2020年3月23日

立憲民主党 国会対策委員長

安住淳さんの「被災したふるさと思う季節の味」

2020年3月23日

3月中旬のとある日。
国会内の1室に、食堂から食事が運ばれていきました。

部屋のあるじは、立憲民主党の国会対策委員長、安住淳さん(58)です。

国会審議全般について他党と調整を行う国会対策委員会、通称“国対(コクタイ)”。安住さんは、これまで“国対”の役職を多く務めてきました。この“国対”の部屋は、通算すると7年以上も使っているんだとか。

「民主党政権で与党だった時もこの部屋。俺が死んだら化けてこの部屋に出るくらいだと思うよ」

そして昔から変わらないのが、食事をしながらのお昼の打合せです。この日も、同じ会派の“国対”のメンバーで、今後の国会戦略を練っていました。

メニューは、定番のカレーライス。そしてさらにもう1品。この緑色のネバネバしたものは?

「地元、宮城県産の『めかぶ』、わかめの根っこの部分ね。2月になるとわかめ漁が始まり、出荷したあとに残った根っこの部分を自分たちで食べてたのよ。だから『めかぶ』は三陸の春の味。わが家では、“青い納豆”って言って、ご飯にかけて食べてたね」

コリコリした食感と、ネバネバのバランスがたまらないんだそうです。
でも、このめかぶ。食べるたびに、脳裏に浮かぶ出来事があるそうで。

「東日本大震災が起きた3月、ちょうどめかぶを食べる時期なんだよね。あの時の印象があるから、つらい部分もあるよね」

震災が発生した時、まさにこの部屋にいたという安住さん。あの日の衝撃は、生涯、頭から離れることはないと言います。

「突然ぐらっときて、机の下にもぐったよ。関東地方で大きな地震が起きたと思ってね。その後、テレビをつけたら、実は東北だって聞いて真っ青になって。テレビの中継で津波の映像を見て、『早く逃げろ!!』って、ここで叫んでたよ。テレビの前でね」

道路が寸断され、すぐに地元に入ることができませんでした。電話もつながらず、両親の安否も不明のまま。連日、この“国対”の部屋に張り付き、夜中まで情報収集にあたりました。

ようやく地元・石巻に戻れたのは発災から6日後のことだったと言います。

「まずは避難所を回って、連絡が取れていなかった両親を探してさ。2日目に見つかってホッとしたんだ。
でも、友人も身内もずいぶん亡くなっててさ。悲しくてつらい思いをたくさんしたよ」

あまりの被害に途方に暮れながらも、地元の人どうしで助け合い、なんとか日常を取り戻したんだそうです。

「対策本部を作る市役所にもボートで行くありさまでね。自宅も事務所も2メートルくらい水が上がってね。地元の商工会の若い人たちがきれいにしてくれたんだけど、業務が再開できたのは10日後くらいだったかな」

あれから9年。
大切な人たちを失い、地域が一変してしまった痛みが癒えることはありません。
ただ、ふるさとは、人も自然も少しずつ歩みを進めてきたと振り返ります。

「失ったものが返ってくるわけではないし、人口も減った。でも、地元ではことし1月には仮設住宅がなくなり、復興が進んだところもある。このわかめも震災の次の年はとれなかったけど、海はたくましくて、2、3年後にはいいわかめが採れるようになった」

最後に一問、聞かせてください。
安住さんにとって、東日本大震災とは。

「人生でこれ以上の惨劇に直面したことがなかったし、普通に生活できることが、実は大変なことだと感じた。俺の政治を見る目も変わった。最後はやっぱり政治が何とかしなきゃいけない。そういう思いで今も頑張っているんだ」

被災したふるさとを思う季節の味。

ごちそうさまでした!