3月27日(火)放送の宮崎駿さんの回を担当したディレクター、荒川と申します。僕は去年4月から3か月半、宮崎さんのアトリエに通って、新作映画「崖の 上のポニョ」の準備作業を取材しました。「イメージボード」と呼ばれる作品の鍵となるシーンやキャラクターなどを描く現場にカメラが入るのは今回が初めて のことです。なぜ、この取材が可能になったのか。そして、どのように行われたのか。今日から数回に分けてご紹介していきたいと思います。
すべては1つの出会いから始まりました。それは去年初めに「プロフェッショナル 仕事の流儀」で取材したスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサー。ジブリは当時、宮崎吾朗監督「ゲド戦記」の制作真っ最中。宮崎駿さんの姿は見えなかった のですが、番組としては鈴木プロデューサーと宮崎駿監督のツーショットのシーンをぜひとも撮りたい…。僕は正直に鈴木さんに打ち明けました。すると鈴木さ ん、連日の密着取材に飽きていたところに渡りに舟!とばかりに「いいよ」とのこと。
早速、鈴木さんと一緒に宮崎さんのアトリエを訪ねることになりました。思えば、子どものころに「天空の城ラピュタ」を見て以来、宮崎さんははるか彼方の雲 の上の存在でした。そんな宮崎さんに会える…。僕は極度に緊張していました。初めてお会いした宮崎さん、その第一声は「あぁ、どうも」でした。その印象は 話好きなおじさんでした。1つ質問すれば、その20倍の量と密度で答えが返ってきます。
例えば「鈴木さんはどんな存在ですか?」と問えば、第一印象から始まり、この30年間の歩み、そして鈴木さんの生い立ち(メンコが強かったらしいとか)ま で、怒どうのように話が続きます。もはや、インタビューとしてではなく、話をすること自体が楽しくなり、僕は毎日のようにアトリエに通うようになりまし た。そのうち宮崎さんからこんな話を聞かされました。
「海が盛り上がる様子を、災害にせず、描くにはどうするんだろうねえ…」
そのとき僕は、宮崎さんが次回作の構想を練っていること、そして、舞台が海であることを知りました。その後、鈴木さんとの話し合いのなかで、宮崎さんの次回作の準備作業を取材するという話が浮上してきました。
当時、宮崎さんは65歳。まだまだ健在とはいえ、次回作が「引退作」になる可能性も少なからずありました。ありのままを取材して、宮崎さんの映画作りの現 場を記録する。その覚悟をもって、鈴木さんの番組の編集作業が終わった去年4月、宮崎さん本人から取材許可をいただくために、初めて訪ねたときと同じよう に、アトリエに向かったのでした。
次回作の準備を始める宮崎駿監督に取材を申し込むため、スタジオジブリの社長を務める鈴木敏夫さんと、宮崎さんのアトリエを訪ねたのは、去年4月初めのこ とでした。穏やかな陽気に包まれた春らしい日でした。2か月ぶりにお会いした宮崎さん。第一声はいつもの「ああ、どうも」でした。僕は正直、「覚えていて くださったんだ」と嬉しい気持ちになりました。
席につくなり、鈴木さんが切り出しました。「荒川君が宮さんの新作の準備作業を取材したいって言うんですよ」。カメラ嫌いで知られる宮崎さん、すぐさま 「いやぁ…僕は」と笑ってお茶をにごす。何度お願いしても、宮崎さんは首を振ってはくれません。僕は頭を下げながら、「千と千尋の神隠し」で、千尋が湯婆 婆に「ここで働かせてください」と言い続けるシーンを思い出していました。
やがて宮崎さんから、意味深な言葉が漏らされました。「仕事に来るつもりで来られたら困りますよ」。それを見逃さず、鈴木さんが「じゃあ、書生として置い たらどうですか?」。僕もすかさず「書生として置かせてください」。とにかく中に入れさせてもらえれば何とかなると思ったからこそ出た言葉でした。
宮崎さんから出された条件はひとつ。それは、取材者はひとりのみということ。複数の人間がアトリエに出入りすることを宮崎さんが嫌ったからです。かくし て、取材は僕が小型ビデオカメラにて行うことになりました。通常、ロケはカメラマン・音声マン・ディレクターの3人1組で行われます。しかし、今回はカメ ラを自分でふるだけでなく、現場で迷ったとき、ともに悩み、考えてくれる心強い仲間がいないわけです。宮崎さんと相対し、何を撮るかも1人で決めていかね ばなりません。しかも相手は巨匠・宮崎駿さん。どんなことになるか、想像もつきません。「ちゃんと番組になるのかな」。それが正直な思いでした。
しかも、鈴木さんの話では、いつ宮崎さんが機嫌を損ねて取材ができなくなるか、分からないとのこと。それは大きな恐怖として、僕につきまとうことになりました。
そして、2006年4月8日、僕はカメラを片手に、宮崎さんのアトリエの前に立ったのでした。
取材は2006年の春、宮崎さんのアトリエで始まりました。「ハウルの動く城」から2年、宮崎さんはアトリエで穏やかな日々を過ごしておられました。
10時過ぎに出勤され、アトリエの窓を開けて、一杯のコーヒーをいれ、道にベンチを出す。日中はロバート・ウェストールさんというイギリスの児童文学作家 が書かれた小説を紹介する漫画を心静かに描いていました。時折、雑談を交えながら、僕は宮崎さんと1対1で向き合ったのでした。
宮崎さんのもとには、たくさんの取材依頼などが寄せられているようでした。しかし、そのほとんど全てを断っていました。それは「風の谷のナウシカ」以来、 映画がヒットし、その規模が大きくなるほどに、宮崎駿監督個人に注目が集まるようになり、かえって宮崎さんには世間に出づらい状況が生まれていたからで す。例えば、見知らぬ人に声をかけられたり、畑で車に追いかけられたり…。恥ずかしがり屋だという宮崎さんにとって、どれほど耐え難いことだったか。
「しばらくテレビにも出なかったから、また静かになった」と穏やかに話される宮崎さんと接しながら、僕はこの番組によって、またつらい目に合わせる取材をしているんだと、この仕事の意味を考えたりしました。
そんなとき、宮崎さんからかけられた言葉があります。
「君は最後の宣教師だよ」。
外界との接触を避けている宮崎さんはいわば「鎖国」状態にあり、僕はそこにやってきた「宣教師」というわけです。僕はできる限り、「取材」を忘れて、融け 込むことを心がけました。ひとつのヒントとなったのは、記念碑的なノンフィクション「自動車絶望工場」です。著者が工場に潜入し、実際に体験したことをつ づったもので、取材を始める際に、以前、雑誌記者をしていたスタジオジブリの鈴木敏夫さんから心構えとして教えていただいたものです。
アトリエの窓開け、そしてベンチの出し入れなどを手伝ったり、仕事を忘れて雑談にふけったり…。それは取材者としての距離の保ち方というものからはひょっ としたら逸脱していたのかもしれません。でも、この方法によってしか、世間的には「神格化」されつつあった素顔の宮崎さんに迫ることができないと考えた し、それが何よりも自分にとっても刺激的であり、楽しい日々だったのです。
僕は宮崎さんのことを聞くだけでなく、自分の内面も隠さず打ち明けるようになりました。ちょうど取材中に自らの「結婚」という一大事が重なったこともあ り、宮崎さんに色んな相談にも乗っていただきました。例えば家探し。宮崎さんから「子育てするならば、どんなに狭くても土が見えるところがいい」と諭さ れ、都心でアパートを探していた僕は本気で怒られ、「荒川君を見損なったからもう来なくていい」と言われたりもしました。(結局、土が見える家を探しまし た)
取材者と取材対象者の密接な距離。取材はいつしか、3か月を過ぎ、新作「崖の上のポニョ」のイメージボード作りも佳境を迎えていました。そんなある日、宮崎さんからこんなことを言われました。
「今はまだ映画に集中してないから、荒川君の相手してるんだ」
いつまでも幸運な時間がつづくわけではない…。その予感は取材終盤、まさに現実となるのでした。