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これまでの放送

スペシャル 2012年4月16日放送

絆が、希望を創り出す 困窮者支援・奥田知志



絆で、心を支える

大震災発生から3週間、奥田は地元北九州から宮城県入りした。奥田はすでに、ホームレス支援の全国ネットワークと地元九州の生協の協力を得て、被災地での物資支援体制を整えていた。そして、小さな避難所など「公的な支援の網の目からこぼれおちる人々」に向けた支援に乗り出した。この先、自分たちに何ができるか。奥田はこの問いを胸に、石巻市の中心部から離れた牡鹿半島の小さな集落を訪れ、ある夫婦と出会う。仲間を失い、生活の糧であるカキ養殖の道具も船もすべて津波に流された厳しい状況の中で、夫婦が心の拠り所(よりどころ)としていたのは、見知らぬ誰かからの1通の絵手紙だった。
これまで23年間、ホームレスになった人々を社会復帰へと導いてきた奥田。人を支えるとき、何よりも大切だったのは、ひとりひとりと絆を結ぶことだった。被災地で夫婦を励まし続けているあの絵手紙のように、自分もこれまでの経験を総動員し、絆で被災地の人々を支えよう。奥田はそう決意する。

写真大分からの支援物資に添えられていた絵手紙


受け手も、人を支える役割をもつ

支援活動の難しさは、ときに受け手が支援を重荷に感じてしまう点にあると奥田は考える。一方的に支援を受け続けるだけだと、人はありがたいと思うと同時に「重たい」「つらい」と感じるようになってしまう。本当の意味で人が元気になるためには、支援を受けることで「自分は大切にされている」と感じるだけでなく、逆に誰かを支えることで「自分は誰かの役にたっている」と感じられることが大切だと奥田は信じる。

奥田は、地元北九州にて、震災の影響で避難してくる人々を受け入れる「絆プロジェクト北九州」を、行政などと連携して行なっている。この冬、福島からの移転を決意した母子を受け入れた。福島で生まれ育った母子は、親類や友人と別れて新天地でゼロから再出発する。とくに高校生の長男は、環境が激変する中で将来の進路に迷っていた。奥田は、長男にあるひとつの提案をする。それは、彼が得意とするピアノのコンサートを開き、逆に北九州の人々を励ましてほしいというものだった。

写真漁の復興で新たな仕事を作り、多くの人を助ける

写真新天地で新たな役割を果たす


放送されなかった流儀

絆は、傷を含む

奥田が「絆は、傷を含む」と考える原点には、自らの母親との関わりがあった。
奥田は中3のとき、母に買ってもらった大切な自転車を立て続けに盗まれたことがある。母に言い出せず、ついには人の自転車を盗んでしまった。だが警察署に呼ばれたとき、母が自分のしたことで激しく叱られた姿を見て、自分がどれだけ悪いことをしたかを痛感したのと同時に、いかに自分が愛されているかにも気づいた。
今、奥田には妻と3人の子どもがいる。震災後、東北や東京での活動が増え、家族とすごす時間は少なくなった。そもそも家族というものは、すれ違ったり、互いに傷つけ合ったり、ときに相手を裏切ったり逆に支えきれなかったりすることもある。だが、それでも一緒に生きる。そこには真実の絆があると、奥田は感じている。

写真
写真互いを受け入れ一緒に生きていく


出会った人に、全力を尽くす

奥田は、被災地で直接出会った人々に特化した支援を行なおうとしている。
1人で何百人をも支援しようとする前に、目の前のひとつの出会いにこだわり抜いて向き合うことで、より強い絆が生まれる。
そして、このような小さな出会いが世の中にたくさん増えれば、たくさんの人が救われるはずだと奥田は考える。
「私は1人でいいんです、1人でも2人でも、出会った人と一緒に歩んでいけるかというだけで」。