ルバチョフ氏 領土問題
解決を模索の考え 外交文書

公開された外交文書で1988年、当時の中曽根前総理大臣が、ソビエトのゴルバチョフ書記長と会談した際、「平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本に引き渡す」とした1956年の日ソ共同宣言を基礎に北方領土問題の前進を求めたのに対し、ゴルバチョフ氏から問題解決を模索する考えを引き出していたことが明らかになりました。

外務省が25日公開した6000ページ余りの外交文書のうち、1988年7月、前の年に総理大臣を退任した中曽根氏と、当時のソビエトのゴルバチョフ書記長との会談の記録では、北方領土問題をめぐり、意見を交わしたやり取りの詳細が記されています。

この中で、中曽根前総理大臣は「われわれは、まず戦後の日ソ関係がどこからできたか、その基礎に何があったか、原点たる日ソ共同宣言に戻るべきではないか」と述べ、「平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本に引き渡す」とした1956年の日ソ共同宣言を基礎に北方領土問題の前進を求めました。

これに対し、ゴルバチョフ書記長は「共同宣言で、ソ連は日本との関係正常化のために歩み寄り、2つの島を返そうという立場をとった。しかし、日本は4島返還を要求した。ソ連は善意を示したが、日本はこれを受け入れなかった」と述べ、いったんは反論しました。

一方、中曽根氏は、「領土が直ちに返ってくるとは思っていないが、よく研究してほしい」と述べ、ゴルバチョフ氏にたたみかけました。これに対し、ゴルバチョフ氏は、「われわれのアプローチの違いはある。しかし、何とか何かを考えださねばならないと思う。お互いにどうすればよいのか、もう一度考えてみなければならない」と述べ、問題解決を模索する考えを示しました。

日ロ関係が専門の法政大学の下斗米伸夫名誉教授は「北方領土問題の交渉を含む日ソ関係が、この中曽根訪問で始まったと言える。日本の論理を、ソ連の当時の書記長が初めてきちんと聴き、領土問題を考えるきっかけになった」と述べ、ソビエトの最高指導者が、北方領土問題を議論のそ上に載せることを認めた形となり、意義があると話しています。

会談はその後、ゴルバチョフ氏の日本訪問にもつながり、交渉の進展へ期待感が高まりました。

しかし、その半年余り後にソビエトが崩壊し、その訪問が直接、問題解決には結び付きませんでした。

下斗米名誉教授は、中曽根氏の働きかけが、ソビエト崩壊の時期に近かったことが悔やまれるといいます。

下斗米氏は「ソ連が崩壊するとは、その頃、誰も考えていなかったこともまた事実だが、見極めが日本側は遅かったと思う。タイミングにきちんと応じられるかが非常に重要だ」と指摘しています。