き物は最後に、「焼く」という行為を必ず経る。樂はそのことが、絵画や彫刻といった他の芸術と、焼き物とを大きく分けると考える。
「努力して、ときには緊張して、自分の意識も一生懸命研ぎ澄まして作り上げたものが、自分の意識の世界だけではなくて、最後は、自然そのものにそれを『差し出す』というか、『託す』っていうのかな。ふかしすぎた自己意識をすうっと消してくれて、そこに火が与えてくれた新たな命というか、新たな表現がそこに加わって、自分の『意識』と『自然』とが、すごく幸せな形で手を結ぶ。そのときこそ、いいものができるんですよね。」
ときに樂は、自らの茶碗に刻まれた自己意識が、過剰と感じることもあるという。そんなとき、人知を越えた火という存在が、その過剰さを『救ってくれる』のだとも語る。

写真
写真


“表現者”の矛盾

『激しさや存在感はありながら、自然と同化するものを作りたい』という樂の思い。しかし、土から何かを作り、何か表現をした瞬間、自然と相容(あいい)れないものになっていくということも、樂は分かっている。
「土のままでいいじゃんかっていう話ですよね。でもやっぱりそこにどうしても自分が『黒くしたい』という強い意志が、自分の表現がやっぱりあるんですよね。だから表現というものに関わっている限り、『自己』っていうのは手放せないし、自然と一体になるといっても距離がある。どうしても生じる裂け目がある。
表現にこだわってきたし、同時に自分にこだわってきたけれども、もういいよねっていう。でも、その引き方が分からない、どうしても。
僕には、まだ一方(の手)では表現者である自分を必死に捕まえている。(でも)こちらの手では放したいって思ってる訳や。これどうしたらいいの、っていう話になるんですね。」

写真


ただ一途に“今の自分”を焼く

400年前、それまでの茶碗とは方法論も技術も哲学も異なる長次郎の茶碗は、「今焼茶碗」と呼ばれたという。
樂家十五代樂吉左衛門もまた、“今”を焼く。
「要するに『今』しか分かってないんですよ、自分はね。この今。それしか無くて。自分の過去の茶碗でも、20歳のとき、30歳のときってありますけどね、そのときの『今の自分』ていうんですかね、それがちゃんと乗っかっている、というのはやっぱり、いい茶碗かなって思いますね。」
さまざまな苦悩、葛藤、あるいは喜び。茶碗は、そうした『今の自分』を写し出す、鏡のようだと樂は常に語る。だからこそ樂は、『今』に全てをかけるのだ。

写真


番組に登場した樂さんの作品

焼貫黒樂茶碗
「砕動風鬼」
1990年

写真


焼貫黒樂茶碗
「峨々幽晦 黒き山出ず」
2001年

写真


焼貫樂茶碗

「白駱」
1986年

写真


焼貫黒樂茶碗
「女媧」
1993年

写真


焼貫黒樂茶碗
「涔雲に浮かんで」
2003年

涔雲は風を涵して谷間を巡る
悠々雲は濃藍の洸気を集めて浮上し

写真


赤樂茶碗
「常初花」
1980年

写真


プロフェッショナルとは…画像をクリックすると動画を見ることができます。

そんな特別な隔たりはありません。プロフェッショナルなんて、いませんわ。・・そんなものはいません!

樂家十五代 樂吉左衛門